2021 年 11 月 28 日

・説教 ローマ人への手紙7章7-13節「律法の役目」

Filed under: ライブ配信,礼拝説教,説教音声 — susumu @ 10:19

2021.11.28

鴨下直樹

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午前10時30分よりライブ配信いたします。終了後は録画でご覧いただけます。


 
 先週も紹介しましたが、我が家では最近、朝食の時に「にゃんこバイブル」という本を使って、聖書のみことばに耳を傾けています。この「にゃんこバイブル」という本は、猫の生態から聖書のメッセージが分かりやすく書かれている本です。それで、今日はそれにならって、わたしも「わんこバイブル」という本を書くことを狙ってみたいと思います。

 といっても、本当に本にしたいのではなくて、今日だけの試みです。

 7節

それでは、どのように言うべきでしょうか。律法は罪なのでしょうか。決してそんなことはありません。むしろ、律法によらなければ、私は罪を知ることはなかったでしょう。

 我が家にはさくらという犬がいます。ラブラドールレトリバーと、プードルの子どもです。いわゆるミックス犬という種類です。その前に飼っていたのは、ラブラドールでした。実は、それまで犬を飼ったことがなかった私たちは、犬のしつけに自信がありません。それで、はじめ、盲導犬のパピーウォーカーというのをしたのです。パピーウォーカーというのは盲導犬として育てられる子犬を、一歳の誕生日まで預かって、家庭で育てるというボランティアです。盲導犬協会で二か月くらいの子犬を預かりまして、それからは月に一度、盲導犬協会に通って、犬の育て方、しつけ方を丁寧に教えてもらうのです。

 盲導犬というのは、目の見えない方の目の代わりに誘導する犬です。ラブラドールはとても人懐こい犬種で、歩くのも大好きなので、その役割はその犬の特性によく合っています。犬はとても楽しく目の見えない方をガイドすることができます。でも、そのためには、たとえば人の横について歩くとか、信号では止まるとか、「マテ」という命令には従うというようなことを、子どもの時からしつけておかなくてはなりません。そこで、私たちは、犬を散歩させるときに、どんな危険があるか、何に気を付けなければいけないかを丁寧に教えてもらって、しつけていくのです。

 今の我が家の犬は、いままで飼っていたラブラドールと少し違います。とても元気がよくて、何かが目に入るとすぐに飛び出していこうとします。特に、子どもの姿と、犬が目に入ると、すぐに走って行こうとします。だから、私は常に周りを気にしながら、突然犬が走りださないように警戒します。そして、「ヒール」とか「つけ」と言うのですが、常に自分の左側にぴったりくっついて歩くようにしつけます。これを教えないと、反対車線に犬や子どもの姿を見つけると、飛び出して行こうとしますから大変なことになります。反対車線から車が来るかどうかは犬には分からないからです。今さくらは二歳なのですが、なかなかしつけが入らなくて、苦労しています。もう、犬の自我と、しつけのせめぎあいが、毎日、朝と夕方の散歩の時に繰り広げられるのです。はじめのうちはリードを持つ左手が筋肉痛になるほどでした。

 しつけは、とても大切です。犬のいのちを守るものだからです。けれども、さくらにはそんなことは分かりません。散歩するとき、犬のさくらにとって飼い主の私は、自分の行きたい方向をじゃまだてする存在以外の何者でもないわけです。

 犬はしつけなしに生きたいのですが、飼い主が来て、しつけがはじまると、突然自我が働いて、もう自分のやりたいことに心を支配されるようになってしまうのです。

 しつけは悪いものではありません。しつけをするので自我が見えてくるのです。
 
 それが、今日の9節と10節が語っていることです。

私はかつて律法なしに生きていましたが、戒めが来たとき、罪は生き、私は死にました。それで、いのちに導くはずの戒めが、死に導くものであると分かりました。

 パウロはここで、言いたいのはまさにこのことです。律法というのはしつけのことです。罪というのは、自我のことと言ってもここではいいと思います。しつけがあるから、律法があるからその反動で、自我が働くようになって、かえってそれが自分自身を殺すものになっているのだということを語っているのです。

「わんこバイブル」書けそうですかね?

