・説教 マルコの福音書4章10-20節「良い地に蒔かれた者」
2024.12.15
内山光生
良い地に蒔かれたものとは、みことばを聞いて受け入れ、三十倍、六十倍、百倍の実を結ぶ人たちのことです。
序論
今日の箇所はいわゆる「種まきのたとえ」の解説が記されています。前回の話を簡単にまとめると、ある人が種を蒔くといろんな場所に種が落ちた、と。例えば、道端や岩地や茨の中、そして、この三つの場所に落ちた種はいずれも実を結ぶことができなかった。しかし、良い地に落ちた種は、多くの実を結んだ、と。
言っている内容自体は、少なくとも当時の人々にとってはイメージしやすく簡単な話に思えるのですが、しかし、その本当の意味については、誰も理解することができなかったのでした。なんとイエス様の弟子たちでさえも、このたとえの意味が分からなかったのです。
それで今日の箇所においては、イエス様がたとえの意味を解説していくのです。
最初にお伝えしておきますが、イエス様の解説を読んではっきりと意味が分かった時に、ある人々はまるで自分の事を指摘されているのではないか、と感じるかもしれません。しかし、その時、「自分が責められている」と感じてしまって信仰が揺れ動くとすると、それはイエス様が願っている事とは正反対のことになってしまいます。
ですから、私たちは聖書の教えをネガティブに受け取るのではなく、むしろ、自分自身の信仰が成長できるようにポジティブに受け止めていくことができればと願います。
I たとえで語られる意味(10~12節)
では10~12節から順番に見ていきます。
前回までの場面では、大勢の群衆が集まってイエス様の福音に耳を傾けていた場面です。その後、群衆がいなくなりましたが、イエス様の12弟子に加えて幾人かが残っていたようです。そしてその場にいた人々がイエス様に向かって「種まきのたとえは、どういう意味なのかですか」と尋ねたのでした。
11節でイエス様は彼らの質問に答えていきました。どうやら今イエス様の目の前にいる人々や弟子たちには「神の国の奥義」が明らかにされているということ、一方、外の人たち、つまり、群衆にはその奥義が明らかにされていないと言うのです。それで、群衆に対してはすべてがたとえで語られているのだ、と。
どうやらイエス様がたとえを用いて「神の国」について語っているのは、根本的には人々が理解しやすいからという理由ではないようです。そういう事ではなく、「人々が見るには見るが知ることがなく、また、聞くには聞くが悟ることができない、そして、彼らが立ち返って赦されることがないためだ」というのです。
どういう事でしょうか。イエス様が語られたたとえというのは、イエス様に心を開こうとしていたり、あるいは、イエス様に対する信仰がある人にとっては、その本当の意味を悟ることができる、そういう性質があります。けれども、イエス様に対して心を開いていない人にとっては、そのたとえの解説を聞いたとしても、決して悟ることがない、というのです。
このことは、イエス様のたとえというのは、イエス様に心を開いている人とそうでない人が明らかにされていく、そういう事が起こる事を意味しています。
たとえに限らず、イエス様の福音というのは、イエス様に対する信仰がある人、あるいは、イエス様に心を開こうとしている人ならば、素直に受け入れることができる、そういうものです。そして、神様の願いは多くの人々が素直に聖書のことばを受け入れるようになることです。
ですから私たちは、まだ信仰を持っていない人々に福音が語られようとしている時に、「その人々がみことばを受け入れることができるように心を整えてください」と祈ったりするのです。このような祈りを積み重ねていくことによって、人々が救われやすくなるからです。
II 道端の解説(13~15節)
13~15節に進みます。
13節において、イエス様は目の前にいる人々に対して「このたとえが分からないのですか。」と叱責しています。この言葉は、どちらかというと否定的な感情があるように思えます。けれども、イエス様はそこにいる人々を見捨てるのではなく、むしろ、人々の質問に誠実に答えていくのです。
