・説教 詩篇42、43篇「谷川を慕う鹿のように」
2017.01.29
鴨下 直樹
もう何年も前のことですが、岐阜の白川郷の近くで学生会の長期キャンプに行きました。その時に渓谷を散歩したことがあります。深く切り立った谷間を苦労しながら降りていくと、本当に川とは呼べないほどの僅かな水が流れているところに出ました。その谷間を歩いていると、崖の上から勢いよく黒い塊が落ちて来ました。何かと思って身構えるとニホンカモシカでした。私はニホンカモシカをはじめて見ましたのでびっくりしました。色の黒い角の短い鹿が突然目の前に現れたのです。私もびっくりしたのですが、鹿もびっくりしたのでしょう。慌てて今降りて来たばかりの谷をまた登って行ってしまいました。時間にしてほんのわずかな間の出来事です。その時とっさに、この詩篇の冒頭の言葉を思い出しました。
「鹿が谷川の流れを慕いあえぐように、神よ。私のたましいは、神を、生ける神を求めて渇いています。」
とても印象的な言葉で始まる詩篇です。情景をよく描くことができます。私は目の前で起こった出来事を見ながら、水を求めて谷を降りて来た鹿も、まさにここに書かれているように命がけなのだということを思い知らされました。あの谷間に降りていけばそこには必ず水がある。鹿が身の危険を冒してまでもそうせずにいられないのは、生きるのに水が必要不可欠だからです。そして、私たちにもまさにそのように、神が必要なのだということに気づかされるのです。
けれども、普段、私たちはそれほどまでに神を求めなくても何となく生きていけるということを繰り返しているうちに、どこかで、神はいつでもそこにあって、自分が必要になったらいつでも神を呼び出せるなどと考えてしまっているのかもしれません。そんなことを考えさせられる詩篇です。
この詩篇42篇の前に第二巻と書かれています。詩篇はここから新しい巻物になります。そして、この詩篇第二巻はエロヒーム詩篇と呼ばれています。エロヒームというのは「神」というヘブル語です。第一巻は主の御名である「ヤハウェ」という言葉で主が語られていたのですが、ここでは「神」という名前に抽象化されているわけです。この42篇と43篇はもともとひとつの詩篇であったと考えられますので今日はまとめてここから主のみ言葉を聞きたいと思います。この詩篇の表題は「コラの子たちのマスキール」。どうも、このコラの子というのは神殿の礼拝で賛美を歌う役割を担っていたようで、「マスキール」というのは「教訓歌」というような意味があります。しかし、内容は非常にダビデの詩篇のような特徴があります。私はダビデによるものではないかと感じます。
この詩篇の詩人はどうも大きな悲しみの中にいたようです。3節には「私の涙は、昼も夜も、私の食べ物でした。」と言っています。子供の頃には泣き虫だと言われたことがある人もいるかもしれませんが、大人になるにつれて人はだんだん泣かなくなります。できるかぎり泣かないですごせるように生きているわけです。泣かないで生活できるということはある意味ではとても幸いなことです。ですから私たちにとって「昼も夜も涙が私の食べ物」というような経験はあまり味わうことはないかもしれません。けれども、この言葉に言い表されているような心の渇きということは理解できるのではないかと思います。
この詩篇のテーマは2節に語られている「たましいの渇き」。少し前のことですけれども、医師をしておられるJさんが礼拝の後でこんなことを話してくださいました。WHO世界保健機構が定めている4つの痛みという定義があるのだそうです。それによると、身体的痛み、心理的痛み、社会的痛み、霊的な痛みという分け方があるのだそうです。身体的な痛みというのは説明されなくても良く分かると思います。心理的痛みも分かるでしょう。心の痛み、悩み、不安そういったものでしょう。社会的痛みというのは仕事の問題や経済的な問題、人との関わりや社会とのかかわりの中で生じる痛みです。霊的な痛み。Jさんはその話を聞いたときに先生に質問したのだそうですが、「良く分からん」という返事が返ってきたのだそうです。
まさに「たましいの渇き」「心の渇き」と言っていいと思いますが、自分の存在そのものを問う問いです。生きる意味、死の問題、そういう人の心の奥底にあって簡単に痛みの解決に結びつきにくい霊的な問題というのが確かに存在しているわけです。そして、この霊的な痛み、渇きは、まさに人間を霊的な存在として創られた作り主なる神の御前にでることなしに、解決の道はないのだと思うのです。
そして、問題はここでこの詩篇の作者は、まさにたましいの渇き、霊的な痛みをかかえたままで、神に祈り求めようとしているのに、神が近くにおられないと感じて途方に暮れてしまっているのです。
昼も夜も涙が流れるような悲しみの中で、神を見出したいと思っているのに、祈っても神からの答えがない。それはまさに途方にくれたくなるような経験だと思うのです。世の中ではそういう時は「時間が解決する」というような言葉を使う時があるかもしれません。けれども、事は急を要する場合もあるのです。「人が一日中『お前の神はどこにいるのか。』と私に問う間。」と3節につづいて記されています。神とともに生きている者にとって、「お前の神はどこにいるのか」と問われることほど厳しい思いにさせられることはありません。WHOが霊的な痛みを痛みの定義として出したところで、神に祈っても答えはないではないか。神がいるなら見せて見ろ、証明してみせろという声は、決して小さな声ではないのです。
