2011 年 2 月 13 日

・説教 マタイの福音書9章18-26節 「絶望に立ち向かわれる主イエス」

Filed under: 礼拝説教 — naoki @ 15:53

鴨下直樹 

2011.2.13

 

先週のことです。いつも教会の掲示板に説教のタイトルを綺麗に習字で書いてくださる方がありますけれども、それを見て、妻が駆け込んできました。あのタイトルは何だというのです。ご存知のように、先週の週報でもそうでしたけれども、「長血の女」と書かれていました。妻が私に言うには、綺麗に墨で「長血の女」と書いてあるのを、街の人が見たらなんと思うかと言うのです。ひとこと、「ホラー映画でもあるまいし」という言葉付け加えてです。

これは、言い訳ですけれども、いつも新しい月が来る前に、一か月分の説教題を出して、印刷してみなさんに印刷して渡すことになっています。そのために、最初に暫定的に、聖書の箇所が分かるようなタイトルをつけておきます。後で、直すつもりなのですが、それができないときはそのまま、印刷されてしまいます。ですから、今朝の週報には「絶望に立ち向かわれる主イエス」となっています。確かに、「長血の女」と書かれた説教の題を見て、街の人たちが何を想像するのか考えることもまた楽しいことです。それで、教会に行ってみようと思う方があれば、それはそれでいいかとも思うのです。

 

さて、今朝は、はじめに少し冗談のようにしてはじめてしまいましたけれども、今日の聖書の箇所のテーマはそんなに軽いものではありません。むしろ、その正反対です。絶望がテーマです。ですから、それほど軽く扱うことのできるものではありません。そして、この物語にでてくるのは、この会堂管理者の娘の癒しの出来事と、さきほども言いました長血の女と呼ばれる人の癒しの物語です。この出来事は他のマルコの福音書でもルカの福音書でも記されていまして、マルコなどは大変詳細に書いているのです。ところが、このマタイの福音書は、このマルコの福音書に比べると、記されている分量は半分にもなりません。ずいぶん色々なところを省いてしまっています。たとえば、この娘が十二歳であったことや、また、この会堂管理人の名前がヤイロという名前であったことも記してありません。そして、もっとも異なっているのは、マルコではこの会堂管理人が主イエスのもとに来た時に、この娘は死んでいませんでしたが、今共に聞きましたこの箇所では「私の娘がいま死にました」と言ってきているのです。

このように、ずいぶんと内容は異なるのですが、しかし、ここでマタイが伝えようとしていることはそれでもはっきりとしているということができます。それは、主イエスは娘の死という絶望の前に立ちはだかってくださる方であると、この会堂管理人が信じたということです。

そして、主イエスがこの会堂管理人のところに行く途中で、今度は十二年の間、長血を患っていた女が主イエスの後ろから来て、着物のふさをさわったという記事が入り込んでいます。ある、説教者がここで、一人は前から来て、主イエスの癒しを期待し、もう一人は後ろから来て、主イエスに癒しの御業を期待しているのだと語りました。確かに、ここではそのように、正面から主イエスの前に立つ姿と、後ろから、まるで気づかれないようでもしているかのようにして癒しを経験する出来事が記されているということができます。

 

会堂管理人の娘は十二歳で死んでしまいます。そして、長血を患った女は、この十二年の間病に苦しみ続けていたようです。娘を亡くした父親は、会堂管理人という仕事についていますけれども、これはユダヤ人の中でも、特に人々に認められた人物であったようです。社会的にもある地位を得た人です。富も名誉も手にした人物が、しかし、死というどうすることもできない力の前に、向き合わされているのです。そして、この長血の女と言われる人もまたそうです。新共同訳聖書をお持ちの方は、私が最初から「長血」と言っているけれども、一体どこに書いてあるのかと思いながら聖書をみておられるかもしれません。新共同訳では、この言い方は相応しくないのではないかということで、「十二年間も患って出血が続いている女」と十九節に記されています。新改訳の方では「十二年の間長血をわずらっている女」となっているのです。この女はマルコの福音書などを読みますと、この病のために、自分の財産をすべて失ってしまったことが記されています。自分の持てる財をつぎ込んで、何とか癒されたと願い続けたのです。これは、ある程度財産のあるものでなければできないことですから、この女もまた富にはもともとは恵まれていたはずなのです。けれども、治らない。様々な医者の所に行き、おそらくありとあらゆるところを試したけれども成果が得られないという悲しみを抱えていました。

この両者にあるのは、富の力で、あるいは自分の力や名誉というようなものが、自分の身に降りかかる絶望に対して、それらは助けにならなかったという絶望です。そのような絶望の中にいながら、主イエスのことを聞いたのです。知ったのです。そして、一方は、正面から、他方は後ろから主イエスに近づいたのです。このお方が、絶望から自分を解放してくださる方だと信じたのです。

