2017 年 1 月 22 日

・説教 詩篇37篇「比較からの自由」

Filed under: 礼拝説教 — susumu @ 15:23

 

2017.01.22

鴨下 直樹

 
 毎年、新しい年を迎えますとカレンダーを新しくします。何人かの方は星野富弘さんのカレンダーを使っておられる方もおられると思います。星野富弘さんは、もともと中学校の体育教師でしたが、指導中の事故で頸椎を損傷し、体が不自由になってしまいました。動かせるのはごくわずかです。ところが、体の自由が奪われてから、彼は口に筆をくわえて絵や詩を書き始めます。そして、その絵や詩は多くの人の心を慰める作品としてとても親しまれています。この星野富弘さんがまだ入院して間もなく、同じ怪我で入院した中学生のター坊という少年と出会います。そのことが星野さんの本の中に記されています。星野さんは、このター坊のことをずいぶんかわいがっていたようで、ター坊の回復のために祈る気持ちでいたそうです。そして奇跡的にター坊が回復して、腕や足が動くようになります。

 ところが、そこから星野さんの気持ちの中に変化が生まれます。そのことがある本の中に書かれています。こんな言葉です。「私は心の中でどうしようもない寂しさが芽生えてくるのを認めないわけにはいかなかった。みじめなことだけれど、それはター坊への嫉妬であった。神に祈るような気持であれほどター坊の回復を願っていた私なのに、奇跡のようにター坊のからだが動き始めたときから、ター坊を見つめる私の目には、小さな影ができてしまった。『喜べ。ター坊の回復を、一点の曇りなく喜べ。お前はそれほどみみっちい男ではないはずだ。』私は叫ぶように自分に言い聞かせた。」

 同じ病を抱えながら、ある人は癒され、ある人は癒されない。心の中に複雑な気持ちが生まれます。それは、人と自分を比較するところから始まります。人と比較することから生じる悩み、苦しみ、これは、私たちが誰もが毎日のように味わう経験です。

 今日の詩篇は少し長い詩篇です。二節ずつ区切られていまして、ひとまとまりの詩篇というよりも、箴言のような散文的な文章が続いています。これはアルファベットの詩篇で二節ずつ頭文字がアルファベット順に並んでいる詩篇です。しかも、内容は先生がまるで教えているかのような響きがあります。そして内容を見てみますと、「悪者」と「正しい者」との対比です。比較しているわけです。しかも、この詩篇を読んで気づくのは、「悪者」、つまり「神を敬わない者」は栄えているという現実が突き付けられているわけです。神を信じているものが、成功して、神を信じていないものがうまくいっていないというのなら話は分かりやすいのですが、ここではそうではありません。

 冒頭にこう記されています。

悪を行う者に対して腹を立てるな。不正を行う者に対して妬みを起こすな。

このような言葉を聞いて、素直に、納得できるでしょうか。先日も祈祷会である方が、改まって、「悪いことをしてくる人に対して腹を立ててはいけないんでしょうか?」と尋ねられました。みなさんはどう思われるでしょうか。

 自分に敵意を向けてくる人。私の言い分は聞き入れてくれないのに、自分の言い分だけは押し付けてくる人。その人に悪感情をむき出しにするほど子どもではないけれども、心の中で密かに腹を立てる事くらいは認められてもよさそうなものです。クリスチャンになると、そんなことまで耐えなければならないのだとしたら、ちょっと考えさせて頂きたいという気持ちが出てきてしまうのも無理はありません。

 けれども、こういう聖書の言葉を理解する時には、その一つの言葉だけをみないでその文章を全部読むことです。ここはこの1節の言葉だけで終わってはいません。2節にこのように続いています。

彼らは草のようにたちまちしおれ、青草のように枯れるのだ。

物事は落ち着いて最後まで読まなくてはなりません。ここまでがひとくくりの文章です。二行目から書かれているのは、腹を立てるだけではない、妬みを引き起している。つまり、自分と比べているわけです。その人の言っていること、やっていることと、自分とを比べてみる。やはり納得がいかない。そして、神の真実はどこにあるのか、神の正義はどこにあるのかと問いたくなるのです。けれどもこの詩篇は、まるで一人の教師ででもあるかのように、それは「青草のようだ」と告げています。今は、青々と生い茂るたくましい青草も、冬がくれば枯れ果ててしまう。一時的に栄えているように見えても、それはいつまでも続かない。そこにこそ、神の真実が示されているのだとこの詩篇の教師は語りかけているのです。

