2025 年 5 月 25 日

・説教 ルカの福音書17章20-37節「終わりの時への備え」

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2025.05.25

鴨下直樹

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 教会員の恵美子さんが、少し前に俳句についての本を出されました。俳句の世界では辻恵美子という名前で活動されております。本のタイトルは『樹下随感 ―作句の心と形―』という俳句についてのエッセー集です。とても面白い本で、少しずつ楽しみに読み進めています。

 ちょうど、昨日のことですが、この辻恵美子さんが主宰をなさっておられる俳句の結社「栴檀」の24周年記念大会が開かれまして、私も出席させて頂きました。最初に、この一年の間に活躍された方々の表彰が行われまして、私たちの仲間であるOさんも栴檀賞を受賞されました。また、その授賞式の後で、能登の輪島で住職をしておられ、栴檀の仲間でもある市堀玉宗さんの「俳句と共に能登に生きる」という講演がありました。ここで少しそのお話の内容に触れようかとも思ったのですが、今日の聖書箇所と全然違う内容になってしまいますので、また別の機会にお話しできればと思います。

 ただ、今日の説教題を「終わりの時への備え」としましたが、市堀玉宗さんの講演は能登で2回の震災を経験して、まさに「もう輪島は終わりや」という声が聞こえてくるような、まさに心が折れる経験を通して、そこからどう生きていくのかというお話でした。能登の未来、輪島の未来は20年後どうなるか分からないと思っていたけれども、それが、突然やってきたということなのだという話は、まさに涙無くしては語れない話で、とても心に訴えるものがあったと思います。

 未来が絶たれる、希望が絶たれる、そういった中で、何を支えに生きるのか。この玉宗さんの講演を私流に切り取るとそういう話であったと思います。

 私も、5分ほどのスピーチの時間を頂きました。あの、玉宗さんの話を聞いた後だけに、何を語ることがあるかとも思ったのですが、私は恵美子さんの出された『樹下随感』の中からの話をさせて頂きました。というのは、恵美子さんはこの本の中で「新しさは俳句のいのち」と言っておられるのですが、この言葉は、私にとってとても考えさせられる言葉でした。毎週説教していますから、新鮮さといいますか、新しさが無くなってしまって、ついマンネリ化した話になってしまうからです。

 たとえば、この芥見教会では礼拝説教の箇所を前もって水曜と木曜の聖書の学びと祈り会で、丁寧に解き明かしをしています。これは、私としても皆さんに聖書を読む力をつけて欲しいという願いでやっているという部分もありますし、共に聖書を読んでいくことで、何が分からないのか、どこが難しいのかということを、私自身が理解することができるという意味でも、大いに助かっています。

 ただ、問題もあります。というのは、祈祷会に参加された皆さんは一度説明を聞いた聖書の箇所を、次の日曜に説教で聴くことになります。だいたい、礼拝に集われる方の半数が、聖書の学び会に参加してくださっております。これは、とても珍しいことで、皆さんが聖書を学ぶことに大きな関心を持っていてくださることの表れでもあります。それでは、何が問題かというと、牧師は半数の方がすでに聞いた説明を日曜にもう一度するのかという葛藤が私の中に生まれるわけです。福音の新しさが感じられなくなってしまうのではないか、そういう葛藤がいつも私の心の中に生まれるのです。

 恵美子さんは、その本の中で「俳句の新しさ」を追求するということを何度も語っておられます。俳句というのは、わずか17文字しかありません。その17文字の中で新しさを追求しておられるのです。一方、礼拝の説教を考えてみますと、だいたい30分ほど話をしているわけですから、これは文字数にすれば7000字、8000字くらいになる場合もあります。それほどの文字数を駆使しても、新しさを表現できないとなると、17文字でそれをすることが、どれほどの挑戦なのかと思うのです。

 今は月に半分ずつになってはいますが、毎週、同じ牧師の思考回路を通して出てくる言葉、表現というのは、マンネリになることはあっても、新しい言葉を語り続けていくことは本当に困難です。いつも同じ思考をしているとすれば、その中からは「新しさ」は生まれてきません。「新しさは俳句のいのち」だと書かれているのですが、そうだとすると、説教もまた「新しさは説教のいのち」とも言えるわけです。今日も、この葛藤を抱えながら、皆さんと共に、聖書に耳を傾けていきたいと願っているわけです。

