2025 年 5 月 31 日

今月の礼拝予定(2025年6月)

Filed under: 今月の礼拝予定 — susumu @ 11:20

6月1日 復活節第7主日

主日主題: 祈り
聖餐式礼拝: 午前10時30分(Zoom配信)
聖書:ルカの福音書18章1-8節
説教:「諦めない祈り」鴨下直樹牧師

礼拝後:誕生月の祈り、役員会

6月8日 聖霊降臨祭・ペンテコステ

主日主題: 派遣
公同礼拝: 午前10時30分(Zoom配信)
聖書のお話:「教会の誕生」可児宏子
聖書:マルコの福音書6章6-13節
説教:「十二弟子の派遣」内山光生牧師

礼拝後:聖歌隊練習

6月15日 三位一体祭

主日主題: 苦難
公同礼拝: 午前10時30分(Zoom配信)
聖書のお話:「いのちの言葉を語る教会」河合和世
聖書:マルコの福音書6章14-29節
説教:「悲しみを通して教えられる事」内山光生牧師

礼拝後:ゴスペルカフェ、礼拝準備会/月間予定確認会

6月22日 三位一体後第1主日

主日主題: 主の憐れみ
公同礼拝: 午前10時30分(Zoom配信)
聖書のお話:「美しの門で」鴨下愛
聖書:ルカの福音書18章9-14節
説教:「二人の祈り人」鴨下直樹牧師

6月29日 三位一体後第2主日

主日主題: 宣教
公同礼拝: 午前10時30分(Zoom配信)
聖書のお話:「ステパノ」内山のぞみ
聖書:創世記22章1-14節
説教:「イサクの犠牲に見る信仰」鴨下直樹牧師

礼拝後:ゴスペルカフェ、聖歌隊練習

2025 年 5 月 25 日

・説教 ルカの福音書17章20-37節「終わりの時への備え」

Filed under: 礼拝説教,説教音声 — susumu @ 07:13

2025.05.25

鴨下直樹

⇒ 説教音声の再生はこちら


 教会員の恵美子さんが、少し前に俳句についての本を出されました。俳句の世界では辻恵美子という名前で活動されております。本のタイトルは『樹下随感 ―作句の心と形―』という俳句についてのエッセー集です。とても面白い本で、少しずつ楽しみに読み進めています。

 ちょうど、昨日のことですが、この辻恵美子さんが主宰をなさっておられる俳句の結社「栴檀」の24周年記念大会が開かれまして、私も出席させて頂きました。最初に、この一年の間に活躍された方々の表彰が行われまして、私たちの仲間であるOさんも栴檀賞を受賞されました。また、その授賞式の後で、能登の輪島で住職をしておられ、栴檀の仲間でもある市堀玉宗さんの「俳句と共に能登に生きる」という講演がありました。ここで少しそのお話の内容に触れようかとも思ったのですが、今日の聖書箇所と全然違う内容になってしまいますので、また別の機会にお話しできればと思います。

 ただ、今日の説教題を「終わりの時への備え」としましたが、市堀玉宗さんの講演は能登で2回の震災を経験して、まさに「もう輪島は終わりや」という声が聞こえてくるような、まさに心が折れる経験を通して、そこからどう生きていくのかというお話でした。能登の未来、輪島の未来は20年後どうなるか分からないと思っていたけれども、それが、突然やってきたということなのだという話は、まさに涙無くしては語れない話で、とても心に訴えるものがあったと思います。

 未来が絶たれる、希望が絶たれる、そういった中で、何を支えに生きるのか。この玉宗さんの講演を私流に切り取るとそういう話であったと思います。

 私も、5分ほどのスピーチの時間を頂きました。あの、玉宗さんの話を聞いた後だけに、何を語ることがあるかとも思ったのですが、私は恵美子さんの出された『樹下随感』の中からの話をさせて頂きました。というのは、恵美子さんはこの本の中で「新しさは俳句のいのち」と言っておられるのですが、この言葉は、私にとってとても考えさせられる言葉でした。毎週説教していますから、新鮮さといいますか、新しさが無くなってしまって、ついマンネリ化した話になってしまうからです。

