2012 年 7 月 22 日

・説教 マタイの福音書26章14-25節 「最後の食事の席で」

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2012.7.22

鴨下 直樹

今日の聖書の箇所は、主イエスの十二弟子、イスカリオテのユダが主イエスを裏切るところから始まります。ユダが銀貨三十枚でイエスを売ったとはじめに記されています。なぜこんなことをしたのか、そのユダの動機について聖書は直接的には記しておりません。けれども、「そのとき」とありますから、この前の出来事がユダの心を、イエスを裏切ろうという気持ちにさせたことは間違いありません。

まだ、主イエスに注がれた香油の匂いが部屋に充満しています。主イエスはこの女の愛の行為を喜んで受け入れられ、そこで憤慨する弟子に向かって「この女が、———わたしの埋葬の用意をしてくれたのです。」とお語りになられました。しかし、弟子たちはその時「こんな無駄なことを」と思ったのです。主イエスを愛することは無駄なことだと思ったというのです。そして、これが主イエスを裏切るユダの引き金となったのです。

主イエスはかつて自ら十二人の弟子をお選びになりました。実にさまざまな人を主イエスは御自分の弟子としてお招きになります。もう、ずいぶん前のことですけれども、マタイの福音書第十章にあります十二弟子を紹介する記事のところを一緒にお読みしました。その四節のところにこう記されています。「熱心党員シモンとイエスを裏切ったイスカリオテ・ユダである。」と。このマタイの福音書は、はじめからユダは、イエスを裏切ったイスカリオテのユダという名前で紹介していました。そして、ユダはその名の通りに行動したというのです。
けれども、このマタイの福音書第十章に記されている「裏切った」という言葉ですが、今日の二十六章の十六節にある「イエスを引き渡す」という言葉と同じ言葉です。「裏切る」という言葉と「引き渡す」というのはもともとのギリシャ語では同じ意味の言葉です。もちろん、どちらに訳しても結果としては同じことかもしれませんけれども、引き渡すという日本語は中立の言葉ですから、裏切るという悪意のある言葉ではじめからユダのことが紹介されてしまうのはマタイの意図ではなかったと考えるべきかもしれません。

しかし、主イエスが自らお選びになられた弟子の一人が、今日のところでは明らかに主イエスを裏切る決断をしてしまうのです。ユダは誰よりも主イエスの言葉を聞いていた人なのです。誰よりも主イエスの愛の業を見ていた人です。誰よりも主イエスの心を知っていたはずの弟子の中から、主イエスを裏切る者が出たのです。

しかも、その後、過ぎ越しの祭りの食事の場面で、主イエスが突然こんなことを言いだされました。二十節以下です。

さて、夕方になって、イエスは十二弟子といっしょに食卓に着かれた。みなが食事をしているとき、イエスは言われた。「まことに、あなたがたに告げます。あなたがたのうちひとりが、わたしを裏切ります。」すると、弟子たちは非常に悲しんで、「主よ。まさか私のことではないでしょう。」とかわるがわるイエスに言った。」

ここに非常に興味深いことが記されています。主イエスが過ぎ越しの祭りの席で、「あなたがたのうちのひとりが私を裏切ります。」と言われた時、弟子たちはかわるがわる「まさか私のことではないでしょう。」と言ったというのです。弟子たちはみなが、自分のことを言っているのではないかと思ったのです。ここに弟子たちの姿がよく現れています。

聖書を読みながら特に弟子たちの出来事を読む時に、ペテロに心惹かれる人は多くいます。あるいはヨハネ、ヤコブ、アンデレ、トマス。さまざまな弟子の姿をみながら、自分にもこういうところがあると思いながら、どこかで共通する部分を見つけ出して読むということがあります。しかし、イスカリオテのユダに心惹かれる人のことを私はこれまであまり聞いたことがありません。もちろん、ユダの気持ちが分かるということはあるかもしれませんけれども、誰も、主イエスを裏切るということに心を寄せることはないでしょう。こんなひどいことはしたくないと思うのです。
けれどもここで弟子たちは、誰もが自分のことではないかと思って悲しんだ、と記しています。ユダだけではない、弟子たちすべてが自分に裏切りの心があることを、主イエスに見抜かれたと思ったのです。

