2011 年 3 月 6 日

・説教 マタイの福音書10章1-15節 「平和を告げる者」

Filed under: 礼拝説教 — naoki @ 14:29

 

2011.3.6

 鴨下直樹

 

今週の金曜の事です。私が関わっております名古屋の神学塾で入塾試験が行われました。今年から教務のお仕事を手伝うことになりまして、試験官をいたしました。待合室で、試験の前に何やらメモを取り出しまして、勉強をしています。ちゃんと聖書の書簡を順番に覚えているか、十二弟子の名前が言えるかというようなことを前もって勉強して来ているようです。

さて、十二弟子の名前と言われて、みなさんはすぐに名前がでてくるでしょうか。そんなの簡単と初めて見てながら、ペテロ、アンデレ、ヤコブ、ヨハネと威勢よく名前が飛び出してくるかもしれません。そこまでは大丈夫です。マタイ、トマス、ユダとあとはこれまで聞いたことのある名前を何とか思い出しながら言い終えた後で、えーと、マルコとルカなどというように出てくることが意外に多いのです。もちろんマルコもルカも十二弟子の名前ではありません。ヤコブは二人いるのかとか、シモンは何人いるかなどと考え始めるともう分けが分からなくなる。

十二弟子の中には有名な名前もあれば、それほど知られていない名前もあるかもしれません。いつか、この十二弟子を一人ずつ取り上げながら説教しても面白いかななどと思うことがあります。それほど、この十二弟子というのは個性豊かな人々の集まりでした。

 最初の四人は漁師をしていました。ヤコブとヨハネという兄弟は、他の福音書によれば雷の子というあだ名がつけられていたといいます。気が短かったのです。この福音書を記したマタイは取税人ですし、四節に出てくる熱心党員のシモンというのは、厳格なユダヤ主義者でした。マタイはローマの手先になっている人物ですから、当然このシモンとは正反対の位置にいた人物であるということができます。もう一人のヤコブとタダイというのは、親子であったのではないかとする説明もあります。後の時代にはそのように考えれていたのです。疑い深いトマスの名前があり、そして、「イエスを裏切ったイスカリオテのユダ」という名前も記されています。

 一般的な考え方からすれば、決して一緒にいるような人たちではなかったということができるかもしれません。仲がいいから一緒にいたというのではないのです。おそらく、この十二人は性質も家柄も、育った環境も全く異なった人々であったと考えた方が良いのです。

 しかし、そうであるとすると、いったい何故、主イエスはこれらの人々を十二弟子となさったのかということを考えずにはいられません。この名前のリストは、立派な人格者たちのリストというわけではないのです。むしろ反対に、さまざまな人々の寄せ集めであると言うことすらできるのです。そして、そのような人々を主イエスがお選びになられたのです。

 

 私たちの教会も今年で三十年を迎えました。その間、何というさまざまな人たちがこの教会に加えられてきたことでしょう。前からみなさんの顔ぶれを見ていても、実にユニークだと言わざるを得ません。十二弟子にしても、皆さんにしても、ここにいる理由は一つです。主イエスが招いてくださったということです。この一つに尽きるのです。

 

 立派だからではないのです。性格が良さそうだと言うのでもないのです。十二弟子の名前のリストの最後に、先ほども言いましたように「ユダ」の名前があります。そこにもすでに、主イエスが完全な者だけをお招きになったのではないことがよく分かります。そこにあるのは、ただ、主イエスに招かれたということがあるにすぎないのです。けれども、これが、十二弟子の立つべきところでした。主イエスがこの十二人の弟子たちのさまざまな違いを乗り越えさせて一つとしてくださり、主の宣教のために用いてくださったのです。

 

 イギリスの聖書学者ですぐれた説教者でもあるジェームス・ステュアートが記した「受肉者イエス」という書物があります。これは、数あるイエス伝の中でも、私はもっともすぐれたものだと思っている書物です。その本の中に、この十二弟子たちのことが書かれている章があります。そこでスチュアートは強調して書いているのは、キリスト教は青年運動として始まったということです。この主イエスの弟子たちというのは青年団であったというのです。確かに考えてみればそうです。主イエスも三十歳で伝道を開始しましたし、主イエスの周りにいた弟子たちも殆どはそれほど年が離れていませんでした。パウロの手紙の中で、もう一世代も経った後で、復活の証人となった弟子たちは五百人と記しながら、「その中の大多数の者は今なお生き残っています」と第一コリントの十五章四節に記されています。この青年たちは、どこに向かうのかほとんど知らないままに、まさに青年らしい大冒険をしながら伝道をしたのだということを、スチュワートは熱を入れて記しています。まさに、主イエスだけを見上げて、主イエスのみに信頼して、失望することがあっても、それを乗り越えて行ったのです。

