・説教 マタイの福音書25章14ー30節 「主からの賜物に生きる」
2012.7.1
鴨下 直樹
今日の私たちに与えられているのは先週に引き続き、主イエスのたとえ話です。たとえ話というのは、一般の会話では少し説明することの難しい場合に例を交えて話すと分かりやすいということで使います。ですから、物事が分かりやすくなるわけです。ところが、主イエスの譬ばなしというのは、話を聞いてみると分かりやすそうなのですけれども、色々と考え始めますと良く分からなくなるということがあります。
先週、古川家の家庭集会が終わった後で先週の説教の話題がでました。油を用意しておいた五人の花嫁と、油を用意していなかった五人の花嫁の話です。そこで会話にでたのは、やはり油を持っていた花嫁は持っていなかった人に分けてやったほうが良かったのではないかという話になりました。そのことについては先週の説教でお話ししました。けれども、家に帰って考えてみるとやはり気になるわけです。自分が持っているものを分けてあげない。はたしてそれが愛の行為であると言えるかと考え始めるのです。
このように、主イエスのたとえ話というのは、聞いているとなるほどと思うのですけれども、少し視点を変えて考え始めると、たちどころにどんどん分からなくなるということがあります。
みなさんも、聖書を読むときによく覚えておいていただきたいのですけれども、大事なことは、主イエスはこのたとえ話で何を話そうとしておられるかということです。まず、そのことを覚えておかないと、へんなところで引っかかってしまうことになります。主イエスのたとえ話というのは、主イエスがお語りになりたいテーマを語っているのであって、このたとえ話でキリスト教のすべてのことを説明しているわけではないのです。
今日の聖書の箇所もたとえ話です。非常に面白いたとえ話です。こう書かれています。
天の御国は、しもべたちを呼んで、自分の財産を預け、旅に出て行く人のようです。彼は、おのおのその能力に応じて、ひとりには五タラント、ひとりには二タラント、もうひとりには一タラントを渡し、それから旅に出かけた。
と十四、十五節にあります。
すぐにひっかかるのは、どうして主人はみんなに同じだけ分けてあげないのだろうかということが気になる。そうなると、もうさっそく話の主題が変わってしまいます。この主人が神様だとすると、どうも神様というお方はみんな平等にするのではないらしい。だから、一タラント預けられた人は拗ねて当然だという見かたもできるようになるわけです。そもそも、そんな差をつけた主人が悪いということになって、この話が何を言おうとしているかということを聞き損ねてしまうことになります。
もちろん、どこかに引っかかりを感じながら聖書を読むことは大事なことです。だいたい、主イエスはひっかかるように話しておられるのです。けれども、そこでひっかかって先に進めなくなってしまうときは、この話は何の話であったのかを思い起してください。「天の御国は、しもべたちを呼んで、自分の財産を預け、旅に出て行く人のようです。」と最初に語られています。主イエスはここで、「天の御国」について語っておられるのです。
もう、みなさんの耳にタコができるほど何度も言っていますけれども、主イエスがたとえ話をなさるときはいつもこの「天の御国」について語っておられます。天の御国というのは、神が支配してくださる生き方のことです。神さまに支配されて生きるということはこういうことですよ、と主イエスは話しておられるのです。
とくに、ここではこの前に、花婿を迎える十人の花嫁の譬ばなしがなされていました。主人である神様がいないと思って油断していると思わぬ時に帰ってこられるので、ちゃんと備えていなければならないのですよ、ということが語られていたわけです。そうすると、備えているというのはどういうことかという疑問が出てきます。それで、今度はその疑問に対して主イエスは答えようとしておられるわけです。 それがこのたとえ話です。
教会にもう長く来ておられる方はタラントのたとえというのは、賜物のことが言われているたとえ話だと考えるかもしれません。このタラントというのは、日本語でもよく使われるタレントの元になった言葉です。タレントというのは、人よりも優れたことのできる能力を持った人のことというイメージがあるのではないかと思います。
