・説教 マルコの福音書4章1-9節「聞く耳のある者」
2024.12.08
内山光生
そしてイエスは言われた。「聞く耳のある者は聞きなさい。」
序論
イエス・キリストが人々に向かって福音を伝える際に、しばしば「たとえ」が用いられました。たとえによって語るメリットは、人々が自分たちの実際の生活と結びつけて考える事ができることです。また、語られた内容が心に残りやすいという点にあります。少なくともイエス様の時代に生きていた人々にとっては、イエス様が語るたとえを聞いて「あ~、これはそういう場面に違いない、あの話題ならばよく分かる」とうなずくことができたのです。
一方、21世紀の時代に生きている私たちは、当時の習慣や考え方がなんであったのかをよく理解しないと、イエス様が語ろうとしていた本当の意味がなんであるかが分からなくなるのです。ですから説教を準備する人々は、まず最初に、当時の人々がイエス様のメッセージをどのように受け止めたのかを理解するために色々と調べたりするのです。そして、その上で現代の人々に当てはめると、どのような意味になるのかを考えていくのです。
確かに、イエス様はたとえで語られる事が多かったです。けれども、このマルコ4章に記されているたとえは、別のたとえと比べると、ある特徴が備わっているのです。それは次回の箇所で取り扱うことになりますが、「たとえの解説」が記されている、ということです。解説付きのたとえ、そういう点において、このいわゆる「種まきのたとえ」は他のたとえと異なっているのです。
さて、今日の説教題は「聞く耳のある者」とさせて頂きました。4章3節で「よく聞きなさい」と書かれていて、更には9節で「聞く耳のある者は聞きなさい」と記されています。つまり、この1節から9節は全体として「聞くこと」が大きなテーマとなっています。そこで、「聞くこと」がどういうことを示しているのかを考えていきたいと思います。
I 舟の上からたとえを話されたイエス様(1~2節)
では1~2節から見ていきます。
場面は湖のほとり、すなわち、ガリラヤ湖のほとりです。そこには多くの群衆が集まっていたのでイエス様は、舟に乗って腰を下ろしました。一方、群衆は陸地の方にいました。つまり、イエス様が舟に乗っていて、群衆は陸にいる、そういうスタイルでみことばが語られたのです。
イエス様は、多くのことをたとえで教えられました。それらのたとえは、言っている内容が簡単で分かりやすいものでした。その教えを実行できるかどうかは別として、言っていることは分かるには分かるのです。少なくとも当時の人々にとっては容易に理解できる内容だったのです。しかしながら、今回語られているたとえは、一見、分かりやすいのですが、イエス様が伝えようとしている本当の意味が何かについて考えると、まるでとんちのようであって、なぞに満ちた内容だったのです。それゆえ、解説なしには誰も真の意味が理解できなかったのです。
II 道端に落ちた種(3~4節)
3~4節に進みます。
3節からいわゆる「種まきのたとえ」が始まります。イエス様は、最初に「よく聞きなさい」と言われました。このことばこそ、イエス様が伝えようとしている事のキーワードとなっています。後ほど、その解説をしたいと思います。
さて、ここに書かれている種まきは、あくまでも、イエス様の時代におけるパレスチナ地方でのごく普通の農業のやり方が描かれています。ある人々は、「種を道端に落とすなんて、その農夫のやり方が下手だったに違いない。自分ならば道端に種が落ちないようにする」と考えるかもしれません。確かに、今の時代の農業では、あるいは、家庭菜園では、わざわざ種を道端に蒔くような人はいないと思うのです。というのも、野菜の種をホームセンターで買うと、それなりの値段がするので、無駄に種をまき散らさないようにするのです。きちんと耕された畑に、袋の説明書に書かれていることを参考にして、適切な量の種を置いて、そして、軽く土をかぶせるのです。また、水を適度に与えて、芽が出てきたならば、余分な芽を間引いたりして、野菜が大きく育つようにと手間暇かけるのです。そうすれば、立派な野菜が育つのです。
けれども、ここに書かれているのは、あくまでもイエス様の時代における一般的な農業を意識してたとえが語られている、そういうことをきちんと受け止める必要があります。そうでないと、イエス様が伝えようとしていた事、また、当時の人々がこのたとえをどのように受け止めたのかが分からなくなってしまうからです。
たとえを理解するためのヒントがあります。それは、イエス様によって語られたたとえというのは、必ず伝えようとしている中心ポイントが存在する、ということです。それゆえ、その中心ポイントが何なのかをしっかりと押さえることが大切なのです。
反対に、中心ポイントではない部分について細かい議論をしたりすることは、イエス様が伝えようとしている事から離れ、はっきり言うと、的外れな議論になりかねない、と言えるのです。具体的に言うと、先ほどお話ししたように、この種まきのたとえと今の時代の農業の方法と比較して「イエス様の時代の農業の方法は効率が悪い」と考え、「こういう方法が良いんだ」と主張したりする事は、全くナンセンスなのです。
