2012 年 7 月 15 日

・説教 マタイの福音書26章1-13節 「愛の香り」

Filed under: 礼拝説教 — miki @ 23:07

2012.7.15

鴨下 直樹

ここで不思議な出来事が起きています。部屋中に普通の量をはるかに超えた香水の香りが漂っています。充満していると言ってもいいほどです。主イエスの弟子たちはそれを見ながら、「何てもったいないことをするのだ」と怒っています。言われた女性は、自分が何か間違ったことをしたのではないかと戸惑っている。そんな光景です。
しかも、その出来事が主イエスがすべてのことを話し終えた後で起こったとマタイは記しています。そして、その日は過ぎ越しの祭りの二日前であったとありますから、主イエスの十字架につけられる直前です。緊迫した状況とは異なる場面です。
そしてこの奇妙な出来事を、主イエスは「この女が、この香油をわたしのからだに注いだのは、わたしの埋葬の用意をしてくれたのです。」と言い、さらには「世界中のどこででも、この福音が宣べ伝えられる所なら、この人のした事も語られて、この人の記念となるでしょう。」とさえ言われています。今日の聖書は、ちょっと不思議がことが次々に記されています。

この女の人のしたことが福音と同時に語られて、この人の記念になるというのです。つまり、埋葬の備えをしたことが、福音、良い知らせと同時に記念となる、と主イエスは言われました。どういうことなのでしょうか。
先週の月曜日、私たちの教会に長い間礼拝に集っておられたDさんの葬儀が行なわれました。先週の礼拝の直ぐ後にこの礼拝堂で葬儀の準備が始まりました。葬儀社の方が大変丁寧に準備をしてくださいました。けれども、この葬儀社の人がいくら丁寧に葬儀の備えをしたからといって、それが福音と語られることはないでしょうし、また、記念として後々まで覚えられるということもありません。けれども、ここで、香油を主イエスに注いだ人は別だと主イエスは言われたのです。これは特別な出来事だと言われました。
ところが、この物語を見てみますと、実際にこの人が香油を注いだ時に何が起こったのかというと、弟子たちはこれを見て憤慨したのです。八節には

何のために、こんなむだなことをするのか。

と弟子たちは語ったのです。これは、ごく一般的な反応をそこに居合わせた人々がしたということなのでしょう。それほどに、ここで香油を注いだ出来事は人々に驚きを与えたのです。

先ほども讃美歌21の五六七番の「ナルドの香油」という賛美をいたしました。マタイの福音書にはこの香油の名前が「ナルド」であったということは記されておりません。これは、マルコの福音書と、ヨハネの福音書に記されています。説明によりますと、この香油はスパイクナードと言って、ヒマラヤの高山からとれる植物からつくられる精油で、インドから輸入された高価なぜいたく品であったと書かれています。そして、それは特に死体に塗るために使用されたのだそうです。
ヨハネの福音書では

非常に高価な、純粋なナルドの香油三百グラムを取って、イエスの足に塗り、彼女の髪の毛でイエスの足をぬぐった。家は香油のかおりでいっぱいになった。

と十二章三節にあります。
みなさんのご存じのことと思いますが、香水というのは大抵の場合小さな瓶の中に入っておりまして、少しだけつけます。時々電車などに乗っておりますと、気づかない間に沢山つけてしまうことがあるのでしょうか、私などはそういう方のそばにおりますと、むせてしまって呼吸ができなくなってしまいます。
それを、ここではおそらく一瓶まるまる、それも、その瓶は小瓶などという量ではありません。コップ一杯ほどは使ったということですから、これはもう大変なことです。部屋中すごい匂いであったに違いないのです。ですから、少なくともわたしには、ここで弟子たちが「何のためにこんな無駄をしたのか」と言った気持ちはよく分かる気がするのです。明らかに浪費しているとかしか思えないのです。そして、事実これは浪費であるということのできるものです。別にしなくてもさし障りのないことです。

