2012 年 7 月 8 日

・説教 マタイの福音書25章31-46節 「小さな者をみつめて」

Filed under: 礼拝説教 — miki @ 22:01

2012.7.8

鴨下 直樹

今日の箇所は主イエスの十字架に架けられる直前の最後の説教です。そういうことからでしょうか、実に多くの説教者がここからの説教を残しております。それだけ多くの説教者たちの心を動かした主の言葉であるということもできます。

私たちの教会の長老、執事の方々はこの礼拝の後で役員会があります。実はそこで宿題が出されます。と言いますのは、私がこの教会に赴任する前のことですけれども、二教会一牧師ということで、後藤先生が二つの教会を兼任なさっておられました。そういうこともあって、芥見教会の役員たちは定期的に説教をすることになっており、今でも時々礼拝で説教をする機会があります。この夏も二人の方々が説教をします。それで、どういうふうに聖書を読んで説教するのかということを今学んでいます。今日は、それぞれ自分の説教をする聖書箇所から、どのように御言葉を聴き取ったかということを報告してもらうことになっているのです。
もう何人かが前もって私に問い合わせをしてきておりまして、どのように聖書を読んだらいいのかということを聞かれています。いつも聖書を読んでいても、いざ人に聖書から語ろうとすると、簡単なことではありません。

今日の聖書箇所を説教するとしたらどういうことになるでしょうか、という宿題にすればよかったかななどと思っています。といいますのは、ここで語られている主イエスの言葉は非常に強く心に残る聖書箇所だと思うからです。一度読んだら忘れることができません。山羊と羊を区別するということが語られています。
王は語りかけます。三十四節以下です。

さあ、わたしの父に祝福された人たち。世の初めから、あなたがたのために備えられた御国を継ぎなさい。あなたがたは、わたしが空腹であったとき、わたしに食べる物を与え、わたしが渇いていたとき、わたしに飲ませ、わたしが旅人であったとき、わたしに宿を貸し、わたしが裸のとき、わたしに着る物を与え、わたしが病気をしたとき、わたしを見舞い、わたしが牢にいたとき、わたしをたずねてくれたからです。

そして、

最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです

と四十節にあります。

意識しないで、ある人々は小さい人にもてなしをし、それが主であったと言われています。そして、もう片方の人々は、わたしがそこにいたにもかかわらず、何もしてくれなかったと言われています。
一度こういう御言葉を読みますと、怖くなってしまいます。どこに主イエスがおられるのか。この人かな、この人のことかななどと考えてしまうかもしれません。こういう聖書をみなさんはどのようにお読みになるのか、私としても非常に興味があります。もっとも単純に読めば、どんな人にも、どんな小さな人にも愛の業を行なうべきだということになるかもしれません。
そうしますと、ひょっとすると、自分が親切にしている相手が主イエスだと分かればちゃんとやるけれども、それがわからない場合は仕方がないということにもなりかねません。あるいは、相手が主でなければ親切にしても無駄なことになってしまうと考えることになってしまいます。ですから、この主の言葉は考えれば考えるほど恐ろしくなってしまいます。まして、この言葉が主イエスの最後の言葉であるというと、ますます、自分が正しく行なうことができるかどうか恐ろしくなるということであるかもしれません。

では、ここで主イエスが「もっとも小さな者たち」と言っておられるのは、どのような人のことをさすのでしょうか。
マタイの福音書の第十章の四十二節にこう言う主イエスの言葉があります。

