・説教 マタイの福音書9章35-38節 「収穫の主」
鴨下直樹
2011.2.27
今年の秋に教会の伝道集会を計画しています。今年は芥見教会の宣教開始三十周年の年ですから、できるかぎり多くの人々に教会を知っていただきたいと願いながら、松居直さんをお招きしたいと考えています。この方は福音館という絵本の会社を造られた方で、子どもに言葉を届けるために絵本を通して、子どもたちが生きた言葉に触れることを願っておられる方です。もう八十を超えておられ、絵本の世界では知らない人はいないという方ですから、私のようなものが松居さんなどと言うのは本当は相応しくないだろうと思います。ちゃんと先生と呼んだ方がいいのかもしれません。
この月曜日の朝のことですけれども、電話が鳴りました。月曜日の電話というのは、あまり進んで出る気にならないのです。本来は牧師の休みの日ですから、それでもかかってくるということは、何かあったか、急な要件が入るかということが多いので、私も何となく低い声で電話口に出ました。すると、「松居です」と言うのです。私には松居という名前の知り合いはおりませんので、すぐにどの松居さんか分かったのですが、あわてて声を整えまして、できるかぎりしゃんとした声で応対しなければと思いつつ緊張しながら電話にでました。自然に自分の姿勢がよくなっているのが分かるほどでした。何を話したかと言いますと、今年の9月末に私たちの教会に来てくださると言うことでした。本当に嬉しく思っています。まだ、半年先のことですけれども、良く準備をしながらこの地域のよい伝道の機会にしたいと願っています。
同じ月曜日に、今度は東京にいるY兄から手紙が届きました。神学校に入ることが決まりまして、その時の証しを書いて、みんなに読んでもらいたいと送って来てくれたのです。こうして、芥見教会から一人の伝道者が起こされると言うことを改めて心強く思いましたし、これからY兄のために祈りつつ支えて行きたいと願わされています。
このように、教会は伝道を使命とするところです。そして、何より主イエスがまずこの地で伝道してくださいました。そして、私たちもこの岐阜の芥見の地で、根を下ろしながら伝道していきたいと願わされています。それは、今日私たちに与えられております聖書にもあるように、主イエスが願っておられるからです。私たちはさまざまな伝道をいたします。この教会でも実にユニークな伝道の仕方をいくつもしていると言っていいと思います。色々なアイデアがあるでしょう。色々な方法もあると思います。そのようにして、私たちは何とかしてこの地域の人びとに本当の喜びを知っていただきたいと願っているのです。私たちが届けたいと思っているのは福音です。良い知らせです。喜びの知らせです。この福音を私たちはこの地の人びとに届けるようにと託されているのです。
けれども、同時に私たちの伝道の力を問う時に、これでいいと言うことはできません。この国ではほとんどの人がと言っていいほどに、福音に耳を傾けているわけではないのです。この福音の言葉を届けたいと願いながらも、言葉の届かない苦しさと戦い続けて、もう三十年も経ってしまったのです。
ですから、この朝はもう一度主イエスがどのように伝道なさったのか、どのように私たちに伝道を託されたのか、その言葉に耳をしっかりと傾けたいと願っているのです。
今日の所からは、マタイの福音書の中でも新しい内容へと移っていくそのつなぎの部分と言うことができます。ここから今度は弟子たちに伝道することを教えてくださるところです。その最初のところが、この三十五節の言葉です。
「それから、イエスは、すべての町や村を巡って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、あらゆる病気、あらゆるわずらいを直された。」
聖書を読むと、それほど心にとまる言葉ではないかもしれません。もうすでに四章の二十三節で主イエスの伝道の開始のところで同じ言葉が語られています。これに続く十章の一節にも同じような言葉が記されています。しかし、だからとって簡単に読み過ごすことはできません。
「イエスは、すべての町や村を巡って」とあります。この「町」とか「村」という言葉は複数形ですから、町々、村々と言った方が正確ですけれども、日本語ではあまり複数形で名詞を表すことをしません。すべての町々、すべての村々というのは、あまねくすべての町でということです。行ったことのない町や村は無いということです。少し大げさに感じるかもしれませんけれども、主イエスはそのように記されるほどに、小さな村にも足を運ばれたのです。大きな町だけではない、目立つ人のところだけではない、どんなに小さなところも、どれほど目立たない人のところにも足を運ばれて、教え、福音を語り、いやしをなさったのです。
主イエスは人の日常の歩みの中で起こるありとあらゆることをご覧になりました。人が何に悩み、どのような弱さを持ち、どれほどの悲しみを抱えているか、主イエスはくまなく人々の所に足を運ばれてご覧になったのです。
そして、「群衆を見て、羊飼いのいない羊のように弱り果てて倒れている彼らをかわいそうに思われた。」と続く三十六節にあります。
