2012 年 7 月 29 日

・説教 マタイの福音書26章26-35節 「最初の主の晩餐」

Filed under: 礼拝説教 — miki @ 12:18

2012.7.29

鴨下 直樹

今日の聖書の箇所は、最後の晩餐とペテロの裏切りの予告と言われるところです。今日の説教題を「最初の主の晩餐」としました。ですから、さっそくミスプリントではないかと問い合わせがありました。最後の晩餐の間違いではないのかと言うのです。

私たちは礼拝で聖餐を祝います。この礼拝堂も聖餐のためのテーブルが真ん中に置かれています。この聖餐卓を囲むようにして椅子が並べられている教会もあります。それほど、聖餐は教会の中心と言っても良いものです。この聖餐のことを主の晩餐と昔から言い表してきました。主がここでなされた晩餐を、教会は受け継いできたのです。
その最初の主の晩餐の席には、前回も読みましたけれども、裏切る者もそのテーブルの席についていました。そして、この晩餐の後でオリーブ山に出かける時にも、主イエスは弟子たちに「あなたがたはみな、今夜、わたしのゆえにつまづきます。」と言われたと三十一節にあります。この最後の食卓の席に招かれた者は、この後すぐに散り散りになってしまうのです。それが、最初の主の晩餐の姿でした。

今朝、みなさんと共に、主の食卓を囲んで聖餐を祝うことができないことはとても残念です。けれども、私たちは真ん中に置かれた聖餐卓を見ながら、この朝、この食卓に私たちを招き、私たちのような不完全な弟子を愛してくださった主の御言葉に耳を傾けていきたいと思います。 (続きを読む…)

2012 年 7 月 22 日

・説教 マタイの福音書26章14-25節 「最後の食事の席で」

Filed under: 礼拝説教 — miki @ 14:14

2012.7.22

鴨下 直樹

今日の聖書の箇所は、主イエスの十二弟子、イスカリオテのユダが主イエスを裏切るところから始まります。ユダが銀貨三十枚でイエスを売ったとはじめに記されています。なぜこんなことをしたのか、そのユダの動機について聖書は直接的には記しておりません。けれども、「そのとき」とありますから、この前の出来事がユダの心を、イエスを裏切ろうという気持ちにさせたことは間違いありません。

まだ、主イエスに注がれた香油の匂いが部屋に充満しています。主イエスはこの女の愛の行為を喜んで受け入れられ、そこで憤慨する弟子に向かって「この女が、———わたしの埋葬の用意をしてくれたのです。」とお語りになられました。しかし、弟子たちはその時「こんな無駄なことを」と思ったのです。主イエスを愛することは無駄なことだと思ったというのです。そして、これが主イエスを裏切るユダの引き金となったのです。

主イエスはかつて自ら十二人の弟子をお選びになりました。実にさまざまな人を主イエスは御自分の弟子としてお招きになります。 (続きを読む…)

2012 年 7 月 15 日

・説教 マタイの福音書26章1-13節 「愛の香り」

Filed under: 礼拝説教 — miki @ 23:07

2012.7.15

鴨下 直樹

ここで不思議な出来事が起きています。部屋中に普通の量をはるかに超えた香水の香りが漂っています。充満していると言ってもいいほどです。主イエスの弟子たちはそれを見ながら、「何てもったいないことをするのだ」と怒っています。言われた女性は、自分が何か間違ったことをしたのではないかと戸惑っている。そんな光景です。
しかも、その出来事が主イエスがすべてのことを話し終えた後で起こったとマタイは記しています。そして、その日は過ぎ越しの祭りの二日前であったとありますから、主イエスの十字架につけられる直前です。緊迫した状況とは異なる場面です。
そしてこの奇妙な出来事を、主イエスは「この女が、この香油をわたしのからだに注いだのは、わたしの埋葬の用意をしてくれたのです。」と言い、さらには「世界中のどこででも、この福音が宣べ伝えられる所なら、この人のした事も語られて、この人の記念となるでしょう。」とさえ言われています。今日の聖書は、ちょっと不思議がことが次々に記されています。

