2017 年 1 月 31 日

子どもと親のプログラム(2月のご案内)

Filed under: 子どもと親のプログラム,教会の活動 — susumu @ 16:20

kodomo201702

  • Mama’s cafe
    ...2月28日(火)朝10:00~12:00
    (通常、第4火曜日の開催です。参加費:300円…デザート&飲み物)
    ノーバディーズパーフェクト(略NP)から生まれたママ達のおしゃべりサロンです。NP卒業したママや、こひつじクラブのママ、ハレルヤちびっこ、サタデージョイのママ達と、そのお友達にご案内しています!
    お申込みは教会まで 電話 ♪058-243-5798
    または⇒こちらのフォームからメッセージを送信してください。
    (25日頃までにお願いします)。

 

  • 未就園(0歳から)のお子さんと親のプログラム「こひつじクラブ」
    ...2月14日(火)朝10:30~12:00
    参加費:親子で200円
    準備の関係で、前の週の土曜日(11日)までに出欠をご連絡ください。⇒連絡フォームはこちら

 

  • 就園児(3歳から)と親のプログラム「ハレルヤちびっこ」
    ...2月25日(土)(今月は第4土曜日です!)

 

  • 小学生のためのプログラム「サタデージョイ」
    ...2月4日、18日、25日(土)朝10:00~11:30 参加無料

 

  • 中高大&ユースのクラブ 芥見JC
    ...毎月第3土曜日 参加費: 200円(夕食つき)楽しいよ!

お申込みは教会まで 電話 ♪058-243-5798
または⇒こちらのフォームからメッセージを送信してください。
 

2017 年 1 月 29 日

・説教 詩篇42、43篇「谷川を慕う鹿のように」

Filed under: 礼拝説教 — susumu @ 15:42

 

2017.01.29

鴨下 直樹

 
 もう何年も前のことですが、岐阜の白川郷の近くで学生会の長期キャンプに行きました。その時に渓谷を散歩したことがあります。深く切り立った谷間を苦労しながら降りていくと、本当に川とは呼べないほどの僅かな水が流れているところに出ました。その谷間を歩いていると、崖の上から勢いよく黒い塊が落ちて来ました。何かと思って身構えるとニホンカモシカでした。私はニホンカモシカをはじめて見ましたのでびっくりしました。色の黒い角の短い鹿が突然目の前に現れたのです。私もびっくりしたのですが、鹿もびっくりしたのでしょう。慌てて今降りて来たばかりの谷をまた登って行ってしまいました。時間にしてほんのわずかな間の出来事です。その時とっさに、この詩篇の冒頭の言葉を思い出しました。

「鹿が谷川の流れを慕いあえぐように、神よ。私のたましいは、神を、生ける神を求めて渇いています。」

 とても印象的な言葉で始まる詩篇です。情景をよく描くことができます。私は目の前で起こった出来事を見ながら、水を求めて谷を降りて来た鹿も、まさにここに書かれているように命がけなのだということを思い知らされました。あの谷間に降りていけばそこには必ず水がある。鹿が身の危険を冒してまでもそうせずにいられないのは、生きるのに水が必要不可欠だからです。そして、私たちにもまさにそのように、神が必要なのだということに気づかされるのです。

 けれども、普段、私たちはそれほどまでに神を求めなくても何となく生きていけるということを繰り返しているうちに、どこかで、神はいつでもそこにあって、自分が必要になったらいつでも神を呼び出せるなどと考えてしまっているのかもしれません。そんなことを考えさせられる詩篇です。

 この詩篇42篇の前に第二巻と書かれています。詩篇はここから新しい巻物になります。そして、この詩篇第二巻はエロヒーム詩篇と呼ばれています。エロヒームというのは「神」というヘブル語です。第一巻は主の御名である「ヤハウェ」という言葉で主が語られていたのですが、ここでは「神」という名前に抽象化されているわけです。この42篇と43篇はもともとひとつの詩篇であったと考えられますので今日はまとめてここから主のみ言葉を聞きたいと思います。この詩篇の表題は「コラの子たちのマスキール」。どうも、このコラの子というのは神殿の礼拝で賛美を歌う役割を担っていたようで、「マスキール」というのは「教訓歌」というような意味があります。しかし、内容は非常にダビデの詩篇のような特徴があります。私はダビデによるものではないかと感じます。