 そういう中で、ちょうど良い具合にと言ってもいいと思いますが、今日はこの礼拝の後で、礼典部主催の「礼拝の学び」を行います。今年は、「異端について学びたい」という要望が礼典部の方々から挙がったようで、「異端の教えと、その対策」というテーマで学びをいたします。と言いましても、私は異端の教えについて、それほど詳しいわけではありません。ただ、私にとって「異端について教会の方々と共に考える」というのは、新しい経験でした。普段しないことをするというのは、とても良い刺激になります。

 また、不思議なもので、その学びのテーマに合わせたかのような聖書箇所が、このルカ福音書の17章20節から37節だとも言えます。まるで示し合わせていたかのような箇所です。このところでは「神の国はいつ訪れるのか?」というテーマに続いて「人の子とはどのようなお方で、いつ来られるのか?」ということが語られている箇所です。そして、これに対して主イエスが「こういう噂や、こういうことに気をつけなさい」と答えておられるところです。「神の国」や「人の子」について語られているところですが、読んでいくと分かってくるように、ここで語られているのは最後の裁きの時や、再臨というのがテーマの話だということです。

 この後の学びの中でもお話しすることを先に少しお話しするような部分があることをお許し頂きたいのですが、キリスト教の異端というのは、この「終わりの時」とか「再臨」がいつかという問いに対して、いつとか、どこでということを言ってしまうという特徴があります。主イエスが、このところで、そういうものではないと答えておられるにも拘らずです。ですから、今日の内容はそういう意味でも大切なところですから少し丁寧に見ていきたいと思います。

 さて、今日の箇所はパリサイ人のある質問から始まっています。パリサイ人は主イエスに尋ねます。「神の国はいつ来るのか?」という問いです。こういう質問というのは少し注意深く見ていく必要があります。というのは、ここでパリサイ人が意図している「神の国」というのはどんなものをイメージしているのか、そして、主イエスが語られる「神の国」とはどういうものなのかということを正しく理解しておく必要があるからです。
 パリサイ人たちは、「神の国」のことを、神が実際にこの世界を統治してくださる世界、つまり、ローマ帝国が打ち滅ぼされて、もう一度国家としてのイスラエルが再興することを考えていました。ですから、ローマ帝国からいつ我々は解放されるのか? という意味で、「神の国はいつ来るのか?」と質問をしているわけです。

 この質問に対して主イエスはこう答えられました。それが20節と21節です。

「神の国は、目に見える形で来るものではありません。
『見よ、ここだ』とか、『あそこだ』とか言えるようなものではありません。見なさい。神の国はあなたがたのただ中にあるのです。」

 これまでにも、何度も主イエスが語られる「神の国」についてお話してきました。主イエスが語られる「神の国」というは、実際的なイスラエルの国土が回復することではありませんでした。この箇所も「イスラエルの再興」という意味での神の国を語ってはおられないわけです。主イエスが語られる「神の国」というのは、「神の支配」とも言えるもので、「神さまが近くにいてくださると感じられること」ということです。これは、実際の土地や国土のある国のことではなくて、「精神的な世界」という捉え方もできるのかもしれません。「神が一緒にいてくださるから安心していられる」という世界です。ですから、パリサイ人が考えているものと、主イエスのお答えはまるっきり違うイメージであることが、ここで明らかになっているわけです。そして、このような世界、神の国は、「もうすでにあなたがたのただ中にある」と主イエスはここで宣言なさったのです。

 そうすると、主イエスの言われる神の国とは何かということをどうしても考える必要が出てきます。パリサイ人には理解できないからです。

 それで、続く22節から終わりの37節までで、主イエスは自ら、もう一つの話をなさいました。それは「人の子の日はいつ来るか?」という話です。この話をすることで、パリサイ人たちに理解を改めるように求められたのです。

