2021 年 11 月 7 日

・説教 ローマ人への手紙7章1-6節「新しい御霊によって」

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2021.11.07

鴨下直樹

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 今日の聖書の話は、なかなか考えさせられる話が書かれています。あるところに、夫と別れたい妻がいました。この人は、夫のために自分は苦しめられている、不自由を強いられていると感じていたのです。それで、離縁して新しい人と人生をやり直したいと考えるようになってきたのです。けれども、聖書の戒めである律法によれば、相手が生きている間は再婚することができません。それで、人知れず、夫が死んでくれたらいいなと思っている。そんな人の話を、パウロはここで話し始めたのです。

 パウロはここで、律法によれば、相手が生きている間に再婚すると、「姦淫の罪」と言われる。でも、相手が死別した場合は、自由になる。そういう話をここでし始めました。

 昼ドラのような話です。人の心の闇の部分を語っているのです。パウロがそこで語っているのは、その自由を求めている人にとっては、二つの邪魔な存在があるということです。一つは、「夫」であり、もう一つは「律法」と言うことになります。

 そんな決まり事さえなければ自由になれるというのです。けれども、別の言い方をすれば、その決まりごとがあるから、人はみだらな生活にならずに済んでいるということもあります。そして、その時の問題はというと、その自由を求めている人は、自分の欲望が、正しいと考えてしまっていることにあります。

 パウロがこの話をし始めたのはこの前の6章23節でした。

罪の報酬は死です。しかし、神の賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。

 先週の箇所では「罪の奴隷」になっている、欲望に従う生活というのは、死を招くのだということが語られていました。それで、その罪の欲望が死を招くということを、ここで一つのたとえ話を通して、イメージしやすいように話し始めたのです。

 今日の聖書の箇所は、私にとってとても慰められる箇所です。というのは、パウロはここであまり上手な説明ができていないからです。パウロのような人は、いつも完璧な説明と理屈があるように感じるのですが、この話はインパクトは凄いのですが、ちょっと何が言いたいかはっきりしてこないところがあります。

 それで、少し整理してみたいと思います。パウロはここで二つの生き方を描き出そうとしています。一つは、神のために実を結ぶ生き方があると言っています。そして、もう一方では死のための実を結ぶ生き方があると言っています。この二つの生き方を描こうとしているのです。

 では、その悪い方の生き方である死の実を結ぶという生き方とはどういうことなのでしょう。「死の実を結ぶ」というのは、考えてみるととても恐ろしいことです。この死の実を結ぶ生き方というのは、自分の欲望に支配された生き方ということです。けれども、自分の欲望に生きるということは、自分も殺すし、相手も殺すような生き方になってしまいます。

 パウロもかつては、この「死の実を結ぶ」生き方をしてきた人でした。その頃のパウロはというと、律法主義的な生き方をしている人の代表のような人でした。決して、自分の欲望を満足させるために生きていたわけではありませんでした。けれども、その時のパウロはというと、キリスト者を見つけ出して、殺していこうという仲間と共に働いていました。しかも、自分は正しいのだと考えていたのです。

 ここでパウロが描いて見せた再婚を求めている人の姿と、かつてのパウロの姿というのは、まるで正反対のような生き方に見えるのですが、実は本質的には同じことを考えています。その意味でも、このたとえ話がうまくかみ合っていないと感じる部分でもあります。けれども、今の夫と別れて、新しい生き方をしたいというのは、自分の考え方が正しいので、その考え方を貫くためには、他の人を殺してしまえばいいという考え方になっていたのです。

 私たちは、相手を殺してまで自分の理想を手に入れたいとまでは、なかなか考えてはいないと思います。この例は、少し極端な例といえるかもしれません。けれども、パウロはここで、私たち自身の中にある、「自己正当化」というものは、相手を殺すことなのだということに目を向けさせようとしています。

 5節でパウロはこう言っています。

私たちが肉にあったときは、律法によって目覚めた罪の欲情が私たちのからだの中に働いて、死のために実を結びました。

 ここに「律法によって目覚めた罪の欲情」という言い方があります。律法があることで、自分がしたいと考えている欲望がはっきりと分かるようになるのだというのです。

 「肉にあったとき」というのは、キリストの霊に支配されていなかった時ということです。人には自分の思い、欲望があります。自分なりの正義感があります。そういう時に人は不自由になってしまいます。そのために死に支配されてしまうのです。死の実を結んでいるのに、死に足を向けているのに、自分は自由だと思い込んでしまうのです。しかも、やっかいなのは、自分の好きにしたいという思いが、自分を殺してしまうことに気が付かないのです。

 キリスト者を迫害していたときのパウロもまさにそんな生き方でした。自分が正しいと思いながら、反対に自分を殺すような生き方をしていたのです。

 「罪の欲情」と5節にあります。それは、たとえばこの前の6章や、今日のところで挙げられているように性的な衝動、欲望となって刺激される姿となって現れます。そして、そういうことは罪ですよ、良くないことですよと言われると、余計にその心が刺激されてしまうということがあるのです。こういうことは、ゴシップ誌を見ればすぐに分かることです。自分を破滅に追いやっているのに、目の前の甘い蜜に夢中になって、それが、身の破滅を招くことにはなかなか気づかないのです。

