・説教 ローマ人への手紙7章7-13節「律法の役目」
2021.11.28
鴨下直樹
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先週も紹介しましたが、我が家では最近、朝食の時に「にゃんこバイブル」という本を使って、聖書のみことばに耳を傾けています。この「にゃんこバイブル」という本は、猫の生態から聖書のメッセージが分かりやすく書かれている本です。それで、今日はそれにならって、わたしも「わんこバイブル」という本を書くことを狙ってみたいと思います。
といっても、本当に本にしたいのではなくて、今日だけの試みです。
7節
それでは、どのように言うべきでしょうか。律法は罪なのでしょうか。決してそんなことはありません。むしろ、律法によらなければ、私は罪を知ることはなかったでしょう。
我が家にはさくらという犬がいます。ラブラドールレトリバーと、プードルの子どもです。いわゆるミックス犬という種類です。その前に飼っていたのは、ラブラドールでした。実は、それまで犬を飼ったことがなかった私たちは、犬のしつけに自信がありません。それで、はじめ、盲導犬のパピーウォーカーというのをしたのです。パピーウォーカーというのは盲導犬として育てられる子犬を、一歳の誕生日まで預かって、家庭で育てるというボランティアです。盲導犬協会で二か月くらいの子犬を預かりまして、それからは月に一度、盲導犬協会に通って、犬の育て方、しつけ方を丁寧に教えてもらうのです。
盲導犬というのは、目の見えない方の目の代わりに誘導する犬です。ラブラドールはとても人懐こい犬種で、歩くのも大好きなので、その役割はその犬の特性によく合っています。犬はとても楽しく目の見えない方をガイドすることができます。でも、そのためには、たとえば人の横について歩くとか、信号では止まるとか、「マテ」という命令には従うというようなことを、子どもの時からしつけておかなくてはなりません。そこで、私たちは、犬を散歩させるときに、どんな危険があるか、何に気を付けなければいけないかを丁寧に教えてもらって、しつけていくのです。
今の我が家の犬は、いままで飼っていたラブラドールと少し違います。とても元気がよくて、何かが目に入るとすぐに飛び出していこうとします。特に、子どもの姿と、犬が目に入ると、すぐに走って行こうとします。だから、私は常に周りを気にしながら、突然犬が走りださないように警戒します。そして、「ヒール」とか「つけ」と言うのですが、常に自分の左側にぴったりくっついて歩くようにしつけます。これを教えないと、反対車線に犬や子どもの姿を見つけると、飛び出して行こうとしますから大変なことになります。反対車線から車が来るかどうかは犬には分からないからです。今さくらは二歳なのですが、なかなかしつけが入らなくて、苦労しています。もう、犬の自我と、しつけのせめぎあいが、毎日、朝と夕方の散歩の時に繰り広げられるのです。はじめのうちはリードを持つ左手が筋肉痛になるほどでした。
しつけは、とても大切です。犬のいのちを守るものだからです。けれども、さくらにはそんなことは分かりません。散歩するとき、犬のさくらにとって飼い主の私は、自分の行きたい方向をじゃまだてする存在以外の何者でもないわけです。
犬はしつけなしに生きたいのですが、飼い主が来て、しつけがはじまると、突然自我が働いて、もう自分のやりたいことに心を支配されるようになってしまうのです。
しつけは悪いものではありません。しつけをするので自我が見えてくるのです。
それが、今日の9節と10節が語っていることです。
私はかつて律法なしに生きていましたが、戒めが来たとき、罪は生き、私は死にました。それで、いのちに導くはずの戒めが、死に導くものであると分かりました。
パウロはここで、言いたいのはまさにこのことです。律法というのはしつけのことです。罪というのは、自我のことと言ってもここではいいと思います。しつけがあるから、律法があるからその反動で、自我が働くようになって、かえってそれが自分自身を殺すものになっているのだということを語っているのです。
「わんこバイブル」書けそうですかね?