そうしますと、神様がある人には五タラント与えて、ある人には二タラント、私には一タラントなどという考え方をどうしてもしてしまいがちです。自分に与えられている能力のことと考えてしまうのです。
けれども、ここでもはっきりと書かれていますけれども「おのおのその能力に応じて、ひとりには五タラント・・・もう一人には一タラントを渡し」とありますから、タラントというのは、神様から与えられている能力ということとは言えません。能力がすでにあって、タラントが与えられると書かれているからです。もともとこのタラントという言葉は、銀貨の通貨の単位を示す言葉です。ですから、個人的な能力という意味で考えることは少し横において考えてみることが必要です。
さて、このタラントという金額ですが、新改訳聖書では欄外に注がついていまして一タラントは六千デナリと記されています。一デナリは大人一日の労働賃金ですから、一日単純に一万円と考えるととてつもない金額、六千万円ということになります。少なく見積もってもだいたい大人が働く約二十年分の給料の金額にあたります。そうしますと、一タラントと書くよりも六千デナリと書いたほうが金額としての現実味がありそうに思います。
よく、このたとえ話を聞いて、私には一タラントしかないのでと考えるかもしれませんけれども、その金額たるや莫大な金額なのです。では、なぜ主イエスはわざわざそのような誤解を生むような単位で一タラント、二タラントなどと言われたのでしょうか。
聖書を読んでいるときにはそれほど気にならない言葉ですけれども、ここで「タラントを渡し、それから旅に出かけた。」と十五節にあります。実はこの「渡し」という言葉、この言葉はギリシャ語で「パラディドミー」という言葉です。普通は「ディドミー」という言葉が使われます。「ディドミー」という言葉は「与える」という意味ですが、ここで使われている「パラディドミー」という言葉は、色々な翻訳ができます。たとえば、マタイの福音書第二十六章二節で「人の子は十字架につけられるために引き渡されます。」とあります、この「引き渡す」というのと同じ言葉です。ただ、預けたというのではなくて、「信頼を込めてゆだねる」という意味がある言葉なのです。
主イエスは、ここでご自分のしもべたちをそれこそ心から信頼して、ある人には一タラント、ある人には二タラント、ある人には五タラントを託したのです。ところが、この時に、あなたには六千万円を、あなたには一億二千万円、あなたには、三億円を預けますと言われるとどうでしょう。きっと、こんなに大きな期待には応えられませんということになりかねません。デナリという通貨で話をすると、かえってプレッシャーを与えることにもなりかねないのです。
主イエスというお方は話の達人です。どの言葉がどういう響きをもたらすかちゃんと分かっておられて、もっとも相応しい表現をしておられるのがここからも良く分かると思います。
ですから、主イエスは私たちに決して小さくない信頼を込めておられることが分かります。そして、このたとえ話は、肝心の主人は旅に出たと語っているのです。旅に出たということは、その間しもべが何をしているかをつきっきりで見張っているわけではないということです。そこで、しもべたちは主人の信頼にどうこたえるかが問われることになるのです。
つまりこのたとえ話というのは、主人がいない間、主イエスが天に帰られてから、私たちはただボーっと何もしないで待っているというのではなくて、その間、どう待っているのか、何をするのかを教えている譬ばなしなのだということがそこから分かるわけです。
さて、今度はお金を託されたしもべたちに焦点が移ります。五タラント預かった者、二タラント預かった者はそれぞれ、すぐ行って商売をして、さらに同じだけの金額を稼ぎます。ところが、もう一人一タラント預けられたしもべはどうしたかというと、こう記されています。
ところが、一タラント預かった者は、出て行くと、地を掘って、その主人の金を隠した。
十八節にあります。
そして、
よほどたってから、しもべたちの主人が帰って来て、彼らと清算をした。
と、十九節にあります。清算が始まると、五タラント預かった者はもう五タラントもうけたと報告をします。そうすると、主人の喜びの言葉があります。「よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたは、わずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。」と五タラント預かった者にも、二タラント預かった者にも、主人は同じ言葉で喜びを語ります。
