・説教 マルコの福音書7章24-30節「女性の娘を助けたイエス」
2025.10.12
内山光生
そこでイエスは言われた。「そこまで言うのなら、家に帰りなさい。悪霊はあなたの娘から出て行きました。」
マルコ7章29節
序論
昨日は、当教会で韓国の賛美宣教団オンギジャンイのコンサートがもたれ、すばらしいひと時を持つことができました。個人的な思い出となりますが、今から25年以上前に大垣のルーテル教会を会場に行なわれたオンギジャンイのコンサートに参加した事があり、その頃は割と韓国語での賛美が多かったように記憶しているのですが、今回は日本語での賛美がほとんどで、また、特別に日本人に馴染みのある歌も歌っていただき、心に染みるコンサートとなりました。
さて、今日の箇所は、前回までの箇所から大幅に舞台が変わっていきます。
I ツロの地方に行かれた主イエス(24節)
24節から順番に見ていきます。
イエス様とその弟子たちは、今までにガリラヤ地方やユダヤ地方を中心に宣教活動を繰り広げてきました。それらの地域では、一部の町を除いて、多くの人々に受け入れてもらえました。けれども、イエス様と弟子たちが、休みを取ることができない程に忙しくなってしまいました。それで、なんとかして弟子たちと共にリフレッシュする時間が必要だと考えたのでしょう。
イエス様の取った行動は、ツロの地方に行くという事でした。ツロというのは、ユダヤ人以外の民族、すなわち、異邦人が中心の町で、旧約聖書の時代から知られている町の一つです。ガリラヤ湖から見ると、北西の位置にあり、港町であり、かつて木材の輸出で栄えた時代もありました。けれども、良い材木が取れなくなると、漁師として生計を立てる人が増えたと言われています。聖書の中では、ツロに加えてシドンという町が出てきています。ですから、ツロとシドンをセットで覚えておられる方もおられるでしょう。共に地中海沿いの町なので、聖書の後ろにある地図を見るとすぐに見つけることができる場所です。
さて、先ほどお伝えしたようにイエス様と弟子たちが、ツロの地方に行かれたのは、休息を取るためであって、その地方の人々に積極的に福音を伝えるためではありませんでした。だから、24節では、「だれにも知られたくないと思っておられた」と書かれているのです。
普段、多くの人々と接する仕事をしている方の中には、休暇の時こそは、あまり人がいない静かな場所で過ごしたい、そう考えておられる方もおられるかと思います。それで、多少遠い場所であっても、自分がお気に入りの場所に行ってリラックスする時間を持とうとするのです。私も、最近減りましたが、休暇となると、どちらかというと人がたくさん集まる場所よりも、人が少ない公園を散歩する方が落ち着くと感じるのです。
同じように、イエス様はツロの地方に行けば、自分のもとにやってくる人があまりいないのではないかと考えたのです。ところが、その予想に反して、ガリラヤから離れたツロの地方にまで、イエス様のうわさが広められていたのでした。この地方の人々は、どうやらすでにガリラヤやユダヤの地方でうわさになっている人物がいることを知っていたようです。そして、その中には、イエス様の顔を知っている人もいたのでしょうか。あるいは、雰囲気からして、あのうわさの人物に違いないとさとられたのでしょうか。どのような事だったのかは、はっきりした事は分かりませんが、結果的には、「自分たちの町にイエス様がおられる」そんなうわさが広まってしまい、イエス様たちは、もはや、隠れていることができなくなってしまったのでした。
イエス様の時代においては、電話も携帯もインターネットもなかった時代です。また、車や電車などもなく、速く移動する手段は限られていたのです。それでも、私たちが思っている以上に、あっという間に町の人々にうわさが広められていったのです。
II 娘のために助けを求めた女性(25~26節)
25~26節に進みます。
