2011 年 2 月 6 日

・説教 マタイの福音書9章14-17節 「新しい革袋」

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2011.2.6

 

鴨下直樹

 

 今日の聖書の箇所は先週のパリサイ人との論争に引き続いての出来事です。ですから、本来であれば、先週に引き続いてひとまとめに語ることができればよかったのですけれども、残念ながらその時間はありませんでしたので、こうして二度に分けて御言葉を聴こうとしているわけです。そこで、みなさんに心にとどめておいていただきたいのは、先週お話ししました、この前に記されているパリサイ人の問いである「なぜ、あなたがたの先生は、取税人や罪人といっしょに食事をするのですか」と深く関わりあっているということです。

 それで、ここでパリサイ人に続いて主イエスに問いかけているのが、ヨハネの弟子たちです。このヨハネの弟子たちというのは、主イエスに洗礼をさずけたバプテスマのヨハネの弟子たちのことです。主イエスはこのバプテスマのヨハネから洗礼を受けておられるわけですから、ヨハネの弟子たちとしてみれば、主イエスは当然、自分たちの仲間であると考えていたでしょうし、ひょっとするとイエスというお方は、ヨハネ先生の弟弟子であると考えていたかもしれません。そのように、自分たちと近い関係であるならば、当然自分たちと行動を共にするだろうと考えたのは、私たちにもよく分かることです。

 ここでの問題は何であったかという、パリサイ人と同様に、食事の問題です。ヨハネの弟子たちはこう問いかけています。十四節を最初から見てみますと、このように記されています。「するとまた、ヨハネの弟子たちが、イエスのところに来てこう言った。『私たちとパリサイ人は断食するのに、なぜ、あなたの弟子たちは断食しないのですか。』」

 これは短い言葉ですけれども、色々なことがこの中に記されています。まず、「するとまた」とありますから、これが、パリサイ派の人との論争に引き続いて起こっていることが分かります。そして、ここでヨハネの弟子たちは「私たちとパリサイ人は断食するのに」と言っているのです。「私たちとパリサイ人は断食する」。これは、ある聖書学者などは、パリサイ人がヨハネの弟子を捕まえて、そそのかしたのではないかと言います。ヨハネの弟子たちとパリサイ派というのは、それほど親しい関係ではありません。バプテスマのヨハネはむしろパリサイ派に人々に対して批判的でした。ところが、ここで、イエスとその弟子たちの振る舞いがあまりにも目に余るので、この人びとはここで協力し合ったのではないかと考えるのです。

 というのは、それほどまでに、主イエスと弟子たちとの食事の姿というのは、周りの人々に異様に映ったのです。ここで、ヨハネの弟子たちは断食するとありますけれども、ここで言う断食というのは、ずっと食事をとらないということではなかったようです。どうも、一週間に一度、日が昇ってから日没までの間断食をしたのです。こういう説明をすると、なんだ、その程度の断食なら自分もできると思うかもしれませんけれども、何のためにしているかというと、神との契約に生きていないイスラエルの人びとの姿に嘆きながら断食をしたのです。

 さきほど、エレミヤ書の三十一節を読みました。ここに新しい契約と書かれています。イスラエルの人びとは神との新しい契約に希望を持っていました。ところが、多くの人びとは神との関係に生きることを拒んでしまっているのです。それで、その民の姿に嘆きながら、それは本当に申し訳ない姿だといって、神の前に、民の姿を悲しみつつ、食事を絶って悔い改めに生きようとしたのです。それは、本当に神の民として誠実な姿です。

 