ユダに限らず、主イエスの弟子たちはみな、他の誰よりも主イエスのことを知っていたはずでした。誰よりも主イエスの言葉を聞き、主イエスが行なわれた愛の業を見たのです。そして、このお方に従っていくことを喜んでいたはずです。けれども、彼らは同時に、みなが主イエスに対して自分の思い描いていたものと異なるものを感じていたのです。
それが、この香油の出来事で明らかになったのです。この前のところに記されている、香油を注いだ女の出来事でした。この女の行ないを見て誰もが腹を立てたのです。無駄なことをと思ったのです。それはつまり、ユダだけでなくて他の弟子たちも、主イエスを愛することに意味を見出すことができなかったということです。

では、弟子たちは何を求めていたのでしょうか。それは、自分が主イエスに愛されることです。これは、私たちにもよく分かることです。自分が幸せに生きられるようになるという言葉であれば、喜んで聞くことができるでしょう。何かをたくさんもらうことは誰でも嬉しいのです。けれども、自分から与えることは嬉しいことだと考えることができるか。実は、ここでそのことが明らかになっているのです。
そして、主イエスの弟子たちすべてがこの香油の出来事の中で、主イエスを愛するということを問われたのです。自分は主イエスを愛することができるか、とそれぞれが自分の心に問いかけている時に、今度は食事の席で主が問いかけて言われました。「あなたがたのうちの一人がわたしを裏切ります。」と。この時、弟子たちは誰もが思ったのです。自分の心が見抜かれていると。人ごとだなどと考える余裕などないほどの、惧れをそこで弟子たちは覚えたのです。

一方で、主イエスの言葉を聞き続け反発し続けて来た祭司長、律法学者、パリサイ人、民の長老たちは、明らかな殺意を持ってイエスに敵対しようとしています。そして、主イエスの弟子たちもここで、誰もが主イエスを愛することができるかということを問いかけられているのです。そして、誰ひとりとして、いや、この香油を注いだ女を除いてと言わなければならないかもしれません。それ以外の人はここで、主イエスを愛することに苦しんでいるのです。
主イエスのこれまでの生涯を考えてみますと、その生涯とは一体なんだったのかということになります。誰も、主イエスを心から愛するということが言えないのです。誰よりも深い、大きな愛で人を愛し、共に生き、共に悲しまれたお方の愛を、誰も受け取っていないということがここで明らかになっているのです。これほど悲しいことがあるでしょうか。そして、一人は明らかな意思をもって主イエスを裏切るための決断をし、もう、銀貨三十枚で売り払ったのです。

イスカリオテのユダは、ここで主イエスを銀貨三十枚で祭司長たちに売るという約束をします。この銀貨三十枚は出エジプト記によると、奴隷一人の値段であるとされています。祭司長たちは、イエスの値段を奴隷一人分と数えたということです。主イエスのことをそのように値踏みしたのです。ここにもまた、主イエスの愛を受け取ることのできなかった人々の主イエスへの評価ががあります。それが銀貨三十枚なのです。そして、ユダもまた銀貨三十枚を貰った時に、主イエスの愛をそのように値踏みしたのです。

主イエスに敵対していた人々だけではなく、主イエスの弟子たちの中から裏切るものが出ました。それは、教会から主イエスを裏切る人が起こったのだと言い表すこともできます。これは、私には関係のないことだと私たちには言うことはできません。私たちも、この弟子たちと同様に、「まさかわたしのことではないでしょう。」と怯えながら確認しなければならない者だからです。 それは、わたしたちもまた、自分が愛されることを求めたとしても、自分から愛する者となることは難しいということにここで気づかされるからです。