その地方に、ある女の人がいました。この女性は自分の幼い娘の事で悩んていたのです。どんな悩みかと言うと、「汚れた霊」すなわち「悪霊」につかれていて苦しんでいる、というのです。具体的にどのような苦しみだったのかは記されていませんが、イエス様の時代では、多くの人々が悪霊によって苦しんでいた事が記されています。それらの事からどのような感じだったのかを考えてみると、例えば、悪霊につかれていたある人が叫び続けていた事が記されています。また、火の中に飛び込もうとする人もいた事が記されています。他人に危害を加えるような暴力的になる人もいましたし、なんとかして苦しんでいる本人を助け出す必要があったのです。
しかしながら、たとえお金を払ったとしても、この苦しみを取り除いてくれる人というのは、ほとんどいなかったのです。ですから、イエス様が宣教活動をしていく際に、病人を癒したり、悪霊で苦しんでいる人を解放するという力あるみわざを示されたことは、当時の人々にとっても、驚くべき事だったのです。それゆえ、遠く離れた異邦人の地、ツロの地方にまでそのうわさが広がってしまったとしても不思議な事ではなかったのです。
自分の娘が悪霊によって苦しんでいる、その女性の気持ちは、不治の病で苦しんでいる人、現代の医学ではどうにもならずに苦しんでいる人にとっては、自分の事のように感じるかもしれません。あるいは、病気や悪霊とは関係のないことであっても、自分の力ではどうする事もできない悩みを抱えている人々にとっては、その気持ちをすごく理解できるのではないかと思うのです。
人というのは、苦しみにあって、そして、自分の努力ではどうする事もできないようになって、ようやく、神様に心を向けていき、神様に助けを求める気持ちが出てくるのです。それで、異邦人の地において、ユダヤ人でもなくギリシア人であったこの女性は、イエス様が来ておられるといううわさを聞くと、すぐにイエス様のもとにやってきたのです。イエス様のところに行こうかどうかと深く考える事もせずに、すぐにイエス様のところに向かったのです。
彼女がイエス様に会うと、まず最初に、イエス様の足もとにひれ伏したのです。この姿を思うとき、彼女の真剣な思いが伝わってくるのではないでしょうか。彼女は、もし可能ならば娘を助けてほしいという軽い気持ちではなく、イエス様ならば娘を助けることができるとの強い確信をもって、イエス様にお願いしたのです。「イエス様、どうか、私の娘から悪霊を追い出して下さい」このようにお願いしたのです。
ここで、イエス様が今までのガリラヤ地方やユダヤ地方で、人々に接した時の事を思い出してみましょう。イエス様は、病気で苦しんでいる人や悪霊で苦しんでいる人々をことごとく癒してきました。少なくとも、イエス様のもとにやってきた人、あるいは、連れてこられた人は、皆、同じように癒されたのです。そこには、癒されなかった人は一人もいなかったのです。
ですから、これまでの経緯を読んできた私たちは、ツロの地方においても、同じように助けを求める人に対して、快く、癒してもらえるものだと推測するのですが、ところが今回のイエス様の応答のことばが、イエス様らしくない内容となっているのです。
III 主イエスと女性のやりとり(27~28節)
27節に進みます。
イエス様は「まず子どもたちを満腹にさせなければなりません。子どもたちのパンを取り上げて、子犬に投げてやるのは良くないことです。」と答えたのでした。どういう意味でしょうか。旧約聖書の中には、色々な箇所において、イスラエルの民のことを「子どもたち」と表現されています。つまり、イエス様は、この旧約の表現を用いているのです。一方、「子犬」とは、イスラエルの民以外の民を指していると推測することができるのです。旧約聖書についてや、イスラエルの民についての詳しい知識を持っていない人にとっては、何を言っているのかが理解できないイエス様のことば、しかし、少なくとも、このギリシア人の女性は、イエス様が言っている意味を理解することができたのです。
つまり、イエス様は、まずはイスラエルの民に対して福音が広められていかなければならず、それを差し置いて、他の民族に福音を広める訳にはいかない、と言っているんだと解釈することができたのです。