 

私たちはこの前から願い求める者の思いも、後ろから願い求める者の思いも、ある程度分かるのではないかと思います。正面からやってきた会堂管理人は主イエスにこう言っています。「私の娘がいま死にました。でも、おいでくださって、娘の上に御手を置いてやってください。そうすれば行き返ります」と十八節で語られています。見事な信仰です。「あなたが来て、娘に手を置いて祈ればきっと直る」と信じているのです。そういう、立派な信仰に生きることもできる人も中にはあるだろうと考えることはできます。そして、同時に、正面に立つことはできないけれども、「お着物にさわることができれば、きっと直る」と心のうちに考えるような信仰も、その思いは分かるのです。

 けれども、そのように自分は信じることができるかと、問われると私たちは困ってしまいます。主イエスはこの女に対して、「あなたの信仰があなたを直したのです」と言われています。そうすると、わたしたちは途端に自信がなくなります。そのように信じることが信仰かと考えてしまうからです。

 

 この物語は私たちに、信仰とは何かということを教えてくれます。私たちは信じるという時に、自分の側にどれだけ信じる気持ちが強いかということを考えます。純粋に、百パーセント信じきることが信仰なのだと。特に、このような聖書を読むと、そう考えてしまうのは当然であるといえるかもしれません。

山上の説教の後、実はここに数々の奇跡の物語が記されていますけれども、この八章と九章の中に全部数えてみますと銃の奇跡があるのです。その奇跡はどれも驚くばかりの奇跡ばかりです。そうすると、どうしても私たちが考えてしまうのはどうして今日の教会ではそれほどの奇跡が起こらないのだろうかということです。昔の人びとは信仰があって、今の人びとには信仰がないということなのでしょうか。

 たとえば、ここで十二歳の少女が生き返るという奇跡が記されていますけれども、その少女はその後どうなったというと、何歳まで生きたか分かりませんけれども、死んでしまいます。この長血の女もそうです。前に記されている中風の人もそうです。病が癒されたからと言って、やがて死んでしまうのであれば、そもそも癒しというのは一体何なのかということにもなります。ただ、一時、その苦しみを取り除いても、結局のところ死んでしまうのであれば、その癒しにどのような意味があるかということは、どうしたって考えなければなりません。

 しかも、キリストの教会は、そのような癒しによって教会を建て上げてきたわけではなかったのです。そのことは、私たちはよく理解していなければならないと思います。私たちがここでしっかり見なければならないのは、キリストは何をしておられるかということです。ある聖書学者はここに十の奇跡が記されているのは、旧約聖書でかつてモーセがイスラエルの民を、エジプトで奴隷とされていた時に、十の奇跡を行って、エジプトから導き出したという出来事がありました。それで、ここで、主イエスは、モーセよりも勝るものとしてご自身を示そうとされたのではないかと考える人もいます。確かにそうかもしれません。

 けれども、そのようなことよりも大事なことがここで語られているのです。それは、主イエスは、この世界に生きる人々のあらゆる、わずらい、弱さ、病いという、さまざまな絶望の思いに立ち向かってくださったということです。そして、そのような困難が、人を本当の絶望に追いやってしまうのではないことを示そうとしておられるのではないでしょうか。

 

 私自身、色々な人の病に立ち会うことがあります。病院を訪れて、回復のために祈ることがあります。その時に、いつも感じるのは私の祈りでこの人が病から解放されたら、どれほど大きな慰めがあるだろうかと考えます。考えざるを得ません。けれども、そこでそういう奇跡が起こるということはほとんどありません。ほとんどというのは、少しの余地は残しておきたいと願うからですけれども、そのような力はないのです。もし、私がお祈りをして、ある人が、癌が治ったとか、目が見えるようになったというようなことが起こったとしたら、皆さんはどうなさるでしょうか。きっと、すぐにでも、うちの教会の牧師さんはすごいのだと言って回るのだろうと思うのです。だから、教会に来て見なさい。牧師にあって見なさいと。もし、そんなことになったら、私たちはそのような力を誇示したいと考えてしまうのです。

 