 スチュワートがなぜこのことに注目しているかというと、ここから私たちは主イエスと共に歩む大きな力を得ることができるのだと言うのです。何も分かっていないような者たちであっても、ただ、主イエスに信頼する無謀ともいえる姿がここに描かれているからこそ、私たちもそれに続いていくことができるのだということです。

 

 私たちの住んでいる岐阜県と愛知県との県境に木曽川が流れています。私はこの木曽川のほとりで生まれましたから、このあたりの歴史についてはことさらに興味があります。私が神学生の時に、この東海地区の伝道の歴史を専門に研究している先生がおりまして、さまざまな信仰者の歴史がこの地にあることを知りました。そして、神学生たちをこの地域の信仰者たちの歩みを知らせるために、こられの場所を順に尋ねたことがあります。その中のは例えば、木曽川をずっと上って行きますと、御嵩町という小さな町があります。この御嵩町だけではなくて、この木曽川沿い一体に、当時のキリシタンの史跡と呼ばれるものがたくさん残っています。たとえば、この木曽川沿いで有名なのは、犬山市にあります如庵(ジョアン)という名前の茶室があります。これは織田信長の実の弟の織田有楽斎によって造られた茶室で、今は国宝とされています。もともと、犬山にあったのではないようですけれども、犬山に移築されました。その隣りに奥村亭という料理店がありますけれども、ここもまたキリスト者の信仰を後の時代に示すところとして知られています。この奥村亭の庭にキリシタン灯篭と言われるものがあります。灯篭の背後に模様のようにして十字架が刻まれています。そのようにして、庭の中にひそかに礼拝する場所を作って礼拝を捧げたのです。

 御嵩にもさまざまなキリシタン灯篭があります。このキリシタン灯篭というのは、解説してくださった地元の歴史家の話によると、かならず言い訳で来るように、どちらともとれる文字を掘るのが特徴なのだそうです。たとえば、水飲み場とわれるとこに、「水神」と掘られた岩がありますけれども、この水という字を、十字架に見立てものもあります。当時のキリスト者たちは、「十字架の神」を記念として礼拝の場所にしていたというのです。それ以外にも、私が見せていただいたものには大変大きなものでしたけれども、大きな石に「同行十二人」と記された記念碑があります。もともとは「同行二人」(どうぎょうににん)と言います。これは、仏教のいわゆるお遍路をする時に、弘法大使、いわゆる空海がいつも共にいてくれるということを表した言葉です。ところが、この時代のキリシタンは、同行十二人と記したのです。これがあるのは、実際は大変な山の中でして、私たちはレプリカを見せていただいたのですけれども、私は非常に興味を持ちました。

 キリスト教の迫害の中で、この町に生きた人々は、自分たちの思いを主イエスの十二弟子たちと思いを重ねたのです。山奥に入ってこの灯篭をみながら礼拝し、そこで、自分たちも十二弟子たちと同じように、この地に派遣されていると考えたのです。そうして、迫害の中で、自分たちの信仰を鼓舞したのです。

 

 主イエスによって使わされる弟子の姿というのは、そのように、この日本の地の人々が心惹かれるほどに魅力のあるものです。そして、この弟子たちの姿というのは、この世界に遣わされる私たちの姿と重なり合うものです。主イエスによって弟子とされた者が何をするのかということが、5節以下でいくつかの事が記されています。その一つは「天の御国が近づいた」と宣べ伝えることです。そして、このマタイが強調して記しているのは、権威を与えららえた弟子たちが主イエスと同じように働くということです。八節には「病人を直し、死人を生き返らせ、らい病人をきよめ、悪霊を追い出しなさい」とあるのです。しかし、そこで立ち止まって考えてしまいます。このような正に主イエスにはおできになったことを、弟子たちがすることができるのだろうか、まして私たちにはどうなのかと考えます。ちょっと出来そうにもないと思えるからです。ところが、マタイがここで記している大事なのはその後の部分です。「あなたがたは、ただで受けたのだから、ただで与えなさい」。どういうことでしょうか。