確かに、道端に種が落ちると、当然、鳥がやって来て種を食べてしまいます。でも、当時のパレスチナの人々にとっては、種が道端に落ちたとしても、それはごく普通の事であって、その人の種の蒔き方が下手だからだ、とは思わなかったのです。いやむしろ、よくある事だと受け止めたのです。
というのも、イエス様の時代において作物を育てる時、畑を耕すのは種を蒔いた後だったのです。
まず最初に大胆に”ぱぁーと”種を蒔きます。その後に畑を耕すのです。それが当時の農業の常識だったのです。その辺りをきちんと理解しておく必要があるのです。
III 岩地に落ちた種(5~6節)
5~6節に進みます。
次に別の種が岩地に落ちたと書かれています。岩地でも多少の土があったようです。それで芽を出すことができたのですが、根が深くまで伸びることができなかったために枯れてしまったのです。
今はお休みしていますが、以前に私は家庭菜園を趣味にしていました。家庭菜園と言ってもプランターで作ることができる程度の簡単な野菜を中心に育てていました。例えば、ネギとか、シソとか、サラダ菜やサンチュ、こかぶやミニトマトなどを育てていました。多くの人はホームセンターで苗を買ってきて育てるかもしれませんが、私はあくまでも種から育てる事にこだわっていました。種から育てるためには、ある程度の経験がないとうまくいきません。失敗もあります。しかし、難しい部分があるからこそ、家庭菜園が楽しかった、そういうのを思い出すのです。
またそのような経験から、せっかく芽が出たにも関わらず、たまたまその日の日差しが真夏日のようだったりすると、幾つかの芽が枯れてしまうことがありますし、ある程度芽が育ってきたと思っていた矢先に鳥に芽をつつかれてしまった、そういう事はよくある事です。「まあ、しかたがない事だ」とあきらめればいいのですが、なぜか私はその都度、腹が立ったり悔しい気持ちになったりするのです。
イエス様のたとえを聞いていた人々は、道端に落ちた種が鳥に食べられたり、あるいは、岩地に落ちた種の芽が出てもすぐに枯れてしまう、そういうことをイメージしながら、それぞれの今までの経験から、悔しい思いをする人がいたり、あるいは、なんとも思わない人もいたりと、いろんな感情が心の中に湧き出てきたのではないかと思うのです。
IV 茨の中に落ちた種(7節)
続いて7節に進みます。
この箇所では、種が茨の中に落ちたと書かれています。するとその種はどうなるでしょうか。当然の事ですが、日光が十分に当たらないのでその種は実を結ぶことができなかったのです。
私が家庭菜園をしていた中で学んだ事は、夏野菜の中でもきゅうりやナスなどは、十分に日光が当たる場所でないと決して実を結ぶことがない、ということです。このことを学び取るために、私は2~3年の時が必要となりました。なぜうまくいかなかったのか、その理由がなかなか分からなかったのです。せっかく苦労して種から苗まで育てた。そして、そこまでは順調に育った。しかしその後、適切に水を与えたとしても、また、肥料もきちんと与えたとしても、そのプランターを置いている場所では決して実を結ぶことがなかったのでした。ある時、父親が「夏野菜は日光がたくさん当たるところでないとうまくいかないよ」とアドバイスしてくれました。それで私は「あっそっか、あの時、自分が育てていた苗が実を結ばなかったのは、日照不足のせいなんだ」とようやく、自分の失敗した原因をはっきりと理解することができたのでした。
イエス様の時代の人々も、茨にふさがれてしまえば、実を結ぶことができないのは当然の事だと思った事でしょう。そして、多くの人々が似たような経験をしてきたのだと推測できます。
さて、ここまでは種が蒔かれた場所が3種類あったことが記されていました。そして、いずれも実を結ぶことがなかった、と記されています。もしもここで話が終わったならば、なんとなく暗い話となってしまい、聞いている人々にとってはネガティブな感情が残るだけとなります。そうなると、どう考えても福音ではなくなってしまいます。
イエス・キリストは、人々に福音を伝えるためにみことばを伝えています。また、神の国がどういうものなのかについて、色々な話題を通して伝えようとしています。そして、この種まきのたとえも神の国と関係があるのです。ですから、イエス様の話がここで終わったとしたら、中途半端になってしまいます。だから私たちは最後まで話を聞く必要があるのです。
V 良い地に落ちた種(8節)
8節に進みます。
四つ目の種は、良い地に落ちたとあります。四つ目にして、ようやく明るい内容となっていきます。すなわち、芽が生えるだけでなく、きちんと育ち、そして、実を結んだのです。しかも、30倍、60倍、100倍となったのです。
これを聞いて、多くの群衆はようやく、心がすっきりしたのではないでしょうか。一つ目の種から三つ目の種までは、皆、実を結ぶことができなかった。しかし、良い地に落ちた種は、多くの実を結んだのですから、、、。