イエス様の言われた事は、まるで意地悪をしているように感じるかもしれません。けれども、イエス様が何を言わんとしているのかが分かりづらい応答をされている時は、必ずといっていいほど、その意図が隠されているのです。イエス様の意図、これが何であるかを悟ることによって、なるほど、そういう事なのかと納得することができるようになっているのです。
確かに、聖書によると、神様はすべての人々に福音が広められていくことを願っています。けれども、福音が広められていく際に優先順序があったのです。というのも、イエス様と弟子たちだけでは人数が限られています。その人数で、ユダヤ人以外の地域に福音を伝えようとするならば、とても3年半という限られた時間では達成することができません。それで、イエス様が十字架にかかるまでの間は、イエス様だけでなく、イエス様の弟子たちさえも、ユダヤ人にターゲットを絞って福音を伝えていったのです。もちろん、例外的に異邦人が救われたり、異邦人が癒された事例がありますが、あくまでも、最初の段階においては、ユダヤ人を中心に福音宣教をなしていく、という神のご計画があったのです。
そして、イエス様が十字架の死からよみがえり、そして、ペンテコステの日以降で、エルサレムから始まり世界中に福音が広げられていくのです。イエス様は、このような福音が広められていく順序があることを「まず子どもたちを満腹にさせなければなりません。」と表現したのです。
このイエス様の意図が分からないならば、その人は、「イエス様って、冷たい人なんだ。私たちを差別している。」と怒りの感情が出てくるかもしれません。一方、このギリシア人の女性は、イエス様の言われた事に対して怒りをもったり、悪口を言ったりしなかったのです。そうではなく、彼女は、イエス様のことばを受け止めつつも自分が何を願っているかを、改めて伝えていくのです。
彼女は「食卓の下の子犬でも、子どもたちのパン屑はいただきます。」と答えたのでした。娘を助けるためにこの女性は、イスラエルの民のおこぼれであったとしても、それを頂きたい、それほどまでにイエス様によって娘の苦しみが取り除かれることを願ったのです。
多くのクリスチャンは、何か苦しいことがあったり、悩みがある時に、「神様、助けてください」と祈ると思うのです。ところが、その祈りが自分の願い通りにならないとあきらめてしまう事がある、そういう経験を何度も繰り返しているかと思うのです。というのも、神は、しばしば、私たちの願いをそのまま、その通りにかなえてくれる訳ではないからです。あくまでも、神のみこころならば、私たちのその願いが聞き入れられるからです。
そういう中にあって、私自身が考えさせられたのは、「果たして自分の祈りは、このギリシア人の女性のように、イエス様に対してへりくだった上で、真剣に祈り求めているのだろうか。」そんな風なことを思い巡らしたのです。ある時は、真剣に神様に頼って、神様が助けてくださる、そういう思いで過ごしている時期もあった。けれども、特に大きな問題がない状況が続くと、あの時の真剣な祈りを忘れてしまったかのように、神様の前でへりくだったり、真剣に自分の願いを訴える、そういう事をしなくなっている。そんな事を繰り返してきたことに気づかされるのです。
娘を助けるために真剣にイエス様にお願いしているこの女性の姿は、私たち信仰者が、もう一度、神様に真剣に祈る、そういう事の大切さを思い起こさせるための貴重な出来事なのです。
神はイスラエルの民であっても、それ以外の民族であっても、イエス様に助けを求める人々の声をきちんと聞いて下さるお方だからです。そのことをもう一度、思い起こしてみたいのです。
確かに、この女性の願いに対するイエス様の最初の反応は、意地悪をしているかのように感じるかもしれません。けれども、イエス様は、彼女にはきちんとした信仰があって、その信仰をことばによって表現することを期待して、敢えて、すぐには「あなたの娘から悪霊を追い出します」とは言われなかったのです。彼女自身が、どれ程イエス様に期待をしているのか、その思いを、イエス様は知ろうとしておられたのです。