わたしの弟子だというので、この小さい者たちのひとりに、水一杯でも飲ませるなら、まことに、あなたがたに告げます。その人は決して報いに漏れることはありません。

ここで主イエスは弟子たちのことを「小さい者」と呼ばれました。その時にも話しましたけれども、この水一杯という言葉は他のどの翻訳でも「冷えた水」と訳している言葉で、汲んできたばかりの水という意味です。主イエスの愛に生きるなら、私たちのような小さな者であっても、人々から受け入れられるということが語られているのです。
ですから、この最後の主イエスの言葉の「小さな者」もキリスト者たちのことだと読んでしまいますと、ずいぶん楽な気持で読むことができますが、そう読んでしまいますとおかしなことになってしまいます。大抵、ここで言われている「小さな者」というのは、キリスト者に限定しないで、何かに困っている人のこと、悩んでいる人、助けを必要としている人のことと読むと思います。けれどもそうしますと、「小さい者」というのは、自分よりも困っている人、自分よりも弱い立場にいる人のことだという理解になります。
私がドイツにおりました時に、よく宣教師たちと一緒に日本の宣教報告の旅に出かけました。今もマレーネ先生は、そういう言ってみれば日本の伝道者として、日本でどのような伝道が行なわれているか報告をし、祈りを求め、支援をもとめます。そうしますと、様々な教会で色々な反応の声を聞きました。私が一番驚いたのは、世界宣教というのは、世界の貧しい国を助けることという考えが非常に強く人々の心の中にあるということでした。ですから、質問の中でよく出てくる、なぜ、私たちは自分たちよりも裕福な日本人を支援しなければならないのか、という言葉を聞いた時に私は驚きました。こういう言葉を聞いたのは一度や二度ではないのです。ですから、宣教師たちはこの質問が出る度に、日本は豊かだ、けれどもこの国に福音が届いていない。世界で一番福音の届いていない民族は日本なのだと説明します。今度はその説明に驚いたのですけれども、統計的に見て、一番福音を信じていない率の高い民族が日本人だということのようです。
こういうやりとりを聞きながら分かるのは、実に多くの人が「小さな者」というのは、自分よりも弱い者、劣った者と考える傾向にあるということです。これはもちろんドイツ人のことに限らないのです。私たちでも、何か困っている人に親切にすることは気持ちのよいことだと感じると思います。
そうすると、主イエスがここで言っておられる「小さな者」と言う時に、自分は「大きな者」だと考えていることになります。つまり、自分は裕福な者であるとか、自分は人を支えることができる者だから困っている人に親切にするのだ、ということになってしまいます。けれども、主イエスはそういう意味でこのことを語っておられるのかどうかを、しっかりと考えてみなければならないと思います。

聖書を読む時に、単純に読むことは大事なことですけれども、そうすると、主イエスがお語りになったのではないことを、まるで聖書が言っていることだと思いこんでしまうということが起こってしまうのです。先にも言いましたように、主イエスは、まず先だって弟子たちのことを小さい者とお呼びになりました。あなたがたは神のことを信じて大きい者になったのだ、とは言われませんでした。あなたのような者であっても、主のしもべであるという理由で水一杯恵んでもらうことがあるでしょうと言われたのです。
私たちは小さい者です。キリスト者になってから親切にすることができるようになったわけではありません。そこで言われている小ささとは何でしょうか。そのことを私たちはしっかり理解しなければ、ここで語られておられる主イエスの言葉を聞きそこなうことになるのです。

私たちの小ささとは何でしょうか。それは、弱さということです。貧しいということです。神の前に出たときに、私たちは自分自身が弱い者であること、貧しい者であること、主に支えがなければ生きることができないことを知ります。そして、主イエスが共にいて下さらなければ、神の前に立つことなどできない者であることを、主イエスは教えてくださいました。
神様を信じたから立派に生きることができるようになったと、胸を張って言うことのできない私たちです。いつも足りなさを感じながら、いつも罪を覚えながら、それでも主が支え、生きる意味を与えてくださるがゆえに、主が私たちの傍らに立ってくださり、私たちに慰めを語り、希望を与え、喜んで生きる者にされたのです。
そうであれば、私たちの周りにいる人々も上からものを言うわけではない、助けてやるのではない、困っているから、助けを必要としているから手を差し伸べるのではなくて、そこに自分自身の姿を見ながらその人にも主が必要なのだと覚え、自分に主イエスがしてくださったように、その方にも接するということ以外の何物でもないのです。