 続く11節でこう記されています。

罪は戒めによって機会をとらえ、私を欺き、戒めによって私を殺したのです。

 このことは、ちょっと犬に例えて理解しようとするとかえって難しくなってしまうかもしれません。

 実は、パウロはここで旧約聖書の創世記に記されている出来事を念頭に置いて、このことを書いています。それは、創世記の3章に記されている蛇の誘惑の出来事です。 (続きを読む…)

2021 年 11 月 24 日

ざっくり学ぶ聖書入門34 ルカの福音書(1)

Filed under: 聖書の学びと祈り会 — susumu @ 20:01

2021 年 11 月 21 日

・説教 ローマ人への手紙8章14-17節「神の子どもとしての祝福」

Filed under: ライブ配信,礼拝説教,説教音声 — susumu @ 00:16

2021.11.21

鴨下直樹

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 今週から礼拝のプログラムの「聖書のおはなし」を再開することになりました。コロナウィルスのために短縮礼拝をしていますが、少しずつ戻していければと願っています。

 先ほどの「聖書のおはなし」いかがだったでしょうか。

 きれいな映像と共に、この世界を創造された神が、私たちのことをどれほど大切に思っていてくださるか、どれほど愛してくださっているのかが語られていました。

 私たちが当たり前に感じている今の私たちの生活の中に、どれほどの神の愛が隠されているかを気づかされる思いになります。

 最近、我が家では、朝の食事前に短い本を読んでいます。タイトルは『にゃんこバイブル』という本です。きれいな猫の挿絵が描かれていて、「猫から学ぶ聖書のことば」というサブタイトルがつけられています。

 私は猫派か犬派かというと、犬派ですが、この本は猫ならではの習性から、聖書を紐解いていきます。たとえば聖書の中に「放蕩息子」と呼ばれる物語があります。親元を離れて、財産を持って出て行った息子が、湯水のように財産を使い果たして、父のところに戻って来る話です。この本では、この放蕩息子の物語を猫にあてはめながら聖書を読んでいくのです。猫は家を出ていくと、どこで何をしているか分かりません。けがをして帰って来ることもあれば、どこかで何かご飯を貰ってきたかのような匂いをさせて戻ってくることもあります。どんなことがあっても、帰ってくることのできる家がある。そして、自分が失敗してきたことも、何も言わなくても受け入れてくれる。それが家族というものだと書かれていました。

 この聖書の物語に出てくる放蕩して帰ってきた息子と、猫とを比較することで、聖書のメッセージが更に具体的なものになる。そんな新鮮な気付きをこの本から与えられています。

 今日のテーマは「神さまの子ども」です。その、世界を創造された神様は、私たちをご自分の大事な子どものように、愛していてくださいます。猫のような、ちょっと何を考えているのかわからないようなところと、私たちの姿というのは少し結びつくのかもしれません。

 我が家には犬がいます。犬は比較的分かりやすい生き物です。犬の気持ちは、尻尾を見ているとわかります。尻尾を振っている時は大抵うれしい時です。これが、特にうれしい気持ちになると、尻尾の振りが速くなって、それも高い位置で振り始めます。反対に、本当に嫌な時というのは、尻尾が足の間に隠れてしまいます。「尻尾を巻いて逃げる」という言葉がありますが、まさにそんな風になります。

 私たちと神様との関係はどこで分かるかというと、祈りの姿に現れます。「天のお父さま」と神に向かって呼びかける時、それは神様との関係が良い時です。けれども、全然祈らない時というのは、神様と私たちとの関係が悪くなってしまっているのです。