この女の人のしたことが福音と同時に語られて、この人の記念になるというのです。つまり、埋葬の備えをしたことが、福音、良い知らせと同時に記念となる、と主イエスは言われました。どういうことなのでしょうか。 (続きを読む…)

2012 年 7 月 8 日

・説教 マタイの福音書25章31-46節 「小さな者をみつめて」

Filed under: 礼拝説教 — miki @ 22:01

2012.7.8

鴨下 直樹

今日の箇所は主イエスの十字架に架けられる直前の最後の説教です。そういうことからでしょうか、実に多くの説教者がここからの説教を残しております。それだけ多くの説教者たちの心を動かした主の言葉であるということもできます。

私たちの教会の長老、執事の方々はこの礼拝の後で役員会があります。実はそこで宿題が出されます。と言いますのは、私がこの教会に赴任する前のことですけれども、二教会一牧師ということで、後藤先生が二つの教会を兼任なさっておられました。そういうこともあって、芥見教会の役員たちは定期的に説教をすることになっており、今でも時々礼拝で説教をする機会があります。この夏も二人の方々が説教をします。それで、どういうふうに聖書を読んで説教するのかということを今学んでいます。今日は、それぞれ自分の説教をする聖書箇所から、どのように御言葉を聴き取ったかということを報告してもらうことになっているのです。
もう何人かが前もって私に問い合わせをしてきておりまして、どのように聖書を読んだらいいのかということを聞かれています。いつも聖書を読んでいても、いざ人に聖書から語ろうとすると、簡単なことではありません。

今日の聖書箇所を説教するとしたらどういうことになるでしょうか、という宿題にすればよかったかななどと思っています。といいますのは、ここで語られている主イエスの言葉は非常に強く心に残る聖書箇所だと思うからです。一度読んだら忘れることができません。 (続きを読む…)

2012 年 7 月 1 日

・説教 マタイの福音書25章14ー30節 「主からの賜物に生きる」

Filed under: 礼拝説教 — miki @ 20:38

2012.7.1

鴨下 直樹

今日の私たちに与えられているのは先週に引き続き、主イエスのたとえ話です。たとえ話というのは、一般の会話では少し説明することの難しい場合に例を交えて話すと分かりやすいということで使います。ですから、物事が分かりやすくなるわけです。ところが、主イエスの譬ばなしというのは、話を聞いてみると分かりやすそうなのですけれども、色々と考え始めますと良く分からなくなるということがあります。
先週、古川家の家庭集会が終わった後で先週の説教の話題がでました。油を用意しておいた五人の花嫁と、油を用意していなかった五人の花嫁の話です。そこで会話にでたのは、やはり油を持っていた花嫁は持っていなかった人に分けてやったほうが良かったのではないかという話になりました。そのことについては先週の説教でお話ししました。けれども、家に帰って考えてみるとやはり気になるわけです。自分が持っているものを分けてあげない。はたしてそれが愛の行為であると言えるかと考え始めるのです。
このように、主イエスのたとえ話というのは、聞いているとなるほどと思うのですけれども、少し視点を変えて考え始めると、たちどころにどんどん分からなくなるということがあります。

みなさんも、聖書を読むときによく覚えておいていただきたいのですけれども、大事なことは、主イエスはこのたとえ話で何を話そうとしておられるかということです。まず、そのことを覚えておかないと、へんなところで引っかかってしまうことになります。主イエスのたとえ話というのは、主イエスがお語りになりたいテーマを語っているのであって、このたとえ話でキリスト教のすべてのことを説明しているわけではないのです。
今日の聖書の箇所もたとえ話です。非常に面白いたとえ話です。こう書かれています。 (続きを読む…)

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