山形にありますキリスト教独立学園の校長をしておられる安積力也先生が、少し前に「教育の力」という小さなパンフレットを岩波からおだしになりました。非常に面白い本です。この本の最後の章に「教育は希望にかける業」というのがあります。
ここで安積先生は、教育とは本来、希望にかける業なのだと思うと書いておられます。希望ということは、将来にかけるということです。それは、今は実現していないけれども、何か良いことがいつの日にか実現するという期待をもつことだと説明します。ここで面白い説明をするのですけれども、将来を見通すときに二つの見方があると言います。一つは結果から考えるということと、もう一つは原因から考えるということです。
結果から考えるというのは、今まで起こったことの結果を見て今後を判断するということです。学生で言えば、模試の点数が何点だったので何々大学への可能性は何パーセントある、と考える考え方です。大抵はこの考え方で将来を考えるのが根拠のある判断だと考えられています。けれども、そこで今起こっていることは、総合的な結果と言えるだろうか、今起こっていることが物事の一面でしかないのだとしたら、それで判断して将来を決めてしまうことに問題はないかと考えます。そして、もう一つの面を紹介します。それが、原因から考えるということです。これは、今という時間は、将来に起こる出来事の原因となっているという考え方です。今の決断が将来をつくっていくのだということです。
今の自分はだめだから将来はだめだと考えてしまいやすい、これが教育の現場であるとすると、この安積先生は、これからの将来に備えて、今何を選び取るのか。このことが教育に問われているのだと結んでいます。

この安積先生はキリスト者です。この考え方は聖書からでているということです。そして、これこそが、キリストが私たちに教えてくださっているあり方だということもできます。その教育の最後でこの話をなさったのは、今、正しいものの見方を身につけることが、将来のあなたがたの生き方をつくるのだということです。
自分の損得勘定で判断をしたり、後で神様に怒られてしまうからちゃんとやったほうがよいという考えで人を愛さない、愛の行ないをしないと主は語っておられるのではないのです。
主はまさに愛に生きたお方でした。どのように人を見ておられたのか、どのように人を愛しておられたのか、そのことをここで教えてくださっているのです。安積先生の言葉で言えば、私たちの行動の元となる原因に気付かせるためです。それは、神が私たちのような小さな者を、愛を持ってご覧になり、支え、導き、共に生きてくださるということでした。そして、あなたもそう生きることができるのだ、と示してくださったのです。そう教えてくださったのです。私たちが希望のある将来を得るためにです。

私たちにとって希望のある将来とは、永遠のいのちに入れてくださるという、神が備えてくださるまことの喜びに招いてくださるということです。それが、最後の四十六節にある「正しい人たちは永遠のいのちにはいるのです。」という言葉の持つ意味です。

「永遠のいのち」というと、私たちはどうも、永遠に続く時間ということをまず第一に考えてしまうのではないかと思います。そうすると、永遠の世界にちゃんとして憧れを見出すことができないので、今のような時間が永遠に続くのであれば、ご免こうむりたいということにもなりかねません。
先日のある方との学びの中で、キリスト教の目的は永遠のいのちをいただくことですか、という質問をいただきました。もちろん、一面ではそうです。けれども、この永遠のいのちの意味を間違ってとらえると、まさに救いようのないことにもなりかねません。

聖書は、永遠のいのちという言葉で神の救いの御業を言い表しています。これは、何より時間的に考えるよりも、神のいのちと理解することがだいじです。つまり、神が本来人間に与えようとしておられた真のいのちです。そこには、何のために生きるのかという、人間本来の目的も込められていますし、神との正しい関係に生き、人と正しい関係を持って生きることのできるいのちという意味もあります。それは、和解という言葉で表現したり、罪の赦しと言ったり、真の使命に生きるとか、本当の自分の回復と言うなどいろんな言葉で表現することができます。
神が私たちにあたえようとしておられる永遠のいのちというのは、神が与えてくださる救いのあらゆる面を言い表した言葉です。この永遠のいのちこそが、神が私たちにお備えくださった真の将来です。
この神の与えてくださる将来に生きるために、神は私たちを招いてくださっているのです。今、まさに主イエスのようなまなざしをもって、この小さな私をも受け入れてくださった神の愛に、あなたも生きるようにと招いてくださっているのです。

お祈りをいたします。

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