 今日の聖書の箇所には、私たちがこの世界を創造された造り主であられる神に向かって「父よ!」と祈りたい思いを持つというのは、私たちの心に神様の霊である聖霊が働いていてくださるからなのだということが書かれているのです。

 しかも、15節の後半にこう書かれています。

私たちは「アバ、父」と叫びます。

 ただ、「お父さん」と神様に声をかけるというだけではなくて「叫ぶ」と書かれているのです。

 子どもが、父親に叫ぶ時というのはどういう時でしょうか。考えてみると、たとえば、公園かどこかに遊びに行っている時に、まわりに人がたくさんいて、声が届かない時です。「自分はここにいるよ!」「私を見て!」という叫びです。そして、その時には何か訴えがあるはずなのです。聞いてほしいメッセージがその時の子どもにはあるのです。

 神様に向かって、どうしても聞いてほしいメッセージがある、どうしても自分の方を向いてほしい。そういう思いをもって神に祈る。「お父さん」「パパ!」。それが、この「アバ、父」という言葉です。

 神様にむかって、何かを叫ぶように語り掛ける。そんな祈りをすることができるのが、神さまの子どもの特権なのだというのです。

 今日の聖書の箇所の中心的な言葉は、今日の冒頭の14節です。

神の御霊に導かれる人はみな、神の子どもです。

 神の子どもとしての特権は、私たちが祈る時に分かるのだということです。お祈りをすることができるというのは、神の子どもの特権なのです。

 今日は、子ども祝福式をお祝いする主の日です。親は子どもの祝福を願います。神の眼差しが子どもに向けられている。このことが祝福なのです。神が見ていてくださる。わが子のように、子どもが道を見失ってしまうことがあったとしても、子どもが自信を失ってしまうようなことがあったとしても、神はその子どもを見ていてくださる。そして、この神は、ご自身の子どもが神に向かって「父よ」と祈ることができるようにしてくださっているのです。 (続きを読む…)

2021 年 11 月 14 日

・説教 ローマ人への手紙6章23節「永遠のいのち」

Filed under: ライブ配信,礼拝説教,説教音声 — susumu @ 00:41

2021.11.14

鴨下直樹

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罪の報酬は死です。しかし神の賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。

ローマ人への手紙6章23節

 今日は召天者記念礼拝です。すでに、この世での生を全うし、今主の御前にある方々のことを覚えながら、私たちはこの礼拝に招かれています。

 ヨーロッパにある古くからその地域に建てられている教会は、その会堂の地下が墓所になっているというところがいくつもあります。礼拝堂の足下に家族が眠っているのです。それも、何百年という永い年月の家族が、そこに眠っています。

 バロック建築、ゴシック建築、もっと古いものだとロマネスク様式などという何百年にも及ぶ歴史の長さを覚える礼拝堂がいたるところにあります。

 私がドイツにいたときに、各地を旅して、そういう古くからある礼拝堂を訪ねることが、旅の最大の楽しみでした。何年も、何十年も、何百年も変わらないその礼拝堂の席に腰を下ろして、ステンドグラスを眺める。十字架を眺める。古くからそこにある教会の装飾品や建築物を見ながら、その歴史を感じるというのは、本当に豊かな経験です。

 そこで大きく深呼吸をします。私の出会ったことのない昔の信仰者の息遣いを感じるのです。その町の困難な時代に生きた人々がどんな人生を送ったのか、どんな病の時代を通り抜けてきたのか、どんな戦争を経験してきたのか、どんな貧しさをその土地の人々は味わってきたのか。私がその礼拝堂の中で、肌で感じられるものはわずかなものでしかありませんが、そういう歴史を肌で感じるという対話の中から、私なりに「永遠のいのち」とは何なのかというものに少しでも触れた気になるのです。

 以前、妻と「永遠のいのち」という言葉は現代人にとって福音なのだろうかという話をしたことがあります。聖書が語る「永遠のいのち」というものに、今の人々は魅力を感じていないのではないか。そんな問いかけです。

