2011 年 2 月 20 日

・説教 マタイの福音書9章27-34節 「頑なな心と向き合われる主」

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鴨下直樹

2011.2.20

このマタイの福音書の八章と九章というのは、主イエスが生き生きと人々の中に入って行かれて伝道をなさった姿がしるされているところです。前回もお話ししましたけれども、ここには全部で十の奇跡が記されています。そのように、数多くの奇跡を行いますと、私たちがそこで想像するのはさまざまな称賛の言葉で終わるのが普通だと考えます。ところが、このマタイの福音書は、数々の奇跡を見たパリサイ人たちの言葉を結びの言葉として、こう言わせています。

「彼は悪霊どものかしらを使って、悪霊どもを追い出しているのだ」と言った。

そのように三十四節に記されています。一般的な感覚から言えばおかしいのではないかと感じるところですけれども、マタイはそのように描いたのです。主イエスが素晴らしい言葉を語り、素晴らしい奇跡を起こし、人々が驚くにつれ、どんどんと人々が集まってきて、救われるようになった。こうして最初の教会と言うのは大盛況だったのだと、聖書は記しておりません。むしろその逆です。人々の心はますます頑なになり、ついには、このお方を十字架につけて殺してしまったのだと言うのです。そして、事実そのようになったのです。

この時代の人の心が特別に頑なであったというのではないのです。それは、今もまったくそれは変わることはありません。一体何を見ているのかと言いたくなるほどですけれども、見るべきものが見えない、聞くべきものが聞こえない。それが昔から今日に至るまで変わることのない人々の姿です。

このマタイという人物は、私は物書きとしても、なかなかのセンスを持った人物であったと思うのですが、この奇跡物語の最後に登場させているのは、目の見えない人、口のきけない人です。この32節に「おし」という言葉があります。これは新改訳聖書の第二版の方に書かれた翻訳です。新しい第三版では「口のきけない人」と訳されるようになりました。新共同訳聖書でも「口の利けない人」と訳されています。しかし、このもともとのギリシャ語は「口がきけない」だけを表す言葉ではありません。「耳が聞こえない」という意味もこの言葉にはあるのです。先日、妻がTさんとの会話のことを私に話してくれました。このTさんのことはみなさんもよくご存知ですけれども、聞くことに障害があります。けれども、こうして毎週共に礼拝をささげ、共に手話で賛美をいたします。実は、この手話で賛美をするために、木曜日に、讃美歌の歌詞をどのように手話で表現するかという勉強会をしながら礼拝に備えているのです。その中で、妻はTさんから色々なことを教えられるのだそうです。その中のひとつに、一般にこのような障害を持った人のことを「聾唖者」と言うけれども、「唖」という言葉は、本来は必要ないのだと言われたことがありました。それは聞くということに障害があるのであって、聞くことができれば話すことができるからです。この「唖」という言葉が、この「おし」という言葉です。ですから、私は「口の利けない人」というのも、正しくはなくて、本当は「耳の聞こえない人」とするのが良いのだろうと考えるようになりました。

なぜ、私がこの言葉にこだわって話しているのかと言いますと、マタイがここで描こうとしているのは、見えない人が見るべきものを見ており、聞こえない人が聴くべきことを聴いていたのだということをマタイは描こうとしているからです。話すことが問題だということではないということです。少なくとも、私はこの物語をそのように理解していますし、そのことをみなさんにも心に留めていただきたいと思います。

さて、ここに、二人の盲人が出てきます。ここで二人が「大声で・・・叫んだ」とあります。聖書の中に何度もでてくる言葉です。「叫ぶ」。私たちが日常の生活の中で、叫ぶ時というのは、どのような時でしょうか。まずは、それほどまでに人前で叫ぶなどというようなことを私たちはしないとまず考えるかもしれません。日常の生活の中で耳にする叫び声というのは、身に危険が及んだ時か、あるいは、怒りに任せて叫ぶというようなことはあるかもしれません。けれども、ここに記されているように「憐れんでください」という言葉を叫ぶと言うようなことはまずしません。