 この詩篇の詩人はどうも大きな悲しみの中にいたようです。3節には「私の涙は、昼も夜も、私の食べ物でした。」と言っています。子供の頃には泣き虫だと言われたことがある人もいるかもしれませんが、大人になるにつれて人はだんだん泣かなくなります。できるかぎり泣かないですごせるように生きているわけです。泣かないで生活できるということはある意味ではとても幸いなことです。ですから私たちにとって「昼も夜も涙が私の食べ物」というような経験はあまり味わうことはないかもしれません。けれども、この言葉に言い表されているような心の渇きということは理解できるのではないかと思います。 (続きを読む…)

2017 年 1 月 28 日

教会の電話が不通でしたが、回復しました。

Filed under: お知らせ — 鴨下 愛 @ 14:07

教会の電話、何らかの故障があり、一週間ほど繋がらない状態になっていましたが、本日 回復しました。

大変ご不便をおかけしました。

 

2017 年 1 月 22 日

・説教 詩篇37篇「比較からの自由」

Filed under: 礼拝説教 — susumu @ 15:23

 

2017.01.22

鴨下 直樹

 
 毎年、新しい年を迎えますとカレンダーを新しくします。何人かの方は星野富弘さんのカレンダーを使っておられる方もおられると思います。星野富弘さんは、もともと中学校の体育教師でしたが、指導中の事故で頸椎を損傷し、体が不自由になってしまいました。動かせるのはごくわずかです。ところが、体の自由が奪われてから、彼は口に筆をくわえて絵や詩を書き始めます。そして、その絵や詩は多くの人の心を慰める作品としてとても親しまれています。この星野富弘さんがまだ入院して間もなく、同じ怪我で入院した中学生のター坊という少年と出会います。そのことが星野さんの本の中に記されています。星野さんは、このター坊のことをずいぶんかわいがっていたようで、ター坊の回復のために祈る気持ちでいたそうです。そして奇跡的にター坊が回復して、腕や足が動くようになります。

 ところが、そこから星野さんの気持ちの中に変化が生まれます。そのことがある本の中に書かれています。こんな言葉です。「私は心の中でどうしようもない寂しさが芽生えてくるのを認めないわけにはいかなかった。みじめなことだけれど、それはター坊への嫉妬であった。神に祈るような気持であれほどター坊の回復を願っていた私なのに、奇跡のようにター坊のからだが動き始めたときから、ター坊を見つめる私の目には、小さな影ができてしまった。『喜べ。ター坊の回復を、一点の曇りなく喜べ。お前はそれほどみみっちい男ではないはずだ。』私は叫ぶように自分に言い聞かせた。」

 同じ病を抱えながら、ある人は癒され、ある人は癒されない。心の中に複雑な気持ちが生まれます。それは、人と自分を比較するところから始まります。人と比較することから生じる悩み、苦しみ、これは、私たちが誰もが毎日のように味わう経験です。

 今日の詩篇は少し長い詩篇です。二節ずつ区切られていまして、ひとまとまりの詩篇というよりも、箴言のような散文的な文章が続いています。これはアルファベットの詩篇で二節ずつ頭文字がアルファベット順に並んでいる詩篇です。しかも、内容は先生がまるで教えているかのような響きがあります。そして内容を見てみますと、「悪者」と「正しい者」との対比です。比較しているわけです。しかも、この詩篇を読んで気づくのは、「悪者」、つまり「神を敬わない者」は栄えているという現実が突き付けられているわけです。神を信じているものが、成功して、神を信じていないものがうまくいっていないというのなら話は分かりやすいのですが、ここではそうではありません。

