・説教 テサロニケ人への手紙第一3章11-13節「パウロの祈り」
2019.09.29
鴨下 直樹
⇒ 説教音声はこちら
今日の箇所はパウロの祈りです。前回少し長い箇所を取り扱いましたが、今日はまた短い箇所で、この3節に記されたパウロの祈りに目をとめてみたいと思います。
祈り、これは主が私たちに与えてくださった最大の贈り物の一つです。この天地を創造し、今もすべてを支配しておられるお方が、私という一人と直接向き合ってくださる、それが祈りです。けれども、どうも私たちは祈りを一方通行なものと感じ、相手が見えないと思い込んでしまいます。そうすると、わがままな祈りをしてしまいがちになるのです。そういうこともあってか、祈りがなかなか深まりません。祈りが喜びとならず、どう祈っていいか分からないと感じている方が少なくないのです。
今、私は古川家の家庭集会で、聖書の中にある祈りをひとつずつ取り上げて、聖書の祈りを学ぶことを通して、私たちの祈りがもっと豊かになるといいなと願っています。そういう意味では、今朝こうしてみなさんと共に聖書の祈り、パウロの祈りに耳を傾けてみることはとても大切な機会になると思っています。
「祈り」と言ったときに、私たちがどうしても多くの言葉を費やすのは「願いごとの祈り」です。ひょっとすると、祈りというのは、お願い事をすることだと思っている方もあるかもしれません。そこで、もう一度考えてみたいと思うのですが、まず、祈りは神との交わりです。
ちょっと想像してみていただくといいかもしれません。みなさんの子どもさんでも、親でも、友人でも誰でもいいのですが、誰かと話をする。その時に会話を楽しむことが出来ると、それはとても良い時間を過ごすことができたということになると思います。ところが、その時に、相手から一方的にお願い事だけをされるとしたらどうでしょうか。
「ちょっとあなたにお願いしたいことがあるんだけれども、もう少しあの人と話すときには、あの人が喜ぶことを話してもらえないか」とか、「私に関して言うと、もう少し私に親切にしてほしいし、私がもっと健康でいられるように気にかけてほしいし、最近○○さんが苦手なので、ちょっと何とかしてほしい」と続いて、挙句の果てに、「ちょっとお金に困っているので、貸してほしいんじゃなくて、少し多めにいただけないだろうか。車も買い替えたいし、医療費もかかって困るので・・・」
こういう会話をずっと繰り返していて、その会話が相手にとって楽しい時間になるかと考えてみる必要があるわけです。話を聞いている相手の方は、ほとんど拷問のような時間でしかないわけです。それでも、毎日毎日、その話を我慢して聴いていてくださるとしたら、それはもうただひたすら忍耐と愛ということでしかないと思うのです。
普通誰かと会話をするときには、ちゃんと相手のことを考えて話します。相手がどういう人で、その人の何を知ることができたら自分はうれしい気持ちになるのか。自分の何を知ってほしいと思っているのか。会話はキャッチボールですから、自分の球を投げるだけではなくて、相手のボールも受け止める必要があるのです。私たちは普段、誰かと会話をするときは、そういうことを自然に気を付けながら話しをすると思うのです。ところが、相手が神様に変わったとたん、こういう当たり前のことは頭から吹っ飛んでしまって、まるで石打ちの刑のように、自分の願いを込めた石を、ひたすら相手にぶつけ続けているのだとしたら、そこに祈りの祝福などないのだということに気づく必要があるのです。
そんなことを少し覚えながら、今日の祈りを見てみると、パウロはこの箇所の前のところで、こう言っています。10節です。
私たちは、あなたがたの顔を見て、あなたがたの信仰で不足しているものを補うことができるようにと、夜昼、熱心に祈っています。
「あなたがたのことを夜昼、祈っている」と口にしたとたん、パウロはもう次の11節から祈り始めているわけです。 (続きを読む…)