けれども、主イエスはここで、さまざまな奇跡を行いながら、自分にはこんな力があるのだと人々にその力を誇示したのではないのです。主イエスが、会堂管理人の家に着いた時に、そこには笛吹く者や騒いでいる群衆がいました。それは、当時の葬儀のやり方でした。記録によれば、この当時は、どれほど貧しくても二人の笛吹きと、一人の泣き女という人を読んで、死を弔ったのです。会堂管理人は、その地域でもよく知られた人でしたから、その家にすでに大勢のそのような弔いのために集まって来た人々がいたことはよく分かることです。けれども、そこで、主イエスは二十四節を見ますと、こう記されています。「『あちらに行きなさい。その子は死んだのではない。眠っているのです。』すると、彼らはイエスをあざ笑った」とあります。それで、主イエスはどうなさったかというと、群衆を外に出してから、癒しをなさったのです。この癒しの出来事を人々が見ることをお許しにならなかったのです。自分にはこんなことができる。こんな力があるのだと示そうとしたのではなかったのです。

 

 いつも毎月第一土曜日に、この教会では葡萄の木という俳句の会が持たれています。最近はずいぶん盛んになりまして、色々な方々が集まっています。その中で私は短いお話をします。今年の最初の句会の時に、島村亀鶴という牧師の話をいたしました。亀と鶴と書いて「きかく」と読むのです。この牧師は昭和の中ごろまで活躍した牧師です。今、日本の説教者たちというシリーズが刊行されていまして、その中にも収められているほどの、名説教家として知られる牧師です。この牧師は俳句もなさるのです。それで、句会にこの牧師のことを取り上げるのは相応しいのではないかと思いまして、短い話をしました。

 この牧師には小学五年生のハンナという娘がおりましたが、病であったようです。この娘のハンナは11歳で亡くなります。その死ぬ数日前の話に、「おとうちゃん、イエス様が、十二歳の子どもを、行きかえらせたところを読んでちょうだい」と言いました。この牧師がこの箇所を読んでやりながら、ハンナを見ると黙って聞いている。もう死の予感がするのだろうと書いていまして、その瞳にはこの世ならぬ澄みきった明るさがあったと言っています。 その時の俳句が紹介されています。

 

 やがて逝く子の瞳澄いる梅雨かな

 

 この句会でもこの句を紹介しました。この句がうまいのかどうなのか私にはよく分かりませんが、私が心動かされたのはこの島村亀鶴牧師の11歳の娘ハンナです。この娘は自分と同じくらいの年で命を失った聖書の物語を聞くのを何よりの喜びとしたのです。

 自分の物語がここに記されていると知ったのです。そして、死の前に、もう一度この物語を聴きたいと願った。この牧師の俳句には、こんな小さな娘が自分の死を目の当たりにしながら目が澄みきっていたのだと、その御言葉を聴いた娘の顔を忘れることができなかったのです。周りは梅雨の雨が、涙のように降り注いでいるのに、自分の娘はそのような悲しみに飲み込まれてはいなかったのだと。

 この牧師も思ったはずです。なぜ、自分の娘が祈りながらも癒されないのかと。自分にも主イエスのような力があればいいのにと願ったはずです。けれども、同時に、そこに答えがあるのではないことも知っていたのです。主イエスが、自分の持つ、悲しみに一緒に立ち向かってくださっている。自分が経験している絶望を、共に味わいながら、その問題に解決を与えてくださると信じることができたのです。

 

 信仰とは何ですか。自分は100%癒されるのだと信じきるというようなことをここで信仰と呼んでいるのではありません。そうではなくて、この会堂管理人も、長血を患っていた女も、このお方に自分は、自分を託せばよいのだと信じたところに、信仰があるのです。

 

 ですから、新改訳聖書で、たとえば二十一節に「お着物にさわることでもできれば、きっと直る」と訳したのは正しくないと、私は思います。この「直る」と訳されているところに、やはり注がありまして、直訳すると「救われる」とあります。なぜ、この言葉で訳さないのか不思議なくらいです。ちゃんと書いてあるのです。ただ、目の前の困難という現実か直るというようなことではないのです。自分自身が救われるのです。自分の困難が解決することでは無く、自分自身が、自分そのものが、この主イエスによって救っていただくことができるのだと信じたのです。だから、ここでの癒しは、その場で、一時的に癒されたけれども、後でまた死んでしまいましたということではないのです。もう、この時に、主イエスによって、救いを経験したのです。自分が、神の御手に覆われて平安を持つことができるようになったのです。

 

 主イエスの与える救いは、私たちが平穏だった時、問題がなかった時というような、前に戻ること、元に戻ることにあるのではありません。主イエスが与える救いは、私たちの人生そのものを、ひっくりまとめて救ってくださることです。私たちの過去がどうであろうと、どれほど厳しい現実の歩みの中に置かれていようと、私たち、私そのものを、あなたそのものを、神が丸抱えにして受け止めてくださるということです。主イエスはここで、そのような姿を私たちに示していてくださるのです。そして、私たちに主に身をゆだねることができることを示してくださっているのです。

お祈りをいたします。

 

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