 主イエスが語られている「人の子」というのは、この文脈では「救い主」のことを指して言っています。これも、20-21節でお語りになられた「神の国」と同時に心に留めてほしいテーマだと主イエスが思われて、その話をなさっています。この「人の子」として語られている「救い主」「メシア」についても、この時代の人々はローマの支配から解放してくれる力強いヒーローをイメージしていました。ですから、この「人の子」というのが、主イエスのことだとは誰も思わないで話しているのです。そして、主イエスは、この「人の子の日」というのは稲妻がひらめいて天の端から端まで光るように、一瞬の時だと話されました。一瞬の間というだけでなくて、25節では、「人の子は多くの苦しみを受け、この時代の人々に捨てられなければなりません。」と言われました。この主イエスの言葉を、弟子をはじめ、パリサイ人たちは誰も正しく理解することができませんでした。何を仰っているのか、よく分からなかったのです。

 しかも、このあとの26節からは、ノアの日にこの世界が天によって滅ぼされた話をなさったり、また、アブラハムの甥のロトの日にはソドムとゴモラの街に神からの裁きとして天から火が降ってきてソドムが滅ぼされてしまったという話を主イエスはなさいました。

 救い主が来られる日の話だと思って聴いていたら、主イエスはこの世界が滅ぼされる日の話をされ始めたのです。しかも、34節や35節では、その日が来ると家族の中でも神様のみもとに呼ばれる人と、そのままこの世界に残る人がいるという話をなさいました。こうなると、救い主がいつおいでになられるのかという話でもなくて、この世界の最後の日という話に移っていくのですからもう大変です。

 さて、皆さんはこの話を聞いていて、だんだん不安にならないでしょうか。最後の審判とか、この世界が滅ぼされるとか、あるいは一部の人だけが神様のところに招かれるけれども、残される人もいるという話を主イエスはなさり始めるのです。

 こういう話が大好きな人たちがいます。それが、「キリスト教の異端」と呼ばれる人たちです。この人たちはこういう、人が不安に思う箇所を読む時に、たぶん自分自身が不安になるのだと思うのです。そこで、どうにかして、自分は大丈夫という安心感が欲しい、そして安心するためには「いつそれが起こるのか、どこでそれが起こるのか」ということが分かれば対応できるだろうと考えるわけです。

 それが、今日の最後の箇所です。37節。

「弟子たちが、『主よ、それはどこで起こるのですか』と言うと、イエスは彼らに言われた。『死体のあるところ、そこには禿鷹が集まります。』」

 弟子たちが主イエスに尋ねたのです。それはどこで起こるのですかと。その答えが禿鷹の話です。けれども、なんだかトンチのような話で、一体主イエスがここで何を仰りたいのか、なかなか読み取れません。この質問をした弟子たちの意図は何かというと、異端の人たちと同じで、それがいつ起こるか分かれば対応ができると考えたのです。これに対して主イエスは、禿鷹を見れば分かると答えられました。禿鷹がいるところに死体がある。つまり、気づいた時にはもうそこに死体があるわけですから、既に遅いのだということです。主イエスは、誰がキリストだとか、いつ最後の時が起こるとか、どこでそれが起こるということについて話される気は無いのです。その場限りの対策をしても意味が無いからです。

 多くの人は滅ぼされる場所が分かれば、そこにいなければ良いと考えるわけです。あるいは、その時間にいなければ良いと思うのです。けれども、それが一部分だけの話ではなくて、全世界のすべてが終わるのだとしたら、そんな、自分だけどこかに逃げるというような対応策では役に立ちません。もうその時には禿鷹が群れをなしていることになるのです。

 「礼拝の学び」の中でもお話をするのですが、キリスト教の異端というのは、どれにも共通するものがあります。それは、不安感や恐れから回避する方法を示すということです。しかも、自分たちだけがその方法を知っていると言うのです。そして高額の壺を買ったら回避できるなどと持ちかけるわけです。けれども、主イエスはここで次のように答えておられます。

 23節では

「人々は、『見よ、あそこだ』とか、『見よ、ここだ』とか言いますが、行ってはいけません。追いかけてもいけません。」

 33節ではこうも仰います。

「自分のいのちを救おうと努める者はそれを失い、それを失う者はいのちを保ちます。」

 自分だけが助かろうと思うような行動の中に、主イエスが語られる救いは無いのです。目の前にある土地も、財産も、目に見える一切のものは、自分で手に入れたものではありません。すべては神から一時的に預かっているだけです。自分のいのちさえもそうです。自分の持っているものは自分のものだと思い、手に入れた自分のものを少しでも長く手元に留めておきたいと願うのは、この世のものに支配されてしまっているのです。