なぜ私たちはそういうことをしないかというと、誰かに「憐れんでください」などと叫ぶのは、自分がみじめに思えるだけだからしないということであるかもしれません。それは、別の見方をすれば、私たちは叫ばなくても何とか生きて行くことができるということでもあります。「憐れんでください」などと叫ばなくても、何とかそれなりに生活することができるのです。それほどに、人からの憐れみを求める必要はないと考えているのです。あるいは、それなりの生活ができてしまうから、神に期待することをやめてしまうということもあるかもしれませんけれども、同時に神に期待する心を捨ててしまっているということが、残念ながらそこで起こってしまっているのです。

しかし、ならば、本当にわたしたちにこの叫びが必要ないと言えるのでしょうか。残念ながら、そうではありません。私たちは世間体とか、自分のプライドというものが、この言葉を叫ばせなくなっているだけで、人間自体が変わったわけではないのです。神に期待しても無駄だと諦めてしまっているからこう叫ばなくなってしまっている。強がってしまっている。しかし、本当は、叫ばないで生きていられるということではないのです。

先ほど、私たちは「キリエ・エレイソン」という賛美を歌いました。最近の教会では、特にプロテスタントの教会ではこの歌を歌うという習慣は少なくなりつつあります。けれども、教会は歴史的に、常にこの賛美を礼拝の初めに歌い続けてきました。「主よ、憐れんでください。」、「主よ、私たちを憐れんでくさい」と祈ることなしに、私たちの礼拝の生活は成り立たないと考えたからです。いや、礼拝の生活だけではありません。私たちの日ごとの生活がこの祈りなしには成り立たないことを教会は礼拝を通して、伝え続けてきたのです。

なぜ、神の憐れみを求めることを、教会では大切なこととしてきたのでしょうか。それは、私たちが神の憐れみの御業をきちんと見ることがすぐにできなくなってしまうからです。というのは、この「憐れむ」という言葉を、私たちは同情を求める言葉だと理解します。自分を憐れんでほしいというのは、そのような意味でも、自分に同情して欲しいと願うことは、私たち自身のプライドに関わることなのかもしれません。カトリックの聖書学者で雨宮慧という先生がおります。この人は、聖書の原語の専門家です。この雨宮先生が、「小石のひびき」という小さな本を出しておられます。小さな本なのですが、毎週聖書の一つのギリシャを味わうために、その言葉の背景を解説した書物を出しました。大変面白いもので、私はいつも書斎のすぐ手に届くところに置いてあります。その本の中で、この憐れみという言葉は、旧約聖書のヘブル語のヘセドという言葉に深く結びついた言葉であると説明しています。このヘセドという言葉は「主の慈しみ」と訳される言葉です。

旧約聖書のイザヤ書54章10節にこういう言葉があります。「『たとい山々が移り、丘が動いても、わたしの変わらぬ愛はあなたから移らず、わたしの平和の契約は動かない。」とあなたを憐れむ主は仰せられる。」

この「わたしの変わらぬ愛」と訳されている言葉がヘセドです、新共同訳聖書では「。わたしの慈しみはあなたから移らず」となっている言葉です。一般にはこの新共同訳のように訳されているのですが、新改訳は少しここで大胆な翻訳をいたしました。「変わらぬ愛」としたのです。この雨宮先生はこの「慈しみ」とか「変わらぬ愛」と訳されたヘセドという言葉の解説の中で、「人間の命に無関心ではいられない神の恵み深い創造的な力」と説明しました。人間に心を向け続けてくださる神の創造的な恵みの力、それが、神の憐れみだと言うのです。だから、ここで「主よ、私たちを憐れんでください」と叫んだのは、「人間としての同情を求めたのではなく、恵み深い神の介入(救い)を求めた」のだと説明しています。

二人の盲人はここで主の救いを求めて叫んでいます。神がこの叫びたいほどに切実な苦しみの現実に、ご自身の持っておられるその慈しみを向けて、神の創造的な恵みの力で、私に介入してください、救ってくださいと祈っているのです。ここにこそ、神の憐れみなど見ることができないではないかと思っている私たちの、本当の心の叫びが代弁されているのです。

この二人はこの叫びを注意深く見てみると「ダビデの子よ」と呼びかけています。「ダビデ」というのは、イスラエルの民の偉大な王の名前です。このマタイの福音書はこのダビデの系図を記すことによって、主イエスはこのダビデの子孫でることを最初に示しました。