 たとえば、この芥見教会では礼拝説教の箇所を前もって水曜と木曜の聖書の学びと祈り会で、丁寧に解き明かしをしています。これは、私としても皆さんに聖書を読む力をつけて欲しいという願いでやっているという部分もありますし、共に聖書を読んでいくことで、何が分からないのか、どこが難しいのかということを、私自身が理解することができるという意味でも、大いに助かっています。

 ただ、問題もあります。というのは、祈祷会に参加された皆さんは一度説明を聞いた聖書の箇所を、次の日曜に説教で聴くことになります。だいたい、礼拝に集われる方の半数が、聖書の学び会に参加してくださっております。これは、とても珍しいことで、皆さんが聖書を学ぶことに大きな関心を持っていてくださることの表れでもあります。それでは、何が問題かというと、牧師は半数の方がすでに聞いた説明を日曜にもう一度するのかという葛藤が私の中に生まれるわけです。福音の新しさが感じられなくなってしまうのではないか、そういう葛藤がいつも私の心の中に生まれるのです。 (続きを読む…)

2025 年 5 月 18 日

・説教 マルコの福音書6章1-6節「郷里の人々のつまずき」

Filed under: 内山光生師,礼拝説教 — susumu @ 06:51

2025.05.18

内山光生

イエスは彼らに言われた。「預言者が敬われないのは、自分の郷里、親族、家族の間だけです。」  マルコの福音書6章4節

序論

 今日の説教題は「郷里の人々のつまずき」です。聖書の中には「つまずき」という言葉が出てきますが、聖書を初めて読む人にとっては、どういう意味なのかが分かりづらいとの意見があるという事を知り、私はそのことについて何年がかりかで思い巡らしていました。けれども、辞書などを調べたりする訳でもなく、ただ時が過ぎ去っていきました。

 それで、今回、説教の準備をする際に、つまずきについて辞書で調べてみました。分かった事を整理すると、一般的な意味でのつまずきは二つに分類できると。一つは「文字通りのつまずき」で、歩いている時に石につまずいたといった感じで用いられます。もう一つは「比喩的な表現としてのつまずき」です。この場合、「人生につまずいた」といった感じで用いられます。そしてその意味は「人生に行き詰った」ということを指しています。ですから、比喩的な意味としてのつまずきの場合、別の言い方を付け加えることによって自分の言わんとしていることがきちんと伝わりやすいと解説されていました。

 しばしばクリスチャンの間で「誰かにつまずいた」と言った用いられ方をすることがあります。しかし、厳密に言うと、このような用い方は一般的な日本語としてはあまり使われていない表現です。クリスチャン独特の表現だと言えるかもしれません。ただ、言葉というのは時代によって変化するものなので、一概に「それは本来の用いられ方と違う」と指摘するのもナンセンスなのかもしれません。けれども、私自身、聖書で用いられている「つまずき」がどういう意味なのかをきちんと整理しておきたいという思いが出てきましたので、早速、聖書の色々な箇所を調べたり、ギリシア語や英語の聖書を調べてみました。

 分かった事は、日本語の聖書は一緒くたに「つまずき」と訳されているけれども、英語の場合は、文脈によって表現が変えられているということでした。具体的な事については、後で説明しますが、一つ言えることは、日本語の聖書で「つまずき」と訳されている聖書箇所については、英語の聖書で読んだ方が理解しやすいのではないか、ということです。

 聖書の中での「つまずき」という言葉は、大きく二つに分けることができます。一つは、今回の箇所のように「イエス様に対して人々がつまずいた場合」です。もう一つが、「誰かが誰かをつまずかせる場合」です。この二つは日本語では同じ「つまずき」と訳されていますが、しかし、先ほどお伝えしたように英語の聖書では、その文脈を踏まえた適切な訳となっています。

 今回の箇所について、どう訳せば分かりやすいかと言うと、「イエスにつまずいた」ではなく、「イエスを拒絶した」あるいは「イエスを疑った」とすればいいのです。それを踏まえると、今回の説教題は、「郷里の人々のつまずき」ではなく「イエスを拒絶した郷里の人々」と置き換えることができるのです。 (続きを読む…)

2025 年 5 月 11 日

・説教 マルコの福音書5章21-24,35-43節「タリタ・クム」

Filed under: 内山光生師,礼拝説教 — susumu @ 09:28

2025.05.11
(母の日)