今度は一タラントを預けられたしもべです。二十四節以下です。
ご主人さま。あなたは、蒔かない所から刈り取り、散らさない所から集めるひどい方だとわかっていました。私はこわくなり、出て行って、あなたの一タラントを地の中に隠しまておきました。さあどうぞ、これがあなたの物です。
この一タラント預けられた男は、預けられたものを隠しておいたと言うのです。ここには、自分は他の人と比べて少ないものしか任されていないので、やる気がおきませんでしたというような言葉は見当たりません。このしもべは他の人と比較をして、やる気がなかったわけではないようです。このしもべは何を考えたのかというと、自分が働かなかったのは、正当的な理由があるのだと言ったのです。その理由は主人がひどい人なので怖かったからだと言っています。
ここまでお話しするともうお分かりのことだと思います。この一タラント預けられた僕は、一タラントしか預けてもらえなかったわけではありません。十分信頼されていたのです。けれども、この主人の期待に応えなかったばかりか、それは、主人のほうにそもそも問題があるからだと答えました。これは、主人としてみれば残念なことです。主人の信頼が伝わっていなかったからです。
けれども、この主人はしもべたちの自由をうばったわけでもありませんでしたし、過少に評価していたわけでもありませんでした。主人の期待を身に受けながら、大きな信頼を託されてそこで自由に生きるようにと求められたのです。主人に期待されていることに応えて生きることこそが、何よりも求められていることだというのです。
失敗して一タラント失ってしまったらどうしたらいいのかと心配する必要などありません。この主人は豊かな富をもっておられるお方だからです。それなのに、そのお方のことを正しく理解しないで、自分に与えられているものを失ってしまっては後でひどい目にあわされてしまうなどと考えてしまう。そうして、本当は自分の問題であるのにもかかわらず、それを主人のせいにしてしまうのです。それで、このように答えたしもべに対して、主人は「悪いなまけ者のしもべだ。」と二十六節で言われました。そのしもべの言い訳を正当とはみなさなかったのです。それこそがなまけたことなのだと言われたのです。
では本当は主人はどうあってほしいと願っておられたのでしょうか。この時主人は、五タラントもうけたしもべ、二タラントもうけたしもべに言っています。「よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたは、わずかな物に忠実であったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。」主人の喜びに招くために、主人は大きな期待をこめてタラントを預けていたのです。主人は喜びを分かち合いたいのであって、厳しく攻め立てたいわけではないのです。
このたとえ話は、今の時に生きる私たちに語られたものです。そして、私たちの神、主はわたしたちを喜びに招いているのです。この主の喜びに招き入れるために私たちに身に余るほどの信頼を示してくださるのです。それがどのように示されたというと、それぞれに豊かなタラントが与えられました。それは、主イエスを私たちに与えてくださったということです。自分にどういう能力があるとか、どういう才能があるとか、どういう賜物が与えられているとかいうこと以前に、私たちには主イエス・キリストという何にも代えがたい大きな賜物を与えてくださいました。
私たちはどうしてもすぐに自分には何ができるか、できないか。他の人はどうかというようなことを考えてしまいます。そして、自分には神様は大きなものを期待しておられない。自分はダメな人間だと考えてしまうかもしれません。他の人のほうがよっぽどすぎれてみえるのです。けれども、私たちが見なければならないのは、五タラント預けられた人でも二タラント預けられた人でもなく、私たちに期待し信頼してくださっている、その主人である主イエスをしっかりと見つめることです。そして、この神であられる主の期待に応えて生きることです。私たちに与えられている主に期待された人生を、この神に支配されて生きる。ここに、私たちの主の喜びがあるのだと主は言ってくださっているのです。
お祈りをいたします。