以前も一度ここで羊飼いの後についていく羊たちの映像をおみせしたことがあります。羊というのは、見事なほどに羊飼いの後にくっついて歩きます。それは、羊飼いについて行きさえすれば安全でおいしい牧草を得られることを経験的に知っているからです。羊は群れを成している生き物です。一匹狼という言葉はありますが、一匹羊などとは言いません。ところが、そのような羊が、さ迷い歩いても餌を得ることができずに飢えてしまい倒れてしまうとしたら、それはまさに羊の悲惨さを表します。主イエスはそのように地をあまねく行き巡られて人々をそのようにご覧になられたのです。
さきほど、主イエスが「すべての町や村を巡って」と記されていると言いました。同じ記事がマルコの福音書にも似たような記事が記されていますけれども、そこには、「イエスは近くの村々を教えて回られた」(マルコの福音書6章6節)とあるのです。マルコは村のことしか記していないけれども、マタイは、主イエスは町々も巡られたのだ、ということを言いたいのです。
私の持っている聖書の解説が書かれている者の中に、社会学者がこの福音書を読み解いているものがあります。聖書学者たちの解説とはまた異なる視点でしるされていますので、面白く思いながら読むのですけれども、その中に、町の人の生活と村の人の生活ぶりがどれほど違うかということが記されています。つまり、それによれば町というのはエリートの住む所で、城壁で守られているけれども、村に住む人々というのはこの城壁の外に住んでいると言うのです。そういわれてみれば、旧約聖書の時代から、時々、城壁にまつわる出来事が記されていますので、私たちにもそのあたりは想像ができるのではないかと思います。日が暮れるころになりますと、この城壁が閉じられてしまいます。つまり、村に住んでいる人たちというのは、何の庇護もない人々ということになるというのです。
マタイはここで町の人の生活ぶりと、村の人びとの生活ぶりとがどんなに違うかなどということを丁寧に記してはいないのですけれども、私たちはそのことを心に留めておくのは大事なことだと思います。主イエスは町の中の人びとの生活ぶりも知っておられるし、町の外に生活している人々の姿もご覧になったけれども、そのどちらの人々の生活ぶりをご覧になっても、この人たちは、羊飼いを失って、飢えて倒れてしまっているとご覧になられたのです。
私たちは、貧しい人や、弱い人を見ると、かわいそうにと思うことは簡単なことですけれども、エリートと呼ばれる人や、自分よりも豊かな生活をしている人に対して憐れみの心を持つと言うことが難しいのです。けれども、そこに私たちの問題があることを私たちは知っていないといけないと思います。どれほど、人に手を差し伸べているようでもそれが、上から下へという思いでなされているならば、どれほど手を差し伸べていてもその思いはなかなか届かないのです。
私たちがドイツにいた時のことですけれども、時折ドイツに帰国中の宣教師と一緒に日本での宣教報告の旅に同伴いたしました。ご存じのように日本は大変物価の高い国です。日本に宣教師を一人送り出すお金で、他の国に宣教師が三人も四人も送ることができるほどなのだそうです。そうすると、必ずと言っていいほど、その宣教報告がなされた後の質疑の中で、「どうしてわれわれドイツ人が、日本のようなお金持ちの国を援助しなければならないのか」という質問が必ずでます。日本に来ている宣教師たちというのは、常にこの質問と戦っていると言ってもいいほどです。援助というのは、貧しい国、弱い人たちになされるべきで、日本に対して宣教師を送ることは間違っていると考える人たちが大勢いるのです。
今日も、この礼拝に四人のドイツから日本に宣教のために来ておられる人たちが一緒に礼拝を捧げています。私たちは、一緒に礼拝を捧げながらどうしても覚えていただきたいのは、主イエスは貧しい者に、弱い者に援助するために伝道されたということではありませんでした。問題は、富んでいようと、貧しかろうと、導く者がいないことがどれほど苦しいことかということに、主イエスが心を痛められたということです。そして、ここに海外であろうと国内であろうと伝道する一番の理由があることを私たちは知る必要があるのです。
この三十六節に「かわいそうに思われた」という言葉があります。この言葉の語源は「腹わた」を意味する言葉です。「内臓」です。主イエスは人々の生活ぶりをご覧になりながら、
まさにご自分の内臓が痛むような思いで、人々の生活ぶりをご覧になられたのです。人の痛みを、自らの痛みとするほどに、深く心を動かされたのです。
なぜですか。それは、私たちの生活ぶりが「弱り果てて倒れている」からです。生活が成り立っていないのです。どれほど豊かな国に住んでいようと、それこそ大きな町の中で生活していようと、町はずれの村で生活していようと、お金があろうとなかろうと、病であろうとなかろうと、私たちは、自らの力でどう生きたらよいのか分からないのです。どこに向かって行ったらいいのか分からないのです。まさに、餌も求めることができない、羊のようにさ迷い歩くことしかできないのです。
もちろん、そこで生活している人々は自分のことを誰もがそんな風に考えているわけではありません。ほとんどの人は、自分では自分の生活が成り立っていると考えているのです。そして、むしろ自分の判断で、正しいか正しくないか、生活が成り立つか成り立たないか考えて生活しているのです。そして、そのような者の目から見て、主イエスはどう映ったのかというと、先週のところに語られていたように、「彼は悪霊どものかしら使って、悪霊どもを追い出しているのだ」としか考えることができなかったのです。
