2024 年 12 月 22 日

・説教 ヨハネの福音書1章9-14節「神の子どもとなる特権」

Filed under: 内山光生師,礼拝説教 — susumu @ 00:24

2024.12.22

内山光生

しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとなる特権をお与えになった。

序論

 クリスマスの時期には、いろいろな観光スポットで、夜になるとイルミネーションが輝いております。私は、毎年、家族と共に三重県の長島にある「なばなの里」のイルミネーションを見に行くことにしています。

 そこでは、全体としては、あまりクリスマスというイメージはありません。むしろ、日本人が喜びそうなテーマでLEDのライトが照らされています。今年は、まだ行っていないですが、ホームページによると富士山がテーマだそうです。このテーマは今までにも何度も有りましたので私個人としては、別のテーマの方が良かったと感じるのです。けれども、多くの日本人は富士山が好きだ、そういうことの表れなのかもしれません。

 世界中で暗いニュースが多い今のこの時代において、人々は明るい光を求めて、心をリフレッシュしようとしています。

 私はイルミネーションが輝いている観光スポットが好きです。ですから、過去20年間を振りかえっても、毎年、必ずどこかのイルミネーションを見に行っています。そして、毎度のようにスマホで写真を撮って思い出として残してきました。

 人々が人工的に作り出す光、それは私たちの心を温かくする良い効果があります。元気な気持ちになったり前向きな気持ちとなる、そういう意味では、ある程度評価することができるのです。しかしながら、聖書が示している光は、それよりも遥かにすばらしい光を放っていることに気づいてほしいのです。聖書が放つ光は、私たちに一時的な癒しにとどまらず、永遠のいのちをもたらすからです。

I まことの光 ~すべての人を照らす~

 9節に進みます。

 この箇所に書かれている「まことの光」は、一体、誰のことを指しているのでしょうか。それはクリスマスの主人公であるイエス・キリストのことに他なりません。

 今から2千年以上前に、イエス・キリストはユダヤのベツレヘムという村で、「まことの光」としてお生まれになりました。

 そして、羊飼いたちによって礼拝がささげられました。更には、東方の博士たちによって礼拝がささげられました。

 ところが、当時のユダヤの人々は、いろんな社会的、政治的事情から、救い主の誕生をお祝いしようとしなかったのです。

II この方を受け入れなかった人々 ~もとからおられ、この方によって造られたのに~

 10節に進みます。

 ヨハネの福音書によれば、イエス様は、もともと「ことば」すなわちギリシア語で表現すると「ロゴス」というかたちで、この世界に存在されたことが明らかにされています。ロゴスの姿をとっていたイエス様はどういうお方なのでしょうか。それは、今、私たちを照らしている太陽や月、そして宇宙、地球と、あらゆるものをお造りなったお方です。

 ところが、イエス様の時代の人々は、ロゴスというお方の存在、すなわちイエス様の存在を知らなかったのでした。いや、その存在を受け入れようとしなかったのです。

 この方、すなわち、ロゴスであったたイエス様は、人間の姿をとって、この地上に来られたのです。ところが、当時の人々は救い主の誕生のうわさを聞いていたにもかかわらず、わずかな人々、つまり、羊飼いたちや博士たちだけしかイエス様の誕生をお祝いしなかったのです。

 まことの光であるお方、私たちの救い主であるお方、そんなすばらしいお方が誕生されたにもかかわらず、人々は、当時その地方において、ヘロデ王という悪い王様が乱暴な政治をしていたゆえに、救い主のうわさを聞いても、知らないふりをしていたのです。もしも救い主の誕生を喜んだならば、命の危険が有ったからです。

 それから30年程の月日が経ち、大人となったイエス様は人々の前で大胆に福音を伝え始められました。けれども、多くの人々は、イエス様の福音を聞きながらも、福音が自分と関係のある事だと受け止めることができなかったのです。もちろん、イエス様の福音を受け入れた人々もいました。けれども、全体としてはイエス様を受け入れない人々の方が多かったのです。

 「なぜ、どうして?」私たちのまことの光であるお方、そんなすばらしいお方が示して下さった福音を、どうして受け入れようとしなかったのでしょうか。

 多くの人々は、自分の周りの人々と別の考え方や行動をすることを避けようとします。もちろん、自分の考えを押し通す信念の強い方もおられるかもしれません。けれども、日本に住む多くの人々は、周りの人々の考えや行動に合わそうとする傾向が強いと言われています。

 その結果、正月に神社にお参りに行くことに対しては、全く抵抗が無いけれど、キリスト教の教会の礼拝に集うことは、結構ハードルが高いと言われています。例外的にクリスマスの時期は教会に足を運ぶ人が増えると言われていますが、それ以外の時期では、余程の事がないと教会に来ることはない、そういう人々が多いのが現状だと思うのです。

 でも、このような考え方は、昔のユダヤでも同じであって、イエス様の時代の人々も、「良い知らせ」すなわち「福音」が告げ知らされていたにもかかわらず、自分たちの周りの雰囲気に惑わされて、その福音が自分に語られている、その事実に気づけなかったのです。

 ここに聖書が示している罪の性質、つまり人間の本質が表されているのです。

 聖書が示している罪とは、まことの神様から心が離れている状態のことを指しています。そして、その罪が有る状態では、決して神様の存在を認めることができないのです。

 人は、目に見える光については「あぁ綺麗だな」「明るいな」と反応することができます。ところが、自分の心の状態がどうなっているかについては、客観的に見つめるのが苦手なのです。