そして14節において、種を蒔く人は、みことばを蒔くと解説しています。つまり、種を蒔く人は福音を伝える人々の事を指しています。あるいは、教会案内やチラシを配る、そういうことも種を蒔くと表現しても良いかと思います。そう考えると、種を蒔くと言っても、直接ストレートに福音を伝える場合と、間接的に伝える場合があるかと思います。
クリスチャンと言えども、直接、自分の口で福音を伝える人々は、それ程、多くはないかもしれません。しかし、間接的な方法ならば、誰であっても、少しの勇気があれば実行できるのではないかと思うのです。
私自身の事を振り返ると、例えば教会案内やチラシを配るという事に関しては、神学校に入学する前から、ずいぶんたくさんやってきたのを思い出すのです。たいていの場合、たくさん家が集まっている住宅地を中心に教会案内を配るのですが、しかし、配っても配っても実際に教会に来て下さる人が本当に少ない、それで、こんな事をしても意味があるのだろうか? とためいきをつくような事もありました。恐らくその時、体調が良くなかったり疲れていたのかもしれません。
けれども、ある時、自分が配った地域から礼拝に来て下さる人が出てきました。とてもうれしかったのを思い出します。そしてその時以来、教会案内を配る時に、前向きにとらえることができるように変わっていきました。
確かに蒔いた種が実を結ぶかどうか分からないという不安が出てくる、そういう時がある。しかし、もしかしたら誰かが教会案内に反応して、礼拝に来るようになるかもしれない。また、信仰を持つようになるかもしれない。そのような事を期待しつつ、神様に信頼していくのです。
さて15節において、道端に蒔かれたものについての解説が書かれています。道端に蒔かれたものとは、みことばの種が蒔かれた時、みことばを聞いたにも関わらず、すぐにサタンが来て蒔かれたみことばを取り去っていく、そういうことを意味している、と。
私が東京の神学校で学んでいた時、神学校の仲間に誘われて、新宿駅の近くでキリスト教のパンフレットを配ったことがあります。東京の都心というのは、チラシ1枚受け取ってもらうのも苦労する、そういう地域だと言われています。私はチラシ配布する前に、そのことを聞かされていたのですが、予想以上に大変でした。
種を蒔くどころか、種を蒔かせてもらえない、それ程、チラシを受け取ってもらえる確率が低かったのです。結局、1時間ぐらいかけて、5~6枚程チラシを渡すことができただけでした。つまり、10分に一人ぐらいしか受け取ってくれる人がいなかったのです。それで、さすがに私もその活動を継続してお手伝いする気持ちにはなれずに、2~3回だけの奉仕となってしまいました。
今の時代においても、福音を直接伝えたとしても、キリスト教の読み物を渡すなどして間接的にみことばの種を蒔いたとしても、多くの場合、「無反応」であって、サタンによってみことばが取り去られたかのような状態となる、そういう現実があります。しかし、それであきらめるのではなく、神様からの力強い励ましを受けることによって、福音の種を蒔き続けていくことができれば良いなと思うのです。
注意した方が良いことがあります。それは体調がすぐれない方や足腰が弱っている状態にある方々が、若い頃の自分を思い出して、無理に教会案内を配ろうとするのは控えた方が良いと思います。もしも途中で倒れてしまったらどうするの、と思うと周りの人々が心配してしまうからです。福音を伝える事は大切ですが、その人が今、無理なく実行できる事をやっていけばそれで良いのです。
また自分の家族や友人・知人に関しては、福音を伝えるタイミングはよく考えた方が良い場合もあります。例えば、相手が嫌がっているのに何度も同じような事をいうと、かえってキリスト教に悪い印象を与えかねないという事、一方、相手が神様を求めている、そんな気配がしたら迷わず福音を伝える、そういう心備えがあっても良いのかなと思います。
III 岩地の解説(16~17節)