主イエスの働きは悪魔の働きだと思ったのです。仲間内で悪霊を追い出しているに過ぎないというこの言葉は、愚かとしか言いようがないほどですけれども、そういうことによってしか、もはや自分の頭の中の考えを言い表すことができなかったのです。
教会の伝道のむずかしさというのは、ここに見事に表れていると言うことができます。もちろんパリサイ人は自分が愚かだなどと考えてはいなかったでしょう。現代の人々も全く変わりません。さまざまな理由を考えながら、自分はそんなものには騙されないぞと思っているのです。
主イエスの側から見れば、愚かとしか言えなくても、その人々は真剣にそう判断しているのです。そして、主イエスは、こんな愚かな人に福音を語るのはもうやめにして、もっと賢い人たち、高尚な話の通じる人たちに、福音を語ろうとお考えにはならなかったのです。まさに、そのような人間の姿をみながら、自分で生きて行けるのだと思い込みながら、力尽きてしまう羊のようだごご覧になられ、そのようなご自身を敵対視する者に対して自分の内側を掻きむしられるような思いをされながら、心痛めておられるのです。そして、それが、主イエスの伝道の力となっているのです。
私たちは自分たちの言葉が届かないことに嘆きます。言葉が伝わらなければ、相手の制するのが一番簡単なことです。相手が愚かなのだと考える。自分にはすべてが見えていると思う。いや、実際にそう見えるのかもしれません。しかし、それはお互いにそうなのだということには気づかないのです。親は子供の愚かさが見えるのです。けれども、子どももまた親の愚かが見えているものです。それは夫婦であろうと、職場の関係であろうと、どこででも言えることです。
そのようなところで、私たちの伝道が問われているのです。相手が愚かなのだと私たちは考えることで、優越感に浸ることはできません。主と同じように、私たちの心を痛めるほどに、相手のことを大切に思っているか、福音を届けたいと願っているのかということが問われるのです。
私たちの愛する家族が、福音に耳を傾けることを拒絶するときに、私たちは自分の言葉の届かない無力感に嘆きます。私たちの親しい人が、羊飼いのいない羊のように弱り果てているのを見ながら、どうすることもできない無力感に打ちひしがれる。相手に聞く耳がないのだから仕方がないと開き直ることはできません。まして、誰もがY君のように自分が伝道者となって、専門的な学びをしようと考えるわけでもありませんし、主イエスもそのことを誰にでも求めておられるわけでもないのです。
「そのとき、弟子たちに言われた。『収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫の主に、収穫のために働き手を送ってくださるように祈りなさい』」と続く三十七節、三十八節で語られています。主イエスはそこで、「祈りなさい」と言われたのです。私に求められているのは、相手をさげすむことでも、自分の無力を嘆くことでもありません。そのために祈ることを主イエスは求めておられるのです。
教会の伝道の力はいつも、祈りから始まるのです。それは、神に期待することからすべてがはじめられるということを意味します。自分の力で何かを成せると思う必要なないし、考える必要もありません。主がなしてくださるのです。
私の書斎に、私が奉仕しております名古屋の神学校のポスターが貼ってあります。そこに「収穫は多いが、働き手が少ない」と書かれています。この言葉の中にある、「収穫は多い」と言われる主イエスの思いがあることを私たちは知っていなければならないと思います。主イエスにはそのことが見えておられるのです。けれども、このポスターを見るたびに思うのは、「働き手が少ない」とだけ書いて終わってしまっていることに残念に思うのです。このポスターが訴えたいのは、だから、あなたも働き手になろうという呼びかけです。確かに神学校のポスターですからそう書くのが相応しいのだと思います。けれども、同時に、祈りなさいと言われている主の心を私たちが忘れてしまうとすれば本当に残念なことです。
伝道は、自分がよしと奮い立って、努力するところに伝道の源があるのではないのです。ただ収穫は多いと言われる主に祈り求めながら、主と同じように、心を痛めながら、主の働きに共に携わるところに伝道の道は開けるのです。
芥見教会は今年で伝道をこの地で初めて三十年を迎えました。この地になおも福音を伝えたいと願っています。それは、主が心を痛めておられるからです。主は私たちの愛する人々が、福音に生きていな、羊飼いがいない羊のように生きていると見ていてくださるのです。主が、何とか救いを知ってほしいと考えてくださっているのです。主ご自身が、私たちのことをここまで思ってくださる。私たちを見捨ててしまおうとしておられないのです。だから、私たちも諦めないのです。そして、祈り続けるのです。
主は言われます。「収穫は多い」と。主には、その人々が救いに預かる姿が見えているのです。だから、私たちもこの主と同じような思いを持ちながら、祈り続けていくのです。
お祈りをいたします。