内山光生

そして、子どもの手を取って言われた。「タリタ、クム。」訳すと、「少女よ、あなたに言う。起きなさい」という意味である。すると、少女はすぐに起き上がり、歩き始めた。彼女は十二歳であった。それを見るや、人々は口もきけないほどに驚いた。  マルコ5章41~42節

序論

 今日は母の日です。母の日について改めて調べた所、どうやら母の日というのは国によって日にちや祝う方法が様々だということが分かりました。日本における母の日というのは、アメリカの習慣を取り入れたことによって一般の人々に広まっていったと記録されています。日本に母の日が取り入れられた当時は、アメリカではカーネーションを贈る習慣がありましたので、それが日本でもそのまま受け入れられていったのです。ですから、今の時代においても母の日となるとホームセンターや花屋さん、そして、スーパーなどにおいてカーネーションが並べられているのを見ることができるのです。

 ところで最近、私はインターネットの情報というのは、必ずしも正しくないということを色々な経験から学んでいましたので、念のため、アメリカにおいてカーネーションを贈るということが今でも普通の事なのかどうかを確認したくなりましたそれで今年の3月頃でしょうか。私はアメリカ人で元宣教師をされていた方に「アメリカでも母の日はカーネーションをプレゼントするのですか。」と聞いてみました。すると、その方からは、少なくともその方が住んでいる地域では、「その人が好きな花をプレゼントする」と返ってきました。どうやら、あちらの方では、色々な考え方を受け入れるという土壌があるようで、皆が同じものをプレゼントされるというのは肌に合わないと考える人が多いというのです。

 これはアメリカに住んでいる人の考え方によるもので、日本全体の考え方とは異なっています。しかし、どちらが正解ということではありません。ただ言えることは、日本においても母の日のプレゼントの内容について様々な方法が出てきている、ということは確かなことだと言えるでしょう。

 さて、今日の聖書箇所は二つの箇所を選びました。その理由は、いきなり35節以降の話から始めても、前回聞いてなかった人や、忘れてしまっている人にとっては唐突に感じてしまうかもしれない。だから、もう一度21~24節に書かれている会堂司ヤイロがイエス様にお願いをした場面を確認した方が良いと考えたからです。

I ヤイロの信仰(21~24節)

 ではさっそく21~24節から見ていきたいと思います。

 会堂司というと、以前の訳では会堂管理人と訳されていましたが、会堂管理人と表現すると、まるで会堂の修繕や掃除をする人のようなイメージが出てきて、権威ある立場だということが分かりづらいと指摘されていました。そこで、新しい訳では会堂司となったのです。会堂司は、ユダヤ人の会堂において、安息日ごとの礼拝に関する責任者です。ですから、会堂司が礼拝で聖書朗読をしたり、聖書の解き明かしをすることがありましたし、会堂司の一存で、誰に聖書の解き明かしをしてもらうかを決めることができたのです。

 それゆえ、会堂司ヤイロは、町に住んでいるユダヤ人の間では、尊敬される立場だったのです。そんなヤイロが、自分の立場に関係なく、イエス様にひれ伏してお願いするのです。「娘が死にかけています。どうかおいでになって、娘の上に手を置いてやってください。」と。

 ヤイロはイエス様が病気を癒すことがおできになるといううわさを聞いていて、それで、今まさに娘には癒しが必要だと考え、必死になってイエス様にすがりついたのです。ここにヤイロの信仰が現されているのです。そして、イエス様は彼の願いを聞き入れ、娘のところに向かおうとされたのです。 (続きを読む…)

2025 年 5 月 4 日

・説教 ルカの福音書17章11-19節「キリエ・エレイソン」

Filed under: 礼拝説教 — susumu @ 07:18

2025.05.04

鴨下直樹

⇒ 説教音声の再生はこちら

 今日は復活節の第三主日、「ミゼリコルディアス・ドミニ〈主の慈しみ〉」と呼ばれる主の日です。教会歴で今日読むことになっている聖書は詩篇33篇5節の「主の恵みで地は満ちている。」というみ言葉です。ところが、新改訳聖書では肝心の「慈しみ」という言葉が出てきません。新共同訳聖書ではこのようになっています。「地は主の慈しみで満ちている。」。この後半の「地は主の慈しみで満ちている」という言葉がラテン語で「ミゼリコルディアス・ドミニ」と言うのです。「慈しみ」という言葉はヘブル語で「ヘセド」という言葉です。これを、新改訳は「恵み」と訳し、新共同訳は「慈しみ」と訳しています。「愛」と訳されることもありますし、「慈愛」と訳す場合もあります。新改訳と新共同訳の日本語の翻訳はそれぞれ異なりますが、この「ヘセド」という言葉で言い表そうとしているのは神の大きな愛の眼差しが、「恵み」や「慈しみ」という神の思いがこの地に、この世界に注がれているということです。