ダビデは、イスラエルの偉大な王です。そして、イスラエルの人びとは、やがてもう一度この国に、ダビデのような偉大な王が表れると信じていました。待ち望んでいたのです。ダビデのような偉大な人物がやがて救いをもたらしてくれると信じていたのです。

ところが、主イエスはこの「ダビデの子」という称号を用いられることをあまり好んでおられません。ここで二人の盲人がそのように叫んでも、よく読んでみますと、主イエスはその二人の前を通り過ぎてしまっておられるのです。

人びとはこの名前に何を期待したかと言うと、この時代にイスラエルを支配し、ユダヤ人を虐げていたローマ帝国を、ダビデのような王が表れて、ローマの支配から自分たちを救い出してくれると期待していたのです。けれども、主イエスはそのような人々の期待に応えようとしてはおられないのです。イスラエルにダビデのような武力による帝国を築き上げるようなことを主イエスは考えていたのではなかったです。

興味深いのはそれで、主イエスがこの二人の盲人のところを通り過ぎて行かれた、そして通り過ぎただけではなくて家に入ってしまわれます。ところが、この家の中にまで、二人の盲人は入って来るのです。これは、二人が厚かましくついて来たとも読めるし、主イエスが家の中まで入るように招かれたと理解することもできます。いずれにしても、叫び続け、人々の注目の集まる所で、主イエスはご自身の御業を行われることはありませんでした。

人目につかないように、ひっそりとしたところで、主イエスはこの二人にお尋ねになります。「わたしにそんなことができると信じるのか」と二十八節に記されています。ここに、この二人がどのような信仰を持っていたかが明らかになります。二人は答えます。「そうです。主よ。」。実に短い言葉です。素朴な言葉です。「信じるのか」と問われて「はい」と答えているだけです。自分はこのように信じているのですと、その信仰の内容を説明してみせたわけではありませんでした。自主的に、深い信仰であったとか、立派な信仰の告白がここでなされているということでもありません。ただ、「あなたが、あわれみを注ぐことができる」、「ヘセド」と言われた「変わらない神の愛」を示すことができると、ただ素朴に受け止めただけのです。「はい。そうです。」というのは、本当に短く、あいまいな言葉だと言ってもいいほどです。けれども、ここに主イエスが求めておられる信仰の姿があるのです。

松居直という方がおります。福音館という絵本を扱う書店を作り上げた人です。今でも福音館の会長をしておられながら、言葉を聞く喜びを伝え続けている人です。私がこの人のことを知るようになったのは今から二十年近く前のことです。当時まだ神学生であった私は、よく色々な教会で子どもの話をするように招かれました。ところが、いつも招かれて子どもに話をしていると、話の準備が出来ないときなどは、よく父親の作った紙芝居を持って出かけたのです。私の父は、紙芝居を自分で作っては子供に読んでやっていましたから、家にはいくつもの、誰も見たことも聞いたこともないような物語がたくさんあったのです。

ある時、この父の紙芝居を頼りに、子どもの前で紙芝居を読んでやります。ところが、私は時折紙芝居の横からひょいと顔を出しまして、指を指しながら「これはねぇ」などと言いながら、絵の解説をし始めます。そうやりながら、子どもと対話をしながらするのが紙芝居の良いところだと思っていたのです。

それで、神学生であったころ、この紙芝居の話になった時に、妻が私のやり方を見て、あれは良くないと言ったのです。大学で私は、絵本や紙芝居というのは、そのまま読むべきで、自分の言葉を挟み込むべきではないと教わったと言うのです。そういうことを書いているのが松居直という人だというわけです。最初私は、自分のこれまでのやり方が否定されたという腹立たしさを秘めながら、そんなことを言っている人の本を一度読んでやろうじゃないかと思いまして、いくつの本を買い求めたのが、この松居直さんの本との出会いです。そして、この本を通して私は、すぐに自分の間違いに気づきました。自分の言葉をその物語に付け足したいというのは、何から来ているのかということを考えさせられたのです。松居さんは編集者として長い間、世の中に絵本を送り出してきました。そこでに、書き手が十分に備えた物語があります。それなのに、そこに読み手が横から顔を出して自分を主張しはじめてしまうと、書き手が伝えたいと意図していることが伝わらなくなってしまいます。この人の本を読みながら、私は自分の負けを認めざるを得ませんでした。