しかし、この奇妙な出来事を主イエスは浪費である、無駄なことだなどとは見られませんでした。つづく十節にこうあります。

するとイエスはこれを知って、彼られ言われた。「なぜ、この女を困らせるのです。わたしに対してりっぱなことをしてくれたのです。

主イエスはこの女の人の行為を「立派なこと」と言われたのです。この言葉は、「美しい」とか「賞賛すべき」とも言いかえることのできる言葉です。主イエスはこの女の人の行ないを、美しいと思われたのです。賞賛すべき行為だと言われたのです。それはいったいなぜでしょうか。
もちろん、単純に考えれば、自分に対してこれだけ高価なものを湯水のように使って嬉しくないはずはない。主イエスもただの男の一人にすぎないからだ、などと読んでしまうこともできるかもしれません。けれども、大事なことは、この出来事がいつ行われたのかということをもう一度考えてみる必要があります。

最初に、「イエスは、これらの話をすべて終えると」とあります。主イエスはもう必要なことをすべて語り切っておられます。ご自分が十字架につけられる前に、話すべきことはすべて話したということです。そうすると、不安になるのは、自分が語ったことはしっかりと聞き入れられたかということです。
先週の日曜は、一方で葬儀の準備をしておりましたけれども、役員会の時をもっておりました。先週も話しましたけれども、今、説教の学びを始めているのです。あまり時間を取ることができませんでしたけれども、終わりましてから一人の役員の方が、自分の聖書の読み方はどうかと質問にまいりました。自分が聖書の言葉を語るとなると、そこには緊張感が伴います。ちゃんと聖書を読み解いているか。ちゃんと語れているか。それは、本当に福音と言えるかということを考えるのです。
そうすると、私などはいつも説教の準備をしているときにふと考えるのですけれども、果たして主イエスが人々にお語りになる時どうだったのだろうかなどと考えます。やはり不安になったのだろうか。それとも、常に自信をもってお語りになられたのだろうか。
ですから、こういう聖書の箇所は実に興味深いのです。主のお語りになった言葉に、人々がどういう応答をしたか。簡単に言えばどういう反応をしたかが良く分かるからです。それは、私たちからすれば、少し行き過ぎに感じたり、滑稽に思えたりするところであっても、主イエスはそうではなかったということがここから分かります。この女の振る舞いを非常に喜ばれたのです。何故かというと、この女の人が自分の持てる最大限の方法で、主イエスの言葉に応えようとする姿を目の当たりにされたからです。そして、そこに、主イエスご自身の語られた言葉が、どのように人々に届いたかが分かります。そして、主ご自身もそのことを気にかけておられたことが分かるのです。

もちろん、皆が喜んで御言葉を聞いたわけではないのです。

そのころ、祭司長、民の長老たちは、カヤパという大祭司の家に集まり、イエスをだまして捕らえ、殺そうと相談した。

と三節から四節にあります。これまでの主イエスの言葉を聞いて、殺意を抱いた人々もあったのです。
旧約聖書の出エジプト記二十一章十四節にこういう言葉があります。

しかし、人が、ほしいままに隣人を襲い、策略をめぐらして殺した場合、この者を、わたしの祭壇のところからでも連れ出して殺さなければならない。

このような戒めがあることを、当然、祭司長や民の長老たちは知っていたはずです。人を騙して殺そうとすることは、死に値することであると教えていたはずの人たちなのです。そのような指導者たちがここで、そんなことはお構いなしにイエスを殺そうとしているのです。それは、敵意をいだくほどに主イエスの言葉が深くその人々の心の底まで入り込んだということもできるかもしれません。
あるいは、続く十四節以下ではイスカリオテのユダが、この出来事の後で主イエスを裏切る行動に出ます。この香油の出来事が、主イエスを引き渡すきっかけになったのだとこここに記されています。
主イエスの言葉は実に色々な響きを持っていました。素直に心に響いて来る人もいれば、明らかな殺意を起こす人もいれば、しばらく一緒に歩んでみたけれども、やはりついて行くことはできないと決断する人もあったのです。