 ダメだと言われるとやってみたくなる。そういう誘惑に対する弱さというのは、誰にでもあります。そして、そこで私たちはいつも悩み、苦しむことになるのです。

 もう一つの生き方があります。6節をお読みします。

しかし今は、私たちは自分を縛っていた律法に死んだので、律法から解かれました。その結果、古い文字にはよらず、新しい御霊によって仕えているのです。

 パウロはここで、以前の夫であった律法は死んだと語り始めます。このあたりが、あまりうまくないのでどう理解したらいいのか難しくなってしまうのですが、パウロが言いたいのはこういうことです。

 これまでは律法に支配されていて、そのためにかえって反発して自ら破滅の道に進んできたけれども、主イエスの救いの御業によって神の聖霊が私たちを支配してくださるようになった。新しい生き方になった者は、神のための実を結ぶようになるのだというのです。

 新しい生き方とはどういう生き方なのか。パウロはこの手紙の5章からこのテーマで語っています。そこで語っているのは、新しい生き方というのは、主イエスを信じるようになってからの生活のこと、洗礼を受けた者としての歩みを語っています。

 以前、私は薔薇の苗を買ったことがあります。その苗は、どういうことなのかよく分からなかったのですが、別の薔薇の茎のところに接ぎ木された苗でした。はじめは接ぎ木されたものだということが良く分からなかったのですが、プラスチックボンドのようなもので接着されていたので、そうなのだということが分かりました。ちゃんと薔薇の花が咲くのかなと心配だったのですが、数か月たつと、ちゃんと綺麗な薔薇の花が咲きました。

 切り花も確かに綺麗な花を咲かせるのですが、接ぎ木された花は、一度咲いて終わりではありません。何度でも、また季節がくれば花を咲かせることができます。その意味では、薔薇の花ではなくて、実をつける果物か何かで例えた方がよいのかもしれません。接ぎ木されて、新しい命を得たその枝は、一度だけ実を結んで終わりではありません。キリストに結びつけられた木は、キリストの実を結ぶようになるのです。接ぎ木されることで、新しい人生を生きることになるのです。

 そこでは立派な美味しい実を実らせないと、自分の存在価値はないのではないかと考える必要はありません。私たちの主は、理想的な実を実らせる木を愛してくださるのではありません。今のあなたから実る実、私たちの主はその実を喜んでくださるお方です。

 私たちは律法から自由にされました。それは、理想像から自由にされたということです。私たちを縛っていた律法は、以前の夫は、もういなくなったのです。そして、新しい主人として、主イエスが来られたのです。

 ただ、このイメージもあまりいいイメージとは言えないので、その意味でもパウロのこのたとえ話は少し難しくなってしまったのかもしれません。ただ、パウロがここで、この結婚のたとえ話を通して描きたかったのは、本当に新しい生き方ができるようになったのだというメッセージを伝えたかったのです。

 古い文字である、律法の考え方に支配されるのではなくて、聖霊は私たちを新しくしてくださるお方なのだということです。

 適切なイメージかどうか少し悩むのですが、こんなイメージをしてくださるといいのかもしれません。以前の夫である「律法さん」は、理想像を押し付けてくるタイプの人でした。いつも、「こうあるべきだ」と「もっとこうして欲しい」という要求をして来るのです。

 もちろんそのことは悪いとばかりとも言えません。要望が分からなければ応えようがないわけです。また7節からパウロはこの前の夫である「律法さん」の良さについて語っていますので、それほどここで悪く言わない方がいいかもしれません。

 ただ、新しい再婚相手である「聖霊さん」は、形からはめてくるタイプではないのです。内側から働きかけてくるタイプです。私たちの心を支えて、やる気を起こさせ、いつも励まして、力づけて、私たちをサポートしようとするのです。

 「新しい御霊によって仕えているのです」と6節にあります。

 「新しい御霊によって」というのは、聖霊が主人ではないからです。私たちの主人は、主なる神です。聖霊は、私たちが主人にお仕えできるようにする私たちのサポート役ということです。この聖霊は、私たちがこうでなければならないはずだという、私たちの固定観念から、私たちを自由にしてくれます。

 そして、そればかりか私たちが欲望に支配されることからも自由にしてくれます。何が悪いことなのかも気づかせてくれます。そして、喜んで主にお仕えすることができるように、私たちを、内側からサポートしてくださるのです。

 私たちには強い見方がいるということです。自分一人で、自分の欲望、誘惑、罪と戦っていくのではなく、聖霊が、新しいパートナーとして、私たちを励ましてくださるのです。

 聖霊の励ましを受けながら、私たちは神のために実を結ぶ者となっていくことができるのです。

 お祈りをいたします。

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