 私たちが死を迎えた後に、聖書が語る「永遠のいのち」という世界が私たちにもたらせてくれるものに対する魅力といったらいいでしょうか、憧れといった方がいいのかもしれません、この永遠のいのちは、私たちにどんな魅力を、そして憧れを示してくれるのでしょう。この世界のいのちが、死後にもずっと続くということよりも、「今この瞬間の美しさ」「今この時」というその一瞬の経験にこそ、今を生きる人々は魅力を感じているのではないか。そんなことを妻が話してくれました。

 その妻の指摘は、ある一面の真理を示しているのだと思うのです。そこには、「今この時」というその一瞬一瞬を大切に生きたいという、現代人の今を大切にする思いがあるように思います。そして、そのことは私たちが生きていくうえでとても大切なことだと思うのです。

 聖書は「永遠のいのち」を、どのように私たちに示そうとしているのでしょうか。

 先日ある本を読んでいたら、こんなことが書かれていました。

 「グランドキャニオンを撮影した写真は数多くありますが、どのような写真も、この地形の持つ真の魅力を伝えることはできません。グランドキャニオンは自分の目で直接見なければならない光景なのです」

 私もグランドキャニオンに行ったことはありません。写真や映像で知っているだけです。それらを見て、少し分かった気になります。けれども、実際にそこに行って見たことのある人は知っています。グランドキャニオンを実際に見たときに、そこで肌で感じる風や空気、空の高さ、圧倒的な目の前に広がる景色の壮大さ、それらは写真が伝えてくれるものと全く別物なのだということを。

 私たちが分かった気になれるのは、ごく一部でしかないのです。

 「永遠のいのち」もきっとそういうものであるに違いないのです。それは観念的にイメージできるものではないのでしょう。私たちが漠然と思い描く、この日常がずっと果てしなく続くというような永遠のいのちの世界ではないはずなのです。

 神と共にある今を、私たちはこの世で経験したものから部分的にイメージできるにすぎません。しかし、今この世から去って、自由を得て神の御前に召された方々は、いま主の御前で永遠の今を経験しているのです。

 私たちの憧れとは何でしょう? 私たちが思い描く、人生の終わりには何が待っているというのでしょう。 (続きを読む…)

2021 年 11 月 10 日

ざっくり学ぶ聖書入門33 マルコの福音書(2)

Filed under: 聖書の学びと祈り会 — susumu @ 19:30

2021 年 11 月 7 日

・説教 ローマ人への手紙7章1-6節「新しい御霊によって」

Filed under: ライブ配信,礼拝説教,説教音声 — susumu @ 00:46

2021.11.07

鴨下直樹

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説教全文はただいま入力・校正作業中です。 近日中に掲載いたします。

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 今日の聖書の話は、なかなか考えさせられる話が書かれています。あるところに、夫と別れたい妻がいました。この人は、夫のために自分は苦しめられている、不自由を強いられていると感じていたのです。それで、離縁して新しい人と人生をやり直したいと考えるようになってきたのです。けれども、聖書の戒めである律法によれば、相手が生きている間は再婚することができません。それで、人知れず、夫が死んでくれたらいいなと思っている。そんな人の話を、パウロはここで話し始めたのです。

 パウロはここで、律法によれば、相手が生きている間に再婚すると、「姦淫の罪」と言われる。でも、相手が死別した場合は、自由になる。そういう話をここでし始めました。

 昼ドラのような話です。人の心の闇の部分を語っているのです。パウロがそこで語っているのは、その自由を求めている人にとっては、二つの邪魔な存在があるということです。一つは、「夫」であり、もう一つは「律法」と言うことになります。

 そんな決まり事さえなければ自由になれるというのです。けれども、別の言い方をすれば、その決まりごとがあるから、人はみだらな生活にならずに済んでいるということもあります。そして、その時の問題はというと、その自由を求めている人は、自分の欲望が、正しいと考えてしまっていることにあります。