それは一体どういうことなのでしょうか。愛されることを求めているはずなのに、愛されていることが分からないということなのでしょうか。主イエスがどれほど私たちを愛してくださったかということは、私たちなりに分かっているつもりなのではないかと思います。主イエスを自分が愛するのは難しいのだ、ということに気づくことは簡単なことではないと思います。
けれどもそれは、主イエスに対する愛だけのことではないのです。私たちは、誰もが愛されたいと思って生きています。人から大事にされたいと思います。尊敬されたい。敬われたいと思う。けれども、誰かが自分の事をそのように愛してくれたとしても、自分の方から同じように愛するということはなかなかできないのです。

なぜ、そんなことになってしまうのかというと、それはおそらく、自分は愛される値打ちのあるものだということを考えているからなのだと思うのです。自分は愛される価値のあるものだと思うのです。けれども、相手はそうではないと考える。自分に絶望している人でないかぎり、私たちは、誰かが自分を愛してくれるのは当然であるかのように考えるのです。
実際に自分の生活のことを振り返ってもらえばすぐわかることだと思います。自分が苦手だと感じている人がいる。その人が、何か突然自分に親切にしてくれたとしても、なかなか素直に喜ぶことができないということがあります。いや、喜ぶことができたとしても、けれども反対に、その人に親切にできるかというと、そこで立ち止まって色々と考えてしまうのです。あの人にはかつて自分は傷つけられた。そんなに簡単に赦すわけにはいかないと思う。ちょっと親切にしてくれたからといっても、今までのことがそんなに簡単に帳消しにできるものではないと思う。そのくらい、私たちは相手を赦すということは難しく感じますし、相手を愛するということは、容易なことではないのです。けれども、自分が愛される、大事にされるということは、意外に簡単に受け入れることができるのです。
じゃあ、どこまで相手が親切にしれくれれば気がすむのかと考えてみても良く分からないのです。いや、このくらい大事にしてくれればいいという理想を思い描くことはできるのかもしれません。けれども、その理想に達しなければ、いつまでたっても失望したままです。
ここでユダは、主イエスから多くの愛を受けたし聞いたのに、それが自分の求めるものとは異なっていたのだと結論づけて、主イエスの愛に応えることを拒みます。これは、私たちにもよく分かることです。

パウロは使徒の働きの第二十章三十五節で、主イエスの言葉として「受けるよりも与えるほうが幸いである。」と語りました。この言葉はこの言葉どおりにどこかの福音書に語られているわけではありません。しかし、主イエスの直接の言葉として福音書に語られていなくても、今日私たちに与えられている聖書が語っているのは、まさに、パウロが聴き取ったことそのものなのです。

ですから、ここで表されているユダの姿というのは、自分の姿と大きく異なっているということは難しいだろうと思います。ここに、私たちの姿を見る必要があるのです。

そのときから、彼はイエスを引き渡す機会をねらっていた。

と十六節にあります。ここに「機会」という言葉が使われています。チャンスをうかがっていたということです。この「機会」という言葉は、「ユーカイリア」というギリシャ語ですけれども、「ユー」というのは「良い」という意味です。そして「カイリア」というのは、「カイロス」という時を表す言葉です。このカイロスという言葉はひょっとするとどこかで聞いたことがあるかもしれませんけれども、「神の時」を表す言葉です。神が支配しておられる時間を意味します。
主イエスは人の手によって、人々の裏切りによって裏切られたと描かれている一方でこの福音書は、その背後には神の時が支配しているのだということを記しているのです。