 この言葉にはそれほど丁寧な説明は必要ないかもしれません。神の僕とされたことも、救いを受けたのも、私たちは神の恵みによるということです。自分の努力でそのような資格を得たわけでもないし、そのために、多大な費用を費やしたということでもありませんでした。十二弟子たちにしてみれば、マタイにしても、ペテロにしても、全く思いもかけないところで、主イエスに呼び止められて、「わたしについて来なさい」と招かれたのです。そして、主イエスの弟子とされたのです。だから、喜んで人々に仕えなさいということです。というのは、この後の教会の時代になりますと、どうもお金を取る弟子たちが出て来たのです。癒しをするから、いくらいくらというようにして働く者が起こったのです。そうすると、当然ですけれども、お金のために働くことになります。生活のためになる。どれだけ、収入が得られるかということになってしまいます。しかし、そういうことではないのだということを、主イエスは弟子たちに教えておられたのだということを、マタイは記したのです。マタイは後の時代になって記されたものですから、私たちもそのことを良く心に覚えておく必要があると思います。

 そして、何よりも弟子たちの働きの中で覚えていただきたいのは、十一節、十二節です。「どんな町や村にはいっても、そこで誰か適用な人かを調べて、その人のところにとどまりなさい。その家に入る時は、平安を祈る挨拶をしなさい」とあります。

 「平安を祈る挨拶をする」それが、弟子たちのとても大事な務めでした。この「平安」という言葉は「シャローム」という良く知られた言葉です。「平和」ともいうことのできる言葉です。しかも、この言葉は日常的な挨拶の言葉でした。「こんにちは」とか「おはよう」という言葉でもあったのです。

 続く十三節を読みますと「その家がふさわしい家なら、その平安はきっとその家に来るし、もし、ふさわしい家でないなら、その平安はあなたがたのところに返って来ます」

 「平安が返ってくる」という言い方はちょっと面白い言い方です。まるで自分たちが平安を持っているかのように語られているのです。そこで考えてみる必要があるのは、この弟子たちに平安があったのかということです。

 先ほども言ったように、熱心党員のシモンと取税人のマタイは主イエスの弟子になる前であれば、まさに敵同士です。そういう人々が一緒なのですから、その中に平安があったか、平和があったかと考えると、人間的に何が得るならば、実に殺伐としたものだったのでないかと思えるのです。しかも、配慮ができるような年齢の落ち着いた人々というのではなく、青年たちの集まりなのです。

 けれども、この主イエスの弟子たちの中には平和があった。平安があったのです。なせなら、主イエスによって一つに結び合わされているからです。「胴巻きに金貨や銀貨をいれてはいけません。旅行用の袋も、二枚目の下着も、くつも、杖も持たずにいきなさい。」という生活ぶりですから、すぐに不安になったであろう彼らの生活は、主イエスが共にいてくださる、同行してくださっているということだけで、すでに平安があったのです。その自分たちが経験している平安を、まさに自らの心からの言葉としてあいさつすることができたのです。その言葉は、口先だけのあいさつの言葉とはならないで、本当に、心のこもった挨拶となったことでしょう。

 そうです。弟子たちは人々の所に遣わされれることによって、自らがどれほど大きな平安のできるようにされているかを、日ごとに感じながら歩んだに違いないのです。弟子たちは、主イエスによって平安を告げる者、平和を告げる者へと整えられていったのです。

 

 このように、主イエスは弟子たちを平和を告げる者とつくり変えてくださいました。平安を祈るものへとつくり変えてくださったのです。そこに弟子たちの日ごとの生活があり、私たちの日ごとの生活もここに描かれているのです。

 私たちは主に、ただで、この平安を受けました。自分のような不確かなものに、主イエスはこの恵みを下さったのです。そして、自分だけにとどまらず、私たちを平和を届ける者としてくださるのです。それは、失敗を重ねるかもしれないような冒険であるかもしれないのですが、主が共にいてくださるのです。

 「同行二人」という言葉は、もともと、主イエスのお名前そのものでした。この方は、インマヌエルと呼ばれるお方です。神が私たちと共におられるという御名を持つ方なのです。この主イエスが、平和を、私たちに築き上げさせ、私たちの周りにいる人々にも、もたらすことを願ってくださったのです。そうして、私たちを平和を告げる者としてくださったのです。

 

 

 お祈りをいたします。

 

 

 

 

 

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