 この説教の準備をしながら、昨年この芥見教会に特別伝道礼拝に来てくださった加藤常昭先生の説教を読みました。その中に面白いことが書かれていました。ちょうど、この説教の前に、夏休みをとって、長野の追分宿で休暇をとったのだそうです。ちょうど、私たち同盟福音の御代田の望みの村という宿泊施設が軽井沢の近くにありますけれども、これはこの追分宿と目の鼻の先です。あるいて五分くらいのところでしょうか。そこで、加藤先生たちご夫妻は休みを過ごしながら、二度ほど、旧軽井沢に二度ほど出かけたようです。その説教は今から三十年ほど前のことですけれども、この軽井沢という町をみながら、加藤先生はその説教の中で、まことに軽薄な町ができあがってしまったと嘆いているのです。今は当時に比べればさらにひどくなったと言ってもいいほどです。それで、その説教の中で、加藤先生は、軽井沢という町を見ていると、このヨハネの弟子たちの嘆きが私たちにはよく分かると語っているのです。

 それを、私などは少々恥ずかしい思いになりながら、読みました。同じように夏休みになると、追分宿の近くに泊まりながら、こちらは、喜んでその軽井沢にでかけているんだから、ヨハネの弟子の悲しみが私たちにも分かるなどと簡単には言えないかな?などと考えてしまうわけです。

 私たちは気を付けないと、それほどに、現代の人びとの生活にどっぷりとはまり込んでしまっているのです。バプテスマのヨハネというのは、人々が身に着ける滑らかなら衣を身に着けないで、まさに、野人のように、動物の皮をそのまま身にまとい、野蜜をなめ、イナゴを口にするという生活を自らに強いた人でした。神の前に誠実に生きるために、この世のあらゆるものは邪魔になると考えたのでしょう。ですから、ヨハネの弟子たちにしてみれば、当然、その時代の人びとの生活ぶりに嘆いたのです。人びとは何と軽薄な生き方をしているのかと。そして、嘆いているだけではなくて、実際にそのことを悲しみながら、週に一度は断食をしたのです。そして、そのような信仰に生きたヨハネの弟子や、パリサイ人の姿が間違っていると簡単に切って捨てることはできないと思います。それほどまでに、この世の人びとの生活を嘆きながら、神の御前に自らは誠実に生きようとしていたのです。

 

 ところがです。主イエスも、主イエスの弟子たちも断食をしないのです。いや、むしろ人びと一緒に、しかも罪人と言われる人びとと一緒に食事をすることを楽しみとされていたのです。神に誠実に生きようとしている人々の前でも、その姿を隠そうともしないで、喜んでしていたのです。

 私たちの教会でも、よく共に楽しい食事の時、交わりの時を持ちます。みなで、食事を持ち寄り、ゲームを、手品を楽しみます。教会でこんなに楽しそうなことをするのは不謹慎ではないかなどという人は、幸いに今のところおりませんけれども、みな楽しみにしています。私たちがそこでも心にとめておく必要があるのは、主イエスがそのような食事をとても大切にされていたということです。

 こういいますと、ある方はそれならばもっと楽しい時間の回数を増やしましょうなどと考える方があるかもしれませんけれども、そこで、私たちが覚えなくてはならないのは、他のことはすべて置いておいて、とにかく楽しみましょうというようなことではありません。主イエスがその中に共にいてくださるということを覚えることです。

 

 ドイツにおりました時に、よく私たちはさまざまな食事の席に招かれて行きました。私たち夫婦のためにドイツで生活するための家を提供してくれた友人が、何かあればよく人を招いて、一緒に食事をしました。この友人は、食事の祈りの席で、ほとんど毎回といってもいいほど、いまこの食卓に、主イエスも共にいてくださることを感謝しますという祈りをいたしました。日本ではあまりそのような祈りを耳にする機会は少ないと思います。けれども、みなさんもどこかで耳にしたがあると思いますけれども、「主イエスは食卓の見えざる客」という言葉があります。この言葉を私たちはドイツでよく耳にしました。主イエスが食事をするその喜びの中に、いつも見えなくてもいてくださるのだというのです。中には、実際にだれも座っていない椅子を、食事の席に用意する人もいるようです。

 

主イエスはこの十五節で、「花婿につき添う友だちは、花婿がいっしょにいる間は、どうして悲しんだりできましょう」と答えています。ここで新改訳