 けれども、神の与える支配、神の国というのは、手に入れられるものではないのだと主イエスはここで答えておられるのです。それは、あなたがたのただ中にあると主イエスは言われているのです。

 「神が共におられる」「あなたがたのただ中に神が共におられる」これが、神のお与えになる支配です。神の国です。神の平安です。ただ、神がおられるだけ、それがすべてなのです。それがあればもう十分。ローマが支配したままでも、病気が治らなくても、ただ、神が私の心の中におられればいい。それが、主イエスが語られる「福音」です。なぜ、そう言えるのか、それは神が共にいてくださるところに、すべての平安があるからです。

 ヨブ記にあるように「神は与え、そして取りたもう神」なのです。そして、これこそが、私たちの終わりの時に向けての備えなのです。

 どんなことが起こっても大丈夫、神の国はあなたがたのただ中にあるのだからと主イエスは言われるのです。それが、私たちに与えられている信仰であり、私たちへの神からの祝福、平安なのです。

 最初に恵美子さんの本の話をしました。『樹下随感』この中に、「本情に迫る」という文章があります。とても美しい文章です。本情という言葉の意味が少し難しいのですが、「『本情』とは何か。辞書によると『そのこと、そのものの本来的な性質、在り方、情趣を意味する』」と書かれています。

 恵美子さんは、俳句の季語の本情について語っておられるのですが、そこにこんな文章があります。「本情にとらわれすぎ、季題趣味に陥れば、固定化・類型化を免れない。自己の体験に頼りすぎ、本情を離れてしまってもいけないわけで、その辺のところを踏まえながら新しい角度から本情に迫っていくことが求められる。」

 私はここに来て、衝撃を受けました。言葉の意味そのものを理解しながらも、自分の体験に頼りすぎるわけでもなく、そうかと言って固定化や類型化をするのでもなく、新しい角度で、ものごとを見るのだというのです。そこに新しさが見える道があると言っておられるような気がするのです。

 ここでいう「新しさ」というのは私たちの場合では「福音の新しさ」です。神の与えてくださる救いというは、手垢のついた、つまらないものでは決してないのです。けれども、教会で何度も話を聞いているうちに、分かったような気になって、救いの意味を固定化してしまうことが起こりやすいのです。あるいは、自分の経験に偏って、それ以上のものを見ようとしなくなることが起こってしまうのです。そうなると、福音が福音ではなくなっていってしまうのです。けれども、私たちに神が与えてくださる「共におられる」というこの響きは、手垢のついた、分かりきったものではなくて、角度を変えて見ると、また新しい意味を発見することができるようになるわけです。

 考えてみれば、主イエスはいつも新しい切り口で福音を語っておられます。人々から隔離されている重い病の人を訪ねてみたり、誰も近寄らないような、できものだらけのラザロの話をしてみたり、あるいは、自分を敵対視するパリサイ人と話す時も、ある時は非常に攻撃的であったり、ある時は一緒に寄り添ってと、まぁ実に豊かです。そこに、いつも新しい発見があるのです。

 主イエスの中にはマンネリ化というのはどうも無さそうです。そこが、聖書を読む面白さでもあるのかもしれません。あるいは、福音を新しく発見する喜びであるのかもしれません。

 聖書は、私たちに常に新しく福音を見せようとしています。問題は、私たちが聖書をもう分かりきったものとしてしまうことです。そうすると新しい福音の響きは感じられなくなっていってしまうのです。主イエスは今も生きておられるお方です。ということは固定化されることは無いということです。今も生きておられるわけですから、常に福音というのは現代的なのです。常に新しいです。私たちがいつも聖書から新しく福音を聴き続けることができるなら、異端の教えに迷うことはありません。すぐに見抜くことができます。そもそも恐怖感の中から安心を求めるために、何らかの対策をするというのは、福音ですらないのです。

 主は、聖書を通していつも新しく、私たちに語りかけておられます。この福音の新しさを、いろんな角度から聴き取って、豊かな福音の中に身を置く者でありたいのです。

 お祈りをいたします。

 

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