 冒頭にこう記されています。

悪を行う者に対して腹を立てるな。不正を行う者に対して妬みを起こすな。

このような言葉を聞いて、素直に、納得できるでしょうか。先日も祈祷会である方が、改まって、「悪いことをしてくる人に対して腹を立ててはいけないんでしょうか?」と尋ねられました。みなさんはどう思われるでしょうか。 (続きを読む…)

2017 年 1 月 15 日

・説教 詩篇36篇「あなたの恵みは天にあり」

Filed under: 礼拝説教 — susumu @ 15:25

 

2017.01.15

鴨下 直樹

 
「罪は悪者の心の中に語りかける。彼の目の前には、神に対する恐れがない」という言葉で、この詩篇ははじめられています。「悪者」と言う言葉がこの詩篇の冒頭に出てきます。「悪人」と聞くと、「物凄く悪い奴」とすぐに頭の中で置き換えてしまいがちですが、「神を敬わない者」という意味の言葉です。罪が人の心に語りかけると書かれています。「神のことなんか考えなくていい」と。神など恐れなくてもよい。どうせ神などいないのだから。何をやったって誰にもわかりっこないのだから。ひょっとすると私たちは毎日、色々な生活の場面でそういう心の葛藤を感じているのかもしれません。あるいは、そんな声も気にならないほどに、神に心を向けないことが当たり前になってしまっているかもしれません。

 この詩篇は、冒頭で、まさに人の罪の本質に目を向けさせています。2節の言葉は少し翻訳が難しいために分かりにくい言葉になっていますが、他の聖書、新共同訳聖書では

自分の目に自分を偽っているから、自分の悪を認めることも、それを憎むこともできない。

となっています。自分の罪に気付かなくなってしまっている。もう当たり前になってしまっていて、自分の悪い部分に気づかなくなってしまう。ここに、罪の恐ろしさが描き出されています。自分の心を偽りすぎて、無感覚になってしまうというのです。

 先週、成人式が各地で行われました。毎年、ニュースになるのは、新成人たちが各地で起こした「悪ノリ」と言ったらいいのでしょうか。お酒を飲んで、酔っぱらって注目を集めようとして、警察に取り押さえられるニュースが毎年毎年、変わることなく繰り返されます。お酒を飲んで、気持ちが大きくなって、だんだん悪いことをしている自覚がなくなっていく。まさに、それに似ているのかもしれません。

 「罪」というのは、私たち、すべての人間の心の奥底に潜んでいます。そして、何度も何度も繰り返していくうちに、悪いことをしているという意識がなくなって、自分の罪を認めることができなくなってしまうのです。あるいは、みんなもやっていることだからという思いが働いて、普通に考えたらやってはいけないことなのにブレーキがかからなくなってしまう。お酒の力をかりて、自分勝手に振る舞うことをよしとしてしまう。ついうっかり、ということもあると思います。私たちは毎日、この悪の思いとの葛藤があります。けれども、その葛藤もブレーキが利かなくなってしまうとどんどんエスカレートしていってしまいます。3節の後半にはこう記されています。

彼は知恵を得ることも、善を行うこともやめてしまっている。

悪いことだと分かっていたはずなのに、いつのまにか知恵ある行動にでることができず、正しいことも行わず、気づくと表面を取り繕うことに心を向ける。この詩篇の冒頭の言葉は、私たちに罪とは何かということをするどく問いかけています。 (続きを読む…)

2017 年 1 月 8 日

・説教 詩篇27篇「主は私の光」

Filed under: 礼拝説教 — susumu @ 13:23

 

2017.01.08

鴨下 直樹

 
 この詩篇は二つの大きく異なる内容が組み合わさった詩篇です。前半の1節から6節は「信頼の歌」とも言える神への信頼を讃える内容ですが、7節からの後半は全く逆の「嘆きの歌」となっています。神は沈黙したまま応えてくださらない。そのために、全く異なる二つの詩篇が時間の経過とともに間違って一つにされてしまったのではないかと考える人もいます。