続いて、16~17節に進みます。ここでは岩地に蒔かれたものに関しての解説が記されています。この人々は、福音を聞くとすぐに喜んで受け入れるのです。ところが、根が十分に張っていないので、教会生活も長くは続かないのです。
多くのクリスチャンが経験しているように、私たちが聖書の教えを大切にしようとする時に、しばしば困難が襲い掛かってきたり、家族からの迫害が起こる事があります。その時、自分が救われているという確信がある人々は、それらの困難や迫害を乗り越えることができるのです。一方、まだ信仰がはっきりしていない状態にあると、キリスト教につまずいてしまい教会から足が遠のく、そういうことが起こってしまうのです。
この日本においてイエス様に対する信仰を保ち続けるためには、ある程度、しっかりした信仰の根が張っていないとすぐに芽が枯れてしまう、そういう厳しさがあるかもしれません。特に、家族の中にクリスチャンがいない場合、その傾向が強いかと思われます。
でも聖書の中には、イエス様を信じる信仰が与えられたその人は、信仰がなくならないようにとイエス様が天の右の座において「とりなしの祈り」をささげて下さっているとの教えが記されています。だから、今、イエス様を信じて教会につながっている人々は、「自分の信仰がなくなってしまったらどうしよう」と心配する必要はないのです。イエス様が私たちの信仰がなくならないようにと、祈って下さっているからです。
後、注意しないといけないのは、私たちは誰か自分以外の人を指して「あの人は、岩地に落ちたもののようだ」と陰口を言わないようにする事です。確かに、一見、ある人々はそのような人に見えるかもしれない。しかし、その人が「岩地の人」なのかどうかは、神様しかはっきりした事が分からないのです。
つまり、一時的に岩地に蒔かれたような人のように見えたとしても、数年後、あるいは10年後に、きちんと実を結ぶようになる、そういう可能性もあるがゆえに、私たちは自分の感覚で周りの人々の信仰がしっかりしているかどうかを判断することは控えた方が良いのです。
IV 茨の解説(18~19節)
18~19節に進みます。この箇所は、茨の中に蒔かれたものの解説です。
この人たちは、表向きは福音を受け入れたかのような人々です。多くの人々が経験する事ですが、聖書の教えというのは、素直に受け止めやすい内容とそうでないものがあるかと思われます。例えば、自分自身が実行しやすい教えについては、無理なく受け入れることができるのです。一方、自分が決して実行できそうもない教えを読むときに、「こんなこと実行できるはずがない」との思いが襲い掛かってくるのです。
ある人々は「この世の思い煩い」が襲い掛かってきて、聖書の教えが心にとどまらない、そういう現象が起こるかもしれません。また別の人々は「富の惑わし」によって、教会生活を送るよりも金儲けに力を注ぎたいとの誘惑が襲い掛かってくるかもしれません。
私たちの心の中には、いろいろな欲望があって、それらと聖書の教えとを天秤にかけた時に、自分の欲望の方が勝ってしまう場合がありうるのです。
教会の外の世界で生きている人々の中には、職場や学校における人間関係で悩んだり、自分の性格の事で悩んだり、自分の思い通りの人生にならない事で苦しんだりと、ありとあらゆる事で思い煩っている、そういう人が決して少なくないと思われます。いや、クリスチャンと言えども、しばしば人間関係で苦しみますし、病気と闘う時もありますし、自分の欲に溺れそうになる事もありうるのです。そういう中で、聖書の教えの中に解決のヒントが書かれている、との視点を持つことができる時に、あるいは、聖書の教えに信頼することができる時に、みことばが心の中にすっと入ってくるのです。
一方、人が自分の知恵や努力によって困難を乗り越えることができると思い込んでいる内は、決してみことばを通して悟ることができないのです。あるいは、お金の力や権力によって解決することができると思い込んでいる内は、その人には、みことばが入っていかないのです。