 雨宮慧(さとし)というカトリックの言語学者がおられます。この方は、『旧約聖書の心』という本の中で、このヘセドという言葉を、「神と人を結びつける絆である」と言っています。この絆には二つの側面があって、一つは両者を結ぶ愛、もう一つはその愛に対する誠実さであると説明しています。ここに、神の愛、恵み、慈しみと訳される神の本質的な心が表されています。

 今日は、復活節の第三主日で、イースターによって示されたこの神のヘセドに表されている思いを心に刻む日です。そんな中で、今日は、ルカの福音書の17章の11節から19節のみ言葉が与えられています。ここに記されているのは、まさにこの神の慈しみ深さであると言って良いと思います。

 今日の聖書の箇所は読む私たちに強烈な印象を与えます。というのは、主イエスはサマリヤとガリラヤの境にある村に入られたと書かれています。この村に住んでいるのは、「ツァラアト」に冒された人々でした。サマリヤというのはイスラエルが二つに分裂し、北イスラエルと南ユダに分かれた後、ユダの人々は主への信仰を受け継いでいたのですが、北イスラエルの人々は神の思いから完全に離れてしまった人々で、外国の人々といわゆる雑婚をしていきます。そうするとどうなるかというと、それぞれの民族の信じる神々を取り入れていくわけで、主なる神への信仰を捨ててしまった人々です。それで、北イスラエルとはもはや呼ばないで、「サマリヤ人」と呼ぶようになって、ユダヤ人たちはこのサマリヤの人々を蔑んできたわけです。

 ところが、この聖書の箇所を読んでいくと分かってくるのですが、「ツァラアト」という病に冒された人々というのは、重い皮膚病を患った人々で、この時代では人々から隔離されていまして、もはや家族とも一緒に生活することが許されません。当然、この人々のところには医者も訪ねてはきません。いわば、捨てられた人々の集落となっていたわけです。しかも、この捨てられた人々同士が、民族の争い関係も忘れて一緒にこの村で生活していたようです。捨てられた者たちの間にはもはや民族的な差別意識は無くなっていたわけです。

 ただ、そう聞くととても麗しい愛の共同体が生まれているかのようにも思いますが、実際には見捨てられた人々が肩を寄せ合って生きていたというのが、本当の姿のように思うのです。もはや、ここには希望がない、死を待つだけの世界、それがこの村の姿であったのです。

 ところが、この村を主イエスは訪ねられたのです。 (続きを読む…)

2025 年 5 月 1 日

今月の礼拝予定(2025年5月)

Filed under: 今月の礼拝予定 — susumu @ 17:54

5月4日 復活節第3主日

主日主題: あわれみ
聖餐式礼拝: 午前10時30分(Zoom配信)
聖書:ルカの福音書17章11-19節
説教:「キリエ・エレイソン」鴨下直樹牧師

礼拝後:誕生月の祈り、役員会

5月11日 復活節第4主日

主日主題: 癒し
公同礼拝: 午前10時30分(Zoom配信)
聖書のお話:「復活の主とペテロ」河合和世
聖書:マルコの福音書5章35-43節
説教:「タリタ・クム」内山光生牧師

礼拝後:大掃除・草刈り、聖歌隊練習、礼拝準備会/月間予定確認会

5月18日 復活節第5主日

主日主題: 福音
公同礼拝: 午前10時30分(Zoom配信)
聖書のお話:「王子の婚宴のたとえ」内山のぞみ
聖書:マルコの福音書6章1-6節
説教:「郷里の人々のつまずき」内山光生牧師

5月25日 復活節第6主日

主日主題: 神の国
公同礼拝: 午前10時30分(Zoom配信)
聖書のお話:「10人の花嫁のたとえ」鴨下愛
聖書:ルカの福音書17章20-37節
説教:「終わりの時への備え」鴨下直樹牧師

礼拝後:礼拝の学び

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