 でも思い切って、自分の心が今どういう状態なのかを見つめる事ができるならば、いや聖霊の助けによって自分の心と向き合うことができるならば、その人は、どれだけ自分の心の中に闇が有るかに気づかされる事でしょう。

 私たちは皆、心の中に暗い部分を持っていると思うのです。でも、それらを癒して下さるお方、それがイエス様なのだという事を聖書は示しているのです。

 多くの人々は、目で見えるイルミネーションには反応しますが、心の中を照らすまことの光の存在に気づいていない状態となっています。そういう中にあって、神は私たちの心に、まことの光が届いてほしいと心から願っておられるのです。

III 神の子どもとなる特権が与えられる ~その名を信じた人々には~

 12節に進みます。お読みしますのでお聞きください。

しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとなる特権をお与えになった。

 神様は私たちをまことの光で照らしておられます。その光の意味するところは、イエス・キリストこそが、私たちに救いをもたらすということです。

 ですから、まだイエス様を信じていない人々が信じるようになり「イエス様こそ、救い主です」と告白することができるならば、神と天の御使いたちは、この上ない喜びの声をあげられるのです。

 13節に進みます。

 今の令和の時代においては、かつてのように自分の家系の社会的身分について話題にすることは、めったに無いかと思いますが、それでも、ある人々は自分の家が名だたる血筋だということを誇りに思っているかもしれません。一方、別の人々は自分の家系が平凡だということで、もっと身分の高い立場だったら良かったと残念がっているかもしれません。

 また、ある人々は、体力や運動能力が優れていることや、健康で強靭な肉体を誇りに思っているかもしれません。

 また、勉強や仕事をする能力が高いことで、会社や職場において少しばかり上の立場に立っている、あるいは、かつて現役の時代には、自分は立派な立場だったと誇りに思っている人がいるかもしれません。

 一方、たいした能力が無い自分の姿に劣等感を抱いている人もいるかもしれません。

 確かに、人間の判断基準では、血筋が良い、悪いとか、経済的に豊かであるとか、そうでないとか、財産がたくさん有るとか無いとか、何らかの能力が有るとか無いとかで比較をして、自慢したり反対に自己卑下をしてしまうのです。

 そのような考え方が影響を及ぼしてしまうのでしょうか、天国に入れるかどうかについても、他人よりも優れている人間でなければいけないと考えたりする人がいるのです。あるいは、あまり能力が高くなく才能も何もないと感じて、それを補うために何らかの努力をしなければいけないと思い込んでいる人がいるのです。しかし、それらの考え方は聖書の教えとは異なっているのです。

 すなわち、聖書は私たちが神の子どもにさせて頂けるかどうかは、ただただ、イエス様を受け入れたかどうか、それだけなのだと言っているのです。

 クリスマスは、神様が地上の私たちに、ご自身のひとり子を送って下さったことを記念する時です。そのひとり子であるイエス・キリストは、私たちの中にある闇を光で照らすために来られました。

 私たちは、このイエス様こそ、まことの救い主だと信じるだけで、神の子どもとさせて頂けるのです。そして、信じた者には神様との深い交わりを持つことが許され、更には天から与えられる喜びと平安で満たされるのです。

 まだ、イエス様を信じていない方々は、是非クリスマスのこの時に、イエス様を受け入れましょう。「イエス様こそ、まことの救い主」だからです。

IV 恵みとまことに満ちておられた ~人となったお方~

 14節に進みます。

 この節の最後の方に「この方は恵みとまことに満ちておられた。」とあります。ここでの恵みとは、イエス様が地上におられた間に人々に示された愛のわざを指しています。

 イエス様は、人々から相手にされないような人に積極的に近づいて行かれました。サマリアの女、ザアカイ、身体の不自由な方と、当時人々から嫌われていたような人に対して、積極的に恵みを注いでくださったのです。

 だから、私たちクリスチャンも、そのイエス様の姿に倣って、苦しい立場に立たされている人に愛の手を差し伸べていくことを大切にしているのです。

 いや、私たち自身も人々から相手にされなかったり、のけものにされたり、酷い扱いを受けた、そういう過去が有ったかもしれません。でも、神はそんな私たちを憐れんで下さり、神の子どもとして迎え入れて下さったのです。そのことに気づかされた人々は、より深く神を愛するようになるのです。

 次にイエス様の特徴として「まこと」に満ちておられたとあります。

 ここでのまこととは、イエス様が私たちに語って下さった数々の教えのことを指しています。

 イエス様が人々に伝えられた教えは、私たちが正しい道に進むために、そして、私たちと神様との関係が良い状態となるために、どれも有益なものばかりです。

 イエス様が私たちに伝えられた教え、これらを通して私たちの心が整えられていくのです。

まとめ

 クリスマスは、イエス様がお生まれになった事を記念する特別な時です。どうか、私たち一人一人がまことの光に照らされ、その光を反射させるかのように周りの人々と平和な関係を築き、更には、愛の有る関係を築いていくことができるようにと心から願います。

 イエス様を信じる者には、神の子どもとなる特権が与えられています。その事を思う時、私たちの心の中から言葉では表現しがたい喜びが湧き出てくるのです。

 お祈りします。

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