続く11節でこう記されています。
罪は戒めによって機会をとらえ、私を欺き、戒めによって私を殺したのです。
このことは、ちょっと犬に例えて理解しようとするとかえって難しくなってしまうかもしれません。
実は、パウロはここで旧約聖書の創世記に記されている出来事を念頭に置いて、このことを書いています。それは、創世記の3章に記されている蛇の誘惑の出来事です。
神がこの世界を創造されたときには、人はすべてのことがゆるされていました。ただ一つの例外を除いては。その一つは、園の中央にある「善悪の知識の木」から取って食べてはならないというものでした。それは、はじめの人、アダムが生きるために必要な戒めだったのですが、蛇は人を惑わして、結果として人を殺してしまったのです。このことが、この11節の背景にはあります。
そして、この出来事はアダムだけの事を語っているのではありませんでした。今も私たちには神からの戒めとして律法が与えられているのですが、私たちの中に潜む自我が、罪が働いて、この律法を破らせて、自ら死を招いてしまうようになってしまっているのです。
パウロはここで、律法と罪の関係を説明しています。今日の7節から13節に書かれている主語は「私」です。この「私」というのは誰のことを指しているかというと、パウロ個人のことのようにも読めますが、その「私」は「イスラエル」のことを意図しています。神の民であるイスラエルは、神の戒めによって生きる民とされたのに、かえって死を引き寄せてしまうものとなってしまったのです。そして、この「私」は、そのまま私たち自身のことをも意図していると読むことができるのです。
12節
ですから、律法は聖なるものです。また戒めも聖なるものであり、正しく、また良いものです。
律法とは何でしょう。戒めとは何でしょう。律法は、とても大切なものです。それは良いものです。この律法で語られているのは「いのち」です。10節にも「いのちに導くはずの戒め」とあります。律法は、わたしたちのいのちのこと、私たちがどのように生きるのかを語っているのです。
律法は私たちを、神の民を、生かすいのちです。私たちのいのちを守るために、神の愛が、戒めとなって語られているのです。
犬の散歩をしている時に、さくらが急に綱を引っ張ってどこかに行こうとすることがあります。そうすると、私は犬が勝手に行かないようにリードを強く握ります。小さな犬ならそれほど問題はないかもしれませんが、大きな犬ですから、力を込めて握っていないと、こちらが倒されてケガをしてしまいます。そして、綱を自分の横にぐっと引っ張って引き寄せて、「ヒール」と教えます。
たぶん、この光景を犬のことをあまりよく知らない人が見たら「可哀そうに、犬をいじめている」と見えるのかもしれません。それでも、そんな人目を気にしている場合ではありません。犬を思うがまま好き勝手にさせれば、犬を危険にさらすことになり、事故が起こってしまうのです。厳しいしつけに見えたとしても、これを続けることで犬はしっかりと横について歩けるようになるのです。
今はまだ訓練の途中ですが、しばらくこれを続けていくとやがてはリードなしでも横を綺麗について歩けるようになっていくのです。歩きながら犬が少し離れても、口で「ヒール」と言うだけで、すぐに横について歩けるようになるのです。もちろん、人がいるところでリードをつけないで散歩をすることはありませんが、こうなると、リードはもうあってもなくても関係なくなってくるのです。
こうして、犬のいのちを守るだけでなく、喜んで、気持ちよく生活できるようになっていくのです。
神の律法は、私たちが安心して生きることができるようになるために、なくてはならないものです。けれども、その意味が体にしみこむようになるまでは、とても厳しく、自分の自由が奪われ、自尊心を奪うものというようにしか思えないものです。
子どもが勉強の習慣を身に着けるのも、これに似ています。それに逆らって、自分の自我を通そうとすればするほど、律法は私たちに罪深さを自覚させ、自分の良さを奪う嫌なものというようにしか考えられなくなってしまうのです。
生きるための基本を教えるのが律法の役目です。それが身につきさえすれば、それはほんの些細なものでしかないのですが、身につくまで、というのが案外大変なのです。
犬のしつけも、子どもの勉強も、スポーツの基礎練習も、それはすべてに通じるものでしょう。面白くないことの積み重ねが、その後の自由な生き方の土台となるのです。
この律法に代表されるのは、十戒です。私たちの礼拝でも、第五週まであるときの礼拝では、十戒を唱えます。今日の7節にも「隣人のものを欲してはならない」という、十戒の中の最後の戒めである第十の戒めが語られています。