 8節と9節にはこうあります。

怒ることをやめ、憤りを捨てよ。腹を立てるな。それはただ悪への道だ。悪を行う者は断ち切られる。しかし主を待ち望む者、彼らは地を受け継ごう。

 ここで問いかけているのは、比較することをやめよということです。星野富弘さんも、同じ病気の子が癒されていくのに、なぜ私がというみじめな思いに支配されてしまったと書いていました。自分を守ろうと思う時、人は攻撃的になります。その反対に、自分の醜さに気づかされる時に、人はみじめな気持ちになってしまいます。どちらにしても、比べてしまう心から自由になってはいません。ここでは二つのことが記されています。一つは「断ち切られる」ということで、もう一つは「地を受け継ぐ」ということです。

 今、名古屋の神学校でレビ記を教えています。昨年、この教会でも一年ほどかけてレビ記を学びました。レビ記には、神の戒めに従わない者は「断ち切られる」と書かれていました。「断ち切られる」というのは、どういうことかといいますと、「民から断たれる」ということでした。神の民ではなくなるというのです。それは、つまり約束の地、カナンの土地を相続することができなくなるということでした。そして、神の祝福はここに記されている「地を受け継ぐ」という言葉で言い表されているわけです。昨日の講義でもこの「地を受け継ぐ」というのはどういう意味かという質問がありました。みなさんはどう考えられるでしょうか。

 旧約聖書を読んでいますと、死後の希望というようなメッセージはほとんど書かれていません。大切なことは、神からの約束の土地を受け継ぐことができるかどうか、ただ、その一点にかかっていました。つまり、ダビデの時代、この詩篇の書かれた時代でいえば、今、自分の住んでいる土地にそのままとどまり続けることでした。

 けれども、みなさんもそうかもしれませんけれども、自分が長く住んでいる土地というのはもうそこに住んでいるのは当たり前のことになってしまっていて、神が祝福してくださるというのは、それに何かプラスアルファされることと考えてしまうのではないでしょうか。これが、新約聖書になりますと、この神からの約束の地は、実際の田畑、住まいということよりも、神と共に生きる生活ということが大事なのだということに、さらに進んで目を向けさせていきます。これを「漸進的啓示」と言います。漸というのはさんずい偏に斬るという字を書きます。順をおって目的に到達するという意味です。時には前に進むという前進的という言葉を使う方もありますが、どちらも同じ意味です。神の啓示はすこしずつ明らかになっていきます。そうして、神の祝福の全体像というものがはっきりしてくるわけです。

 神は私たちをどこか理解を超えたプラスアルファを与えることによって祝福してくださるというよりも、毎日の生活が神に支えられながら確実にまもられていることにあることに目を向けさせようとしています。つまり、毎日同じような生活がつづいて退屈に感じられたとしても、周りがいくら派手な生活をしたり、特別を味わっていることが妬ましく見えたとしても、私たちは毎日の確かな生活を神から約束されている、受け継いでいるのだから、主に期待し続けていくことが大事なのだということをここで気づかせているわけです。

 私たちが人と比較してみじめな気持ちになったり、あるいは人に腹を立ててしまう時も、大事なことは、人と自分を比べることではなくて、神が私たちをどのように見ていてくださるかに目をとめることが大事なのです。神は、私たちを他の人と比べて判断をなさるお方ではありません。このことは、私たちにとって大きな慰めです。神は私たちを、人に腹を立てたり、自己憐憫を感じたりする私たちをそのまま受け入れてくださるお方です。この神の御前に立つときに、私たちは人と比較することから自由になるのです。

 そして、そのことは同時に、私たち自身が人から比較されることからも自由になれるということなのです。大切なことは人からどうみられるかではなくて、神が私をどうみてくださるかということだからです。