私自身も、家庭菜園をしている時、最初の数年間は、きゅうりやナスを育てても実を結ぶことがなかった事から、残念な気持ちがどこかに残っていました。しかし、4年目くらいに、ようやく、プランターの置く場所を工夫して最大限に日光が当たるようにすると、きちんときゅうりやナスが育ったのでした。あの時すごく感動したのをまるで昨日の出来事かのように感じるのです。
農夫は、苦労をします。また、趣味として楽しんでいる家庭菜園と言えでも、それなりの苦労をします。しかし、苦労すればするほど、収穫の時になんとも表現しがたい喜びを味わうのです。
VI 聞く耳のある者は聞きなさい(9節)
最後9節に進みます。この箇所が中心聖句となっています。
そしてイエスは言われた。「聞く耳のある者は聞きなさい。」
イエス様は、どうして「聞きなさい」という言葉を強調しているのでしょうか。それは、恐らく、多くの人々は、このたとえを聞いてはいるが、本当の意味を悟っていなかったからでしょう。確かに、「種まきのたとえ」の内容、それ自体は、当時の人々ならば誰でもイメージすることができて、しかも、分かりやすい内容なのです。聞いている人々は、「うん、うん、その場面はよく分かるよ」と思っていた事でしょう。しかしながら、多くの群衆は、このたとえからイエス様が伝えようとしている真の意味を悟っていなかったのです。群衆だけではく、イエス様の弟子たちでさえ、このたとえの意味が分かっていなかったのです。
ですから、イエス様は人々の心の中を見抜いていたゆえに「聞く耳のある者は聞きなさい」と言われたのです。
私が20代前半の頃のある夏の出来事ですが、根尾山荘で青年キャンプが行われました。そして、私の友人が数名、そのキャンプに参加して下さり、友人たちも一緒に聖書のメッセージを聞いたのでした。
その後、みことばの分かち合いをする時間となりました。私の友人は、普段はほとんど聖書の話を聞いた事がなかった人でしたので、やはり、聖書の話は難しかったのではないか? と私は心配になり、率直に「難しかったでしょう」と問いかけました。すると、友人の一人は、「いや、難しくなかったよ。言っている意味はよく分かった」と答えたのでした。私は「あ~良かった。メッセンジャーの話がよく理解できたんだ。」と思ったのですが、後から振り返ってみると、その友人は表面的には聖書の話を理解できたようでしたが、本当の意味を理解できていた訳ではなかったのでした。講師の人のたとえ話が分かりやすい内容だったので、分かったかのような気分になっていただけで、実際には、イエス様の福音について何も理解できていなかったのでした。
これはよくある事だと思われます。しかし、私はあきらめるのではなく、何度も何度も福音を聞く機会に触れるとき、いつか、イエス様の福音がその友人に伝わる時が来るに違いない、と神様に期待をするようになったのです。
まとめ
このたとえの中の「道端」「岩地」「茨」と三つの場所は、福音を聞いてはいるが本当の意味を悟ることができていない人々のことを指しています。一方、「良い地」というのは、福音を信じるようになった人々の事で、今、イエス様を信じている私たち一人ひとりのことを指しています。
イエス様は、福音を聞いたとしても表面的な理解しかできない者ではなく、本当の意味を理解して信じる者となるようにと促しているのです。それが「聞く耳のある者は聞きなさい」という表現となっているのです。
イエス様は、福音の種がまかれたとしても、必ずしも、皆、実を結ぶわけではないことを最初から分かっていたのです。そして今の時代においても、福音が語られていたとしても、なかなか信仰を持つ人が起こされない、そういう現実があることが、このたとえにほのめかされているのです。
しかしながら、蒔かれた福音の種がすべて無駄になるということはなく、良い地に種が落ちる時、その種は多くの実を結ぶようになるのです。その部分に私たちは注目することが大切なのです。
私自身、今までに多くの人々に福音を語ってきました。でも実際に信仰を持つようになった人の割合は、とても小さいという現実があるのです。その現実を、人間の感覚で考えると「なんと確率が低いのだ」と嘆きになるかもしれません。一方、福音が良い地にに落ちる時、多くの実を結ぶようになる、そういう期待をすることができる、そのことに目を向けてることができると、前向きに福音のために神様に仕えることができるようになるのではないでしょうか。
そもそも福音というのは、イエス様に対して心を開こうとしている人でないと、うまく伝わらないものなのです。ですから、私たちにすべき事があるとすれば、自分の周りの人々が「良い地」になるように、言い換えると、イエス様に心を開きやすくなるようにと祈りつつ、自分に実行できる事を行っていくことにあるのです。
イエス様は人々に向かって「聞く耳のある者は聞きなさい」と訴えています。それは、福音を聞く人々がただ聞くだけでなく、イエス様を自分の救い主として信じるようになりなさい、との促しのことばなのです。
このクリスマスの時期、普段は福音に触れることのない人々が教会に足を運ぶと思います。その時、人々がただクリスマスの雰囲気を楽しむだけでなく、イエス様を信じる人々が起こされることを神様に期待しましょう。
お祈りします。