2011 年 2 月 27 日

・説教 マタイの福音書9章35-38節 「収穫の主」

Filed under: 礼拝説教 — naoki @ 16:46

 

鴨下直樹 

2011.2.27

 

 

 今年の秋に教会の伝道集会を計画しています。今年は芥見教会の宣教開始三十周年の年ですから、できるかぎり多くの人々に教会を知っていただきたいと願いながら、松居直さんをお招きしたいと考えています。この方は福音館という絵本の会社を造られた方で、子どもに言葉を届けるために絵本を通して、子どもたちが生きた言葉に触れることを願っておられる方です。もう八十を超えておられ、絵本の世界では知らない人はいないという方ですから、私のようなものが松居さんなどと言うのは本当は相応しくないだろうと思います。ちゃんと先生と呼んだ方がいいのかもしれません。

 この月曜日の朝のことですけれども、電話が鳴りました。月曜日の電話というのは、あまり進んで出る気にならないのです。本来は牧師の休みの日ですから、それでもかかってくるということは、何かあったか、急な要件が入るかということが多いので、私も何となく低い声で電話口に出ました。すると、「松居です」と言うのです。私には松居という名前の知り合いはおりませんので、すぐにどの松居さんか分かったのですが、あわてて声を整えまして、できるかぎりしゃんとした声で応対しなければと思いつつ緊張しながら電話にでました。自然に自分の姿勢がよくなっているのが分かるほどでした。何を話したかと言いますと、今年の9月末に私たちの教会に来てくださると言うことでした。本当に嬉しく思っています。まだ、半年先のことですけれども、良く準備をしながらこの地域のよい伝道の機会にしたいと願っています。 (続きを読む…)

2011 年 2 月 20 日

・説教 マタイの福音書9章27-34節 「頑なな心と向き合われる主」

Filed under: 礼拝説教 — naoki @ 15:55

鴨下直樹

2011.2.20

このマタイの福音書の八章と九章というのは、主イエスが生き生きと人々の中に入って行かれて伝道をなさった姿がしるされているところです。前回もお話ししましたけれども、ここには全部で十の奇跡が記されています。そのように、数多くの奇跡を行いますと、私たちがそこで想像するのはさまざまな称賛の言葉で終わるのが普通だと考えます。ところが、このマタイの福音書は、数々の奇跡を見たパリサイ人たちの言葉を結びの言葉として、こう言わせています。

「彼は悪霊どものかしらを使って、悪霊どもを追い出しているのだ」と言った。

そのように三十四節に記されています。一般的な感覚から言えばおかしいのではないかと感じるところですけれども、マタイはそのように描いたのです。主イエスが素晴らしい言葉を語り、素晴らしい奇跡を起こし、人々が驚くにつれ、どんどんと人々が集まってきて、救われるようになった。こうして最初の教会と言うのは大盛況だったのだと、聖書は記しておりません。むしろその逆です。人々の心はますます頑なになり、ついには、このお方を十字架につけて殺してしまったのだと言うのです。そして、事実そのようになったのです。 (続きを読む…)

2011 年 2 月 13 日

・説教 マタイの福音書9章18-26節 「絶望に立ち向かわれる主イエス」

Filed under: 礼拝説教 — naoki @ 15:53

鴨下直樹 

2011.2.13

 

先週のことです。いつも教会の掲示板に説教のタイトルを綺麗に習字で書いてくださる方がありますけれども、それを見て、妻が駆け込んできました。あのタイトルは何だというのです。ご存知のように、先週の週報でもそうでしたけれども、「長血の女」と書かれていました。妻が私に言うには、綺麗に墨で「長血の女」と書いてあるのを、街の人が見たらなんと思うかと言うのです。ひとこと、「ホラー映画でもあるまいし」という言葉付け加えてです。 (続きを読む…)

2011 年 2 月 6 日

・説教 マタイの福音書9章14-17節 「新しい革袋」

Filed under: 礼拝説教 — naoki @ 11:59

 

2011.2.6

 

鴨下直樹

 

 今日の聖書の箇所は先週のパリサイ人との論争に引き続いての出来事です。ですから、本来であれば、先週に引き続いてひとまとめに語ることができればよかったのですけれども、残念ながらその時間はありませんでしたので、こうして二度に分けて御言葉を聴こうとしているわけです。そこで、みなさんに心にとどめておいていただきたいのは、先週お話ししました、この前に記されているパリサイ人の問いである「なぜ、あなたがたの先生は、取税人や罪人といっしょに食事をするのですか」と深く関わりあっているということです。

 それで、ここでパリサイ人に続いて主イエスに問いかけているのが、ヨハネの弟子たちです。このヨハネの弟子たちというのは、主イエスに洗礼をさずけたバプテスマのヨハネの弟子たちのことです。主イエスはこのバプテスマのヨハネから洗礼を受けておられるわけですから、ヨハネの弟子たちとしてみれば、主イエスは当然、自分たちの仲間であると考えていたでしょうし、ひょっとするとイエスというお方は、ヨハネ先生の弟弟子であると考えていたかもしれません。そのように、自分たちと近い関係であるならば、当然自分たちと行動を共にするだろうと考えたのは、私たちにもよく分かることです。 (続きを読む…)

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