それから、今日に至るまで、この人の本が出たと聞けば必ず買い求めるようになりました。その中には、言葉を届けるということがどれほど大切なことかということが、絵本の編集者として、どれほどそのことに心を砕いているかということを知れば知るほど、この本は自分のための本だと思うようになったのです。言葉を届けたいと願っている者は特に知らなければならないことが、たくさんあると言うことを考えさせられて来たのです。

この松居直さんは、キリスト者です。もう今では八十歳を超えておられますけれども、今なお、各地で講演をしておられます。可能であれば、今年、芥見教会の三十周年の記念講演に、この方をお招きしたいと願っています。

さて、この松居直さんの本の中に「絵本・ことばのよろこび」というものがあります。その本の中に、ある方の言葉として紹介されている、礼拝の事が記されているところがあります。少し紹介したいと思います。

「聖書は礼拝において高らかに読みあげられる。なぜなら、神は人間に『語りかける』ものであり、決して人間に(文字を)書きおくるものとは考えられてはいないからである」そのように記されているのです。そして、この本の中で、松居さんは、「家庭や、教会や学校で、絵本や物語を読んでやることが、やがて、よきおとずれがもたらされたときに、真の喜びのことばを全身全霊で受け止める土台をつくることになるでしょう。」と言っているのです。

ことばを聞く整えをすること。これが、やがて本当に聞くべき言葉を聞いた時に、それを受け止める土台となると松居さんは言うのです。そして、今日私たちに与えられているこのマタイが記した聖書の物語は、そのような真の言葉、自分を生かす言葉を聞いた時に、まさにそのような備えをしながら、本当の言葉を聞くことに集中していた二人の盲人であったと語っているのです。それが、この「はい。主よ」という素朴な言葉の中に込められているのです。

これは本当に興味深いことです。マタイはそれに続いて、主イエスの言葉を聴き取ったのは耳の聞こえない人であったのだと言うのです。しかも、マタイはこの奇跡を、十の奇跡の最後に置いたのです。本当に聞くというのはどういうことなのだろうかということを、どうしたって考えさせられてしまいます。

パリサイ人という人々がおります。信仰に生きた人々です。立派な信仰を持っていた人たちでした。知恵に生きた人でした。ところが、彼らには、主イエスの言葉を聞こえませんでした。見ることができませんでした。ここに、神の憐れみの御業が起こっているのに、これは、神の御業ではないと考えたのです。いや、考えただけではない。そう口に出して言ったのです。

「彼は悪霊どものかしらを使って、悪霊どもを追い出しているのだ」と三十四節にあります。目の前で、神の御業が行われていながら、神の憐れみの出来事が目の前で起こっている。それを見ている。聞いているのに、これは違うのだと、目をふさぎ、耳をふさいでしまったのです。

神の憐れみの御業は、私たちの思いを超えたところでなされるものです。しかし、パリサイ人は、それが神の御業なのかどうかは自分が決めるのだと考えたのです。「はい、主よ」と、素直に主の御業を認めることができないのです。それほどに、人の心は頑なになってしまうのです。心の中に、叫びがあるのに、主の救いを必要としているのに、それでもなお、主の救いが目の前に差し出されていても、それを受け止めることができないとすれば、それは本当に残念なことです。先ほどの、松居直さんの言葉でいえば、自分を生かす言葉が、目の前にあるのに、その備えが自分の中にまだできていないのです。色々なものが、それを妨げしまうのです。素直になれない心が私たちの中にあるのです。

私たちの主は、言葉の神です。私たちを生かす言葉をもって、私たちに語りかけてくださるお方です。そのような頑なな心と向き合ってくださるのです。人々の願いはダビデのような王をと願うのかもしれません。自分の救い主のイメージはこうだと決めつけているのかもしれません。しかし。私たちの主はそのような思いから全く自由に言葉をお語りになるのです。人が決めつけるイメージに縛られておられないのが、主イエスのお姿です。それは、私たちを自由にするためです。そのようにして、私たちに神の慈しみと、神の憐れみをもたらしてくださるのです。そして、今朝も私たちに語りかけてくださるのです。この主の語りかけに対して、「はい、主よ。」「はい、そうです。信じます」とこの言葉に身を委ねるところに、私たちが本当に慰められる道は開けてくるのです。

お祈りをいたします。

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