そうであればなおのこと、主イエスは、この香油を注いだ女のことを喜ばれたに違いないのです。ここに、主イエスの言葉の届いた人がいたことが証されているのです。

過ぎ越しの祭りまであと二日です。かつて、イスラエルの民がエジプトで奴隷であったときに、神はモーセをおたてになりエジプトに十の奇跡を行われました。その最後の出来事が、イスラエルの家の門に子羊の血を塗ってあった家は神の怒りが過ぎ越しましたが、塗られていなかった家はその家の長男が神に打たれて死んでしまったのです。その時の犠牲となった子羊の血となるべく、主イエスは備えをしておられるのです。
そのときに、主イエスがお語りになられた言葉をしっかりと心にとめた人がおりました。それが、この香油を注いだ女だったのです。他の弟子たちは、女が何をここでしていたのかよく分かりませんでした。もちろん、女も良く分かっていなかったかもしれません。けれども、やがて、主の弟子たちは心からこの女の行なったことに感謝したにちがいないのです。
主イエスの十字架の備えを、こうしてこの女がすることができたからです。それは、この女のささやかな主への愛の応答でした。それがどれほど高価であったとしても、少しもおしいとも思わないほどに、主イエスによって語られた、神の国の福音に生きることがこの人にとって幸いなことであったのです。
それはたしかに、人の目には無駄としか思えない浪費であったかもしれません。しかし、その時部屋に立ちこめた香油の香りは、主イエスに対する愛の香り以外の何物でもなかったのです。そして、主イエスは喜んでこの女の愛の香りを受け取られたのです。

先週の月曜日、ここでDさんの葬儀が行なわれました。子どもの頃から教会に行っておられた方です。そして、病になって礼拝に集うことが出来なくなるまでいつも礼拝を捧げ続けました。私は、ここに赴任してからのごく短い間のことしかこの人のことは知りません。しかし、確かなことは、神に対して礼拝する喜びに生きた人であったということです。病のために来られなくなった先月の初めまでずっと礼拝に出ておられました。いつも、説教の途中で席を立たれて外に出て行かれます。最後のほうはどれだけ説教を理解できていたか分かりません。そう思わせるほど、説教の大事な所で席を立って後ろに行かれたりしておりました。けれども、それでも礼拝に集うことを喜びにしていたのです。それは何故かというと、それが、自分に示されたキリストの愛に応えることになると知っておられたからでしょう。
わたしたちには、ひとりひとり、それぞれの応え方があるでしょう。ある人は愛の香りを放つ人がある。ある人は、礼拝を何よりも大事にすることによってです。そうです。ここには、みなさん一人一人の愛の香りが満ちているのです。

明日の夜、私たちの教会では特別伝道コンサートを行ないます。韓国のオンギジャンイという賛美のグループを招いています。教会の様々な集まりに、今色々な方々が集っておられます。その方々に、主イエスの愛を知って頂きたいと願っているのです。この地域の方々に、キリストの愛を知って頂きたいと願っています。どれほど主イエスは私たちを愛してくださったか。私たちにご自分の心を注いでくださったか。そのことを知ってほしいと思っています。
この韓国のオンギジャンイというグループは、陶器師という意味の韓国語なのだそうです。
陶器ではなくて、陶器師というのですから、自分たちは主の器にすぎないけれども、私たちを用いていてくださるのは、師とお呼びするべきお方主イエスであるということなのでしょう。イザヤ書六十四章八節にこういう御言葉があります。

主よ。今、あなたは私たちの父です。私たちは粘土で、あなたは私たちの陶器師です。私たちはみな、あなたの手で造られたものです。

私たちは粘土です。私たちは土くれにすぎません。けれども、あなたがわたしを何ものかにしてくださるのです、とこの名前は表しています。そのとおりに、韓国から来られる方々は、自分を通して、その主である神ご自身を証しようとしておられます。

けれども、それはオンギジャンイの方々だけではありません。私たちはみな主のもので、主が私たちを何ものかにしてくださるのです。主によって私たちは生きるものとされるのです。それぞれに、ことなる御言葉の響きがあることでしょう。それぞれの応答の仕方があってよいのです。それこそが、主イエスが最後にお語りになったことです。
神は、一人一人に少ない豊かな恵みを示してくださったのです。そして、その恵みに応えて愛の香りを放つことを、主は私たち一人一人に望んでおられます。そしてその時、主イエスは、私たちの放つ愛の香りを誰よりも喜んでお受け入れくださるのです。

お祈りをいたします。

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