そして、出来事は過ぎ越しの祭りの食卓で起こります。この時、種なしパンの祝いが行なわれました。これは、イスラエルの人々がモーセの時にした荒野での経験を思い出すための祭りでした。この祭りの期間に、犠牲の子羊がささげられることになっていました。まさに、この神の時に、主イエスは弟子たちにお尋ねになられたのです。
「まことに、あなたがたに告げます。あなたがたのうちひとりが、わたしを裏切ります。」と。弟子たちが、「主よ。まさか私のことではないでしょう。」とかわるがわる主イエスに言ったとき、主イエスはさらに言われました。二十三節以下です。

わたしといっしょに鉢に手を浸した者が、わたしを裏切るのです。

と。続く二十五節にこうあります。

すると、イエスを裏切ろうとしていたユダが答えて言った。「先生。まさか私のことではないでしょう。」イエスは彼に、「いや、そうだ」と言われた。

ここの言葉は少し注意してみなければなりません。ここでユダは「先生」と呼びます。もはや、「主よ」ということができなくなっているのです。そして、「まさか私のことではないでしょう。」と尋ねると、主は「いや、そうだ。」と言われます。
ここで注意する必要があるのは、この「いや、そうだ。」という言葉は、主イエスがここで「いや、あなたが裏切るのだ」と断定したことになります。もちろん、そう読むこともできるのですけれども、新共同訳聖書では「それは、あなたが言ったことだ。」と訳されています。この聖書を文字どおりに訳しますと、新共同訳の翻訳の方が原文のままを訳しております。けれども、「それは、あなたが言ったことだ。」とすると意味が分かりにくいので、新改訳では「いや、そうだ。」という意味だと解釈をしたのです。
けれども、主イエスは相手の語ったことをそのまま相手に言っておられるのです。「先生、まさかわたしではないでしょう」とのユダの問いに、「それは、あなたが言ったことだ」と言われたのです。
これは、わたしが裏切ると言っているのではない、あなたが自分で言っていることだという意味です。それが、あなたの言葉だということです。そして、この言葉こそが大切なのです。

私たちはユダと同じように、「先生、まさか私のことを言っているのではないでしょうね」と言うような、主イエスを自分のほうから愛すると言うことの難しい者です。愛されるということはよく分かる。愛されたいと思う。そういう自分が主イエスを裏切る、まさか、私が裏切るなどそんな悲しいことがあっていいだろうか、と確信のない心と共にそう語らなければならない私たちの姿がここにあります。けれども主イエスは、それはあなたの言っていることだと言われるのです。神が考えておられることは別だと言われているのです。もちろん、ここで主イエスを裏切ったのはユダです。けれども、そのユダの背後には神の時があるのです。人の弱さもすべてご存じの神が、すべてを理解しておられるのです。
私たちが、受けることばかり願い、愛に生きることができない。主イエスを裏切るような弱さがあることを私たちは認めざるを得ません。まさか、私が裏切るのですか、と口にして言う時、そうだ、あなたが裏切るのだと言われても仕方がないものです。
けれども、そのような私たちの弱さの背後に神が働いておられるのです。主イエスはもちろん、ユダのために十字架に架けられるのです。そして、私たちのためにです。もう、裏切ったからあなたには救いを与えないというのではないのです。
一緒に主の御言葉を聞き、主の愛を受け、それにも関わらず自分勝手な愛ばかり求める者であっても、主イエスは、あなたは私を裏切る、けれどもあなたがそう言ったからどうなるとういうのだ。もっと大きな神の御計画がその背後にあるのだ、と主はお語りになるのです。それは、絶望に終わることのない言葉として私たちに響くのです。

私たちの悲しみを誰よりもよく知っておられるのは主イエス・キリストです。そして、このお方が、あなたも私の愛を受け止めることが難しいのだろう、自分勝手な愛ばかり求めているのだろう、その弱さを私は見ている。しかし、神の時は、そのようなあなたの悲しみ、あなたの弱さを超えて働くのだ、と語りかけてくださるのです。こう語りかけてくださるお方こそが、本当の慰めを与えることのできる真の救い主なのです。

お祈りをいたします。

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