確かに、ある程度は自分の知恵や努力によって困難を乗り越えていくことができる、そういう側面があるかと思います。けれども、いつでもどんな場合でも、自分の力によって物事が解決できるかと言えば、そうではない、その事実に私たちが気づくことができるかどうかなのです。
私たちクリスチャンに与えられる「平安」というのは、決して、お金で買うことができるものではありません。神様から一方的に与えられるものだからです。もしも神様から与えられる大いなる祝福がほしい、と真剣に願うならば、その人は自分の心の中にある茨を取り除けば良いのです。いやそうではなく、「神様、どうか私の中にある茨を取り除いてください」と祈れば良いのです。そうすれば、それらの祈りが聞かれ、素直な心でみことばを受け入れることができるようになるでしょう。
V 良い地の解説(20節)
最後20節に進みます。
良い地に蒔かれたものについての解説です。これは、イエス様を信じて救われている人の事を指しています。あるクリスチャンは、私は決して実を結んでいない、と思うかもしれません。人間の感覚では、そう思えてしかたがない、そういう事があるかもしれません。けれども、イエス・キリストは、あの山上の説教の中で、イエス様の弟子たちに対して「あなたがたは地の塩・世の光です。」と宣言された事を思い出すと良いでしょう。
イエス様は私たちに「地の塩・世の光になりさない」と言ったのではありません。そうではなく、「あなたがたは地の塩・世の光です。」と宣言しているのです。つまり、イエス様を信じた人々は神様からの助けによって、塩としての役割を果たすことができるし、世の光として輝くことができる存在だと宣言されているのです。
同じように、みことばを聞いて受け入れた人々、つまり、クリスチャン一人ひとりは、皆、実を結ぶ人たちなのです。確かに、どれくらいの実を結ぶかについては差があるかもしれません。そのような視点で考えるとき、自分が結ぶ実は少ないかもしれないと自分を低く評価してしまうかもしれません。でも、実を結ぶ数に着目するのではなく、クリスチャンは皆、実を結ぶ存在とさせて頂いている、その事実に目をとめていくのです。
多くの人々は、自分と他人を比較することによって一喜一憂してしまう事があるかもしれません。クリスチャンであっても、そのような誘惑が襲い掛かってくる事があるからです。しかし、そのような思考回路に陥る時、心が不安になったり、嫉妬やねたみという罪の泥沼にはまり込んでしまう危険があるゆえに、なるべく早い段階でそれらの誘惑を祈りによって取り除いてもらうのが良いのです。
一方、単純に「こんな私でさえ実を結ぶことができる存在とさせて頂いているんだ」と受け止めることができる時、実を結んだ量に関係なく神様に感謝をささげる事ができるようになるのではないでしょうか。
まとめ
最後に聖書の教えを素直に受け止めることができるための秘訣をお伝えいたします。
それは聖書を読むとき、あるいは礼拝の中での説教を聞くとき、あるいは信仰書などを読むときに、お祈りをする習慣を身に着けることです。
「神様、今から聖書を読みます。どうか素直な心であなたのみことばを受け入れることができるよう導いて下さい」と祈ったり、あるいは、「神様、礼拝の説教を通してあなたの伝えようとしていることを悟ることができるようにして下さい」と祈ったり、「神様、この書物を通して私の信仰を強めて下さい」など、その都度、神様に祈りをささげる習慣を身に着けることによって、堅い心が柔らかく変えられていくのです。
ある人々は、聖書の教えが素直に入っていかない事が原因で、信仰が成長しにくい状態となっているかもしれません。しかし、神様に対する信頼関係が強められていく時、自分の考えよりも聖書の教えの方が正しいということに気づかされていくのです。
私たちがイエス様につながっているならば、いや、イエス様が私たちの手をしっかり握ってくださっているゆえに、信仰生活におけるいろいろな出来事を通して、あるいは、様々なみことばを通して神様との信頼関係が深められていくのです。
お祈りいたしましょう。