 パウロがこの話をし始めたのはこの前の6章23節でした。

罪の報酬は死です。しかし、神の賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。

 先週の箇所では「罪の奴隷」になっている、欲望に従う生活というのは、死を招くのだということが語られていました。それで、その罪の欲望が死を招くということを、ここで一つのたとえ話を通して、イメージしやすいように話し始めたのです。

 今日の聖書の箇所は、私にとってとても慰められる箇所です。というのは、パウロはここであまり上手な説明ができていないからです。パウロのような人は、いつも完璧な説明と理屈があるように感じるのですが、この話はインパクトは凄いのですが、ちょっと何が言いたいかはっきりしてこないところがあります。

 それで、少し整理してみたいと思います。パウロはここで二つの生き方を描き出そうとしています。一つは、神のために実を結ぶ生き方があると言っています。そして、もう一方では死のための実を結ぶ生き方があると言っています。この二つの生き方を描こうとしているのです。

 では、その悪い方の生き方である死の実を結ぶという生き方とはどういうことなのでしょう。「死の実を結ぶ」というのは、考えてみるととても恐ろしいことです。この死の実を結ぶ生き方というのは、自分の欲望に支配された生き方ということです。けれども、自分の欲望に生きるということは、自分も殺すし、相手も殺すような生き方になってしまいます。

 パウロもかつては、この「死の実を結ぶ」生き方をしてきた人でした。その頃のパウロはというと、律法主義的な生き方をしている人の代表のような人でした。決して、自分の欲望を満足させるために生きていたわけではありませんでした。けれども、その時のパウロはというと、キリスト者を見つけ出して、殺していこうという仲間と共に働いていました。しかも、自分は正しいのだと考えていたのです。

 ここでパウロが描いて見せた再婚を求めている人の姿と、かつてのパウロの姿というのは、まるで正反対のような生き方に見えるのですが、実は本質的には同じことを考えています。その意味でも、このたとえ話がうまくかみ合っていないと感じる部分でもあります。けれども、今の夫と別れて、新しい生き方をしたいというのは、自分の考え方が正しいので、その考え方を貫くためには、他の人を殺してしまえばいいという考え方になっていたのです。

 私たちは、相手を殺してまで自分の理想を手に入れたいとまでは、なかなか考えてはいないと思います。この例は、少し極端な例といえるかもしれません。けれども、パウロはここで、私たち自身の中にある、「自己正当化」というものは、相手を殺すことなのだということに目を向けさせようとしています。 (続きを読む…)

2021 年 11 月 1 日

今月の礼拝予定(2021年11月)

Filed under: 今月の礼拝予定 — susumu @ 00:09

11月7日 三位一体後第19主日

主日主題: 聖霊
聖餐式礼拝: 午前10時30分(ライブ配信)
聖書: ローマ人への手紙7章1-6節
説教:「新しい御霊によって」鴨下直樹牧師

礼拝後:役員会

11月14日 召天者記念主日

主日主題: 永遠のいのち
公同礼拝: 午前10時30分(ライブ配信)
聖書: ローマ人への手紙6章23節
説教:「永遠のいのち」鴨下直樹牧師

礼拝後:墓地礼拝

11月21日 終末主日

主日主題: 子どもの祝福
公同礼拝: 午前10時30分(ライブ配信)
聖書: ローマ人への手紙8章14-17節
説教:「神の子どもとしての祝福」鴨下直樹牧師

礼拝後:礼拝準備会/月間予定確認会

11月28日 待降節第一主日

主日主題: 律法
公同礼拝: 午前10時30分(ライブ配信)
聖書: ローマ人への手紙7章7-13節
説教:「律法の役目」鴨下直樹牧師

礼拝後:長老会、教団11月総会@稲沢

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