 時々、私は色々な人との会話の中で言うことがあるのですが、それは、他の人の評価は絶対的なものではないし、他の人はある一部分を見て評価しているにすぎないので、その評価を自分に対する絶対的な評価として恐れる必要はないのだから、気にしないようにすることが大切だという話をします。もちろん当たっている部分は多くあるのだと思います。しかし、この他人からの評価ということに縛られてしまうと、人を恐れ、媚びなくてはならなくなってしまいます。人の意見は受け止めながらも、すべてのことを御存じなのは主ただお一人ですから、恐れるべきは主ご自身ということをしっかりと受け止めること。このことが、本当に分かると人は自由になることができます。人の顔色を恐れなくなります。私たちのことを正しく判断することができるのは、ただ、神お一人です。たとえ夫婦であっても、両親であっても、自分の子どもであってもその評価は絶対ではありません。

18節と19節にこう記されています。

主は全き人の日々を知っておられ、彼らのゆずりは永遠に残る。彼らはわざわいのときにも恥を見ず、ききんのときにも満ち足りよう。

 「全き人」という珍しい言葉がここで使われています。ご存知のように全き人は「主ただおひとり」です。けれども、ここでは神を信頼する者、神と共に生きようとする者のことを「全き人」と呼んでいるわけです。「信仰義認」などという言葉を宗教改革者ルターが言う2000年も前から、詩篇にはこう書かれているわけです。神を信頼して生きる者を神は全き者としてみなしてくださる。その神と共に生きる者の日々を主は知っていてくださる。正しくない日があることも、過ちを犯してしまうことも。けれども、それでも、主に信頼して主により頼む者のことをここで「正しい人」と記しているわけです。これは、他の聖書の翻訳では「義人」となっています。そういう言葉がここで使われているわけです。

 神を信じて、義とされる者は、災いのときも恥を見ず、ききんのときにも満ち足りる。だから、安心しなさいとこの詩篇は語りかけているのです。

 新約聖書の主イエスが話されたたとえ話の中に、「放蕩息子」と一般的によばれることの多い二人の息子の話がでてきます。この兄弟の弟の方を「放蕩息子」と呼ぶことが多いわけです。というのは、このお父さんの家には二人の子どもがいました。兄は父の言いつけによく聞き従う人で、弟の方は跡継ぎではないこともあってでしょう、財産の生前分与を求めて、自分が貰えるはずの分け前を、先に分けてもらって、家を飛び出してしまいます。何か、その地で成功をおさめたかったのか、あるいは刹那的になっていたのでしょうか。いずれにしてもこの弟の方はそこで、放蕩して財産を使い果たしてしまいます。

 兄は跡継ぎでしたから、すべてのものは兄のものになるはずでした。けれども、兄は毎日父のもとで働いていますが、喜びがありませんでした。弟はうまい具合に財産をもらって家出してうまいことやっているに違いない。しかし、自分は父のもとで不自由な生活に縛られていると感じていたのです。そんなある日、この放蕩して財産をなくした弟が帰ってきます。お父さんは弟の帰宅を喜んでお祝いを始めます。しかし、兄はこの弟の帰宅をまったく喜ぶ事ができません。妬みしか起こらなかったのです。

 このたとえ話は、まさにこの詩篇37篇が問いかけているテーマそのものです。弟も、兄も、父と共に生きる喜びをみつけることができないでいたのです。ないものにばかり目をとめて、与えられている神からの祝福に気づくことができませんでした。けれども、弟は、外に出て放蕩して気づくのです。自分がどれほど豊かなところにいたのかを。神の祝福とは何か、父なる神と共にある喜びは何かに気づいたのです。そして、兄にも気づくように問いかけているのです。

 これは、私たちの物語です。神は、私たちにすでに豊かな祝福を与えていてくださいます。毎日喜んで生きることのできるものをたくさん備えていてくださいます。この主は私たちを毎日確かに支え、私たちを比較から自由にしてくださるのです。そうして私たちは毎日の当たり前の生活を心から喜んで生きることができるようになるのです。

お祈りをいたします。

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