この「欲してはならない」という戒めはこれまで「むさぼってはならない」と訳されていました。それが、今度の翻訳では「欲する」となりました。「むさぼり」と言われると、「貪欲」という印象ですが、「欲する」となると、ごく自然な感情もその中に含まれているような気がします。この欲するとはどういうことなのでしょうか。
「隣人のものを欲しいと思う」実は、これは、先ほどの創世記3章に出てきた女が蛇に誘惑されたときに、こう記されています。創世記3章6節です。
「そこで、女が見ると、その木は食べるのに良さそうで、目に慕わしく、またその木は賢くしてくれそうで好ましかった。」と書かれています。この「好ましかった」という判断を下した言葉が、実は「欲しいと思う」という言葉と同じ言葉で書かれているのです。好ましく思うことが、欲しいとなって、むさぼりに連なっていくのです。
十戒の戒めを私たちがよりよく理解するためには、そこで禁止されていることを、積極的な言葉に言い換えてみると、この十戒の心を理解することができます。欲する思いの反対は与えるということです。つまり、欲することを積極に言い換えると、隣人の必要を私たちが気づいて、与えるようになる、というのが、この戒めの心なのです。
戒めには、必ずそこには神の積極的な隣人への愛がその背後にあるのです。この神の心に気づくことです。律法は、神の愛と配慮の現われなのです。
隣人のものを欲しいと思う。ものだけではありません。人にも当てはまります。隣人の夫を、妻を欲する、子どもをうらやむ。そこには、さまざまな心の動きがあります。相手に対する妬みがあります。所有欲があります。自分本位な思いがあります。それを禁止する、我慢させる、見ても見ないふりをさせて禁欲させる。そこで生まれるのは、心の葛藤と、疼きと、欲望がはぐくまれていくだけです。そして、それらの思いを正当化することはできません。
律法があることで、人は罪の呵責を覚えることになるのです。けれども、それが、神の狙いではないのです。たしかに、そのことを通して、自分の罪深さに気づき、自分の欲深さを知ることができるということはあるでしょう。そのようにして、自分の心を正していくということは大切です。しかし、神は、私たちに欲しそうなものを見せつけるだけで、私たちを欲望に立ち向かうように、訓練したいのではないのです。そこから思いを周りの人、隣人に向けていくときに、他の人の欲しいという感情があることにも目が留まります。それぞれが自分のことばかりを考えて、欲しがる社会は醜い姿です。けれども、お互いに必要なものが分かって、それをお互いで助け合い、与え合うことができる社会というのは、美しい愛の社会に姿を変えていくことができるのです。
神は、この戒めを通して私たちがどれほど神に愛されているのかを、知ってほしいと願っておられるのです。まず気づくべきは、自分がどれほど神に愛されているかを知ることです。そして、どれほど私たちの周りに生きている人たちのことも、大切に思っておられるかも、知って欲しいと思っておられるのです。この神の律法を通して、神の私たちに向けられている愛を知り、隣人に向けられている愛を知るときに、私たちもどのように神を愛し、どのように隣人を愛することができるのかが分かるようになるのです。
この律法を完全に行うことができるのは誰でしょうか。それは、神の御子、イエス・キリストただお一人しかおられませんでした。そして、神はこの御子を、私たちの下に遣わしてくださって、神の戒めに応えて生きるというのが、どういうことなのかを私たちに示そうとされたのです。
今週から、アドヴェントを迎えます。礼拝堂には紫のタペストリーが掲げられ、アドヴェントクランツの最初のろうそくに火を灯して、この日を私たちは心に刻もうとしています。
求める前に、まず与える。この第十の戒めの心を、何よりもまず神がお示しくださったのです。神は、私たちの心を欲しておられます。いや、私たちの心だけではない、私たち自身を欲しておられます。そのために、はじめに神は愛を示されたのです。これが、律法の心のです。
神の心を、神の願いを私たちに伝えるために、神の律法を私たちに教え、神の心に生きることがどれだけ私たちを安心させ、どれだけ私たちを自由にするかを示してくださるのです。神は愛です。その愛の神が示された戒めにも、この愛が満ちています。この愛を互いに向けあうときに、この世界には麗しい神の愛の世界が造り上げられていくのです。
主イエスはそのためにこの世に来てくださったのです。「天に栄光があるように、地に平和があるように」これが、私たちが聞くべきアドヴェントの主のみ言葉なのです。
お祈りをいたします。