 けれども、私たちの信仰の歩みは、まさに同じようです。ある時は心から神を信頼して神を讃えたい気持ちでいるのに、次の瞬間にはもう神がどこかにいってしまっているように感じてしまうことがあります。以前、神学校で神学生がこんな会話をしていたことがあります。「クリスチャンホームで育った神学生は、何があっても神がいなくなったりしないのに、そうではない自分は時々神がいなくなってしまうことがある。その違いは埋めようがない。」と話していました。私はクリスチャンホームで育ちましたから、その神学生の言いたいことが完全には理解できませんでしたが、言おうとしていることは分かる気がします。ひとたび、神に対する疑いの思いに捉われてしまうと、神なんかいないのではないかとさえ、思いたくなるということなのだと思うのです。0か100か。そんなふうに考えてしまうような弱さが、私たちにはあるのかもしれません。

 この詩篇27篇はとても美しいことばで始まっています。

主は私の光、私の救い。だれを私は恐れよう。

 神を「光」という言葉で言い表す。それはよく考えてみると、聖書の冒頭から、そのように記されています。神は光を造り出されるお方です。「神は光です」と言い表したときに、そこには神がすべてのものを明らかにし、照り輝かせてくださって希望と温かさを与えてくださる。この神の「光」という性質そのものが「救い」なのだと言い表しています。とても、美しい信仰の言葉です。
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2017 年 1 月 1 日

・説教 エゼキエル書36章26節「新しい心、新しい霊」

Filed under: 礼拝説教 — susumu @ 15:26

 

2107.01.01

鴨下 直樹

 
 2017年を迎えました。今年、私たちに与えられている年間聖句はエゼキエル書36章26節のみ言葉です。

わたしはあなたがたに新しい心を与え、あなたがたのうちに新しい霊を授ける。

 このみ言葉はドイツにありますヘルンフート兄弟団という教会が『ローズンゲン』という日々のみ言葉の冊子がこの一年のためのみ言葉として選んだものです。ドイツのヘルンフート教会が自分たちのために作ったもので、このローズンゲンが作られるようになってもう300年近い歴史があります。そして、今では世界中のクリスチャンたちがこのローズンゲンを使うようになりまして、今では50を超える言語で翻訳されているそうです。

 先ほど、年間聖句のカードをみなさんにお配りしました。とても色鮮やかなものですが、この年間聖句のカードを、ドイツでは何種類ものカードを作っているのですが、インターネットで見ることができます。見てみると、実にさまざまなイメージのカードがあります。「新しい心、新しい霊」というのをどのようにイメージするか、そのイメージの豊かさがそのまま様々な種類のカードに表れているような気がしました。私たちの教会のカードは鳩とハートがイメージされています。鳩とハート。韻を踏んでいますが、音までは絵に現わそうとしたわけではないと思います。もう一枚の黄色のカードは青く塗られた人の中を、赤色の人が歩きだしているイメージです。おそらく、神様から新しい心と霊を与えられて、今から歩み出そうとしているイメージなのだと思います。

 神様が私たちに新しい心と、新しい霊を下さるというのは、いろいろなイメージで受け止められます。この聖書のみ言葉が、私たちに与えられている年間聖句だと知って、みなさんもいろんなイメージを持たれたと思います。新しい心を与えられるという場合に、連想するのは、心を入れ替えて新しくスタートするというようなイメージがあるかもしれません。それこそ、この新しい年を迎えるにあたって、今年は新しい気持ちで、新しいことにチャレンジしたい。これまでの自分を反省しつつ、心を入れ替えて新しく歩みだそうとする。そう考えると、このみ言葉は元旦に読むみ言葉としてはとても適した聖書の箇所と言えます。神が新しい心を下さる。それはどんな心なのでしょうか。私たちのイメージは豊かに膨らみます。

 問題は霊の方です。心の方は、自分で心を入れ替えるという言い方ができますからある程度イメージを抱きやすいと思います。けれども、自分の霊を新しくするという言い方はできません。そうすると、自分の力で何とかするというようにはいかなくなります。新しい霊をいただく。それはどういうことなのでしょうか。
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