神を見出そうとしない人はよくこういいます。「なぜ、神がおられるなら世界にこれほどの宗教戦争があるのか」と。「なぜ、この世には理不尽なことが次々に起こるのか」と。多くの人が判をついたように、同じ言葉を繰り返します。兄弟げんかや夫婦の喧嘩を神のせいにする人はいません。けれども、国と国の争いになると、宗教と宗教の問題になると神をもちだしてしまうのは、もはや手に負えないと思ってしまうからなのでしょう。人は自分の手に負えない大きな問題になると、その理由や責任を神に求めてしまうようです。それはまさに、神を見出さなければ答えが見つけ出せないというまさに、人の抱えている霊的な痛みそのものです。どうしたら人は、そのような絶望的な状況の中で神を見出すことができるというのでしょうか。
5節にこうあります。新改訳の私が使っている第二版にはこう記されています。
わがたましいよ。なぜ、お前は絶望しているのか。御前で思い乱れているのか。
神など見出すことができないとすれば、人は絶望するほかありません。新改訳の第三版では
「なぜ、おまえはうなだれているのか」
となっています。聖書の言語からすると「絶望」はすこし訳しすぎな気がします。「うなだれている」と訳を変えたのはそのあたりが理由なのだと思います。神に顔をあげることができない状態になっているということです。
実は、この詩篇にはとても大切な言葉が何度も使われています。それは2節の最後の言葉です。
いつ、私は行って、神の御前に出ましょうか。
とあります。新共同訳聖書ではこう訳されています。
いつ御前に出て、神の御顔を仰ぐことができるのか。
ここには「神の御顔を仰ぐ」という言葉があります。この言葉は5節の最後にこう書かれています。「御顔の救いを」。新改訳の第二版は翻訳が省略されてしまっているのですが、11節の最後「私の救い」という言葉も、43篇の5節も同じ言葉です。第三版は翻訳がなおされていて「わたしの顔の救い」となっています。
この42篇の5節のところ、新共同訳はもっとはっきり訳されています。
なぜうなだれるのか、わたしの魂よ。なぜ呻くのか。神を待ち望め。わたしはなお、告白しよう。「御顔こそ、わたしの救い」と。
となっています。「御顔こそわたしの救い」。明確な言葉です。神の御顔を仰ぎ見る事こそが救いなのだと言っているのです。このことは、私たちに大事なことに目をむけされてくれます。
私たちは落ち込んでしまっている時、問題を感じている時、その問題に目を向けます。そして、これは大変だと思ってしまうのです。国と国との戦争も、地震や天災もそうです。この詩篇でもそれは同じです。7節。
あなたの大滝のとどろきに、淵が淵を呼び起こし、あなたの波、あなたの大波は、みな私の上を超えていきました。
大滝の流れの前にいるかのように、水が自分に迫って来る。波が、大波が津波のように打ち寄せて来る。そういう時に、冷静でいられる人などいないものです。自分に襲いかかる激しい波を見る時に思うのは、もう駄目だという事だけです。そして、神はいないのかと叫びたくなってしまうのです。神がいないかのような不安を覚えるのです。
しかし、この詩篇ははっきりと宣言しています。それは、神の御顔を仰ぎ見る事こそが救いなのだと。これまで、詩篇の説教の中で何度も何度も繰り返して語り続けている言葉があります。「ヘセド」という言葉です。ここでは8節に書かれている言葉
「昼には、主が恵みを施し、夜にはその歌が私とともにあります。わたしのいのち、神への祈りが。」
とあります。昼も夜も神の恵みが注がれていると言っています。この「ヘセド」は神の慈しみのまなざしです。神が顔を向けていてくださるということです。
神は変わることなく私たちに顔を向けていてくださるのです。けれども、私たちはつい問題が自分に襲いかかると、神を見出せなくなるくらいに、問題だけを見つめてしまうのです。そして、もう駄目だと頭を抱えてしまうのです。その時、私たちはどうしたら再び神を見出すことができるのか。それは、問題だけをみることをやめてみる事。そして、頭を高く上げてみる、神を仰ぎ見ること。もうそのことにつきるのです。何かに腹を立てている時、腹の立つその対象をつい考えしまいます。その時、「やめた、やめた。そんなこと考えるのではなくてお祈りしよう」と実際に腹を立てるのをやめて、神の前に顔を上げて祈ってみる事です。すると、確かに分かるのです。神が、確かに、私たちを見つめてくださって、昼も夜も、私たちに目を向け、慈しみのまなざしを注いでいてくださることが。
そして、そのことが分かると、「待ち望む」ということができるようになるのです。
どうか、あなたの光とまことをおくり、私を導いてください。
と43篇の3節の祈りのように祈ることができるようになるのです。
私たちの主なる神は、問題の霧のただ中にあっても、その先から慈しみのまなざしで見つめていてくださるお方です。このような主を、私たちが鹿のように谷川の水を求め慕う時に、主は私たちにご自身を現してくださるのです。そして、その時、私たちはその祈りの中で、主の慰めを発見することができるのです。
お祈りをいたします。