もう20年以上前ですが、私が神学校で学んでいた時、旧約聖書を教えていた先生が、最後の授業が終わった時に言いました。「皆さん、私は後数週間で期限が切れる電車の回数券を3枚持っています。ほしい人がいたら、手を挙げてください。」このように言ったのです。その先生は授業の中で繰り返し「自分の願いをきちんと言える人には、神様はその願いをかなえてくださるお方です。ですから、あなたがたも祈りの中で具体的に何を求めているのかを言うと良いですよ。」と言っていたのを私はすぐに思い出しました。そして、誰よりも早く手を挙げて、ほしいですと表明したのです。その結果、「電車の回数券」を頂けたのです。金額にしてみればせいぜい、5~600円ですが、ほしいと願ったものが与えられるというのは、金額以上にうれしい気持ちとなったのでした。
この先生は、神様がどういうお方なのかを、自分の信仰生活の中で学び取っていて、そのことを分かってもらうために、敢えて電車の回数券がほしいと願った人に、それをただで渡すという方法を用いたのです。
もしギリシア人の女性が、「あ~、自分の娘は助けてもらえないかもしれない。イエス様は自分を相手にしてくれないかもしれない」との思いが強かったならば、イエス様の応答を聞いて、引き下がっていたかもしれません。しかし、熱意を持ってお願いすれば、イエス様は助けてくれるに違いない、と確信していたのでしょう。そして、イエス様は、そのような彼女の思いを確認したかったのです。
IV 女性の娘を助けた主イエス(29~30節)
最後29~30節に進みます。
29節で、イエス様は女性の信仰がしっかりしていると確認すると、「悪霊はあなたの娘から出て行きました。」と宣言したのです。こうして、イエス様は苦しんでいる本人がその場にいなかったとしても、母親の願いを聞き入れ、その娘を悪霊による苦しみから解放してくださったのです。30節には、彼女が家に帰ると…悪霊はすでに出ていた。とあるように、イエス様が宣言された通りに、娘は癒されていたのでした。
私たちが、自分の願いを具体的に神様に祈っていくことは大切な事です。神様は、その願いをきちんと聞いて下さるお方です。ある人々は、「祈ったとしても、祈りは聞いてもらえないのではないか、どうせ自分が祈っても何も変わらないのではないか。」と否定的な感情が出てくるかもしれません。「いや長年祈っているけれども、状況が何も変わらないではないか。」と文句が言いたくなるかもしれません。けれども、神は、神のみこころのままに、その人に最善の道に導いて下さるお方なのです。
祈りを捧げるポイントは、神様が「自分に」あるいは、「自分の周りの人々に」どのような祝福を注いでくださるかに目を向けていく事なのです。私たちが、神のみこころが何であるのかを悟ることができる時、自分自身がいかに神に愛されているのか、また、多くの祝福を受けているかに気づかされていき、心が平安で満たされていくのです。
今日の箇所の出来事は、どちらかというと、自分の家族あるいは、知り合いの中で苦しんでいる人がいたならば、その人のために真剣に祈ることの大切さを教えているのです。ですから周りの人々の悩みや苦しみを自分自身の事として受け止めることができるとき、より熱心に神に祈っていくことができるのではないでしょうか。神は私たちに隣人を愛することができるようにと導いて下さるお方です。この神に私たちは期待をするのです。
まとめ
イエス様が天に昇られる時に、イエス様は「すべての民族に福音を伝えるように」と命じられました。ですから、民族に関係なく、また、その人の身分や立場に関係なく、経済的に豊かであるとかそうでない事とか関係なく、すべての人々に福音が宣べ伝えられる事が神のみこころなのです。
そして、イエス様の福音を信じた人々は、神様に対して自分の願いを祈る特権が与えられているのです。いや、自分自身の事だけでなく、自分の周りで苦しんでいる人、悩んでいる人、試練にあっている人が、その苦しみから解放されるようにと、祈る特権が与えられているのです。
イエス・キリストは決して意地悪なお方ではありません。しばしば、祈りが聞かれないと、「どうして私の祈りは聞かれないのですか。」との不安な思いが出てくることがあるかもしれません。それでも、神は私たちを祝福して下さるお方だと信じ、信仰を奮い立たせて、自分のために、また、自分の周りの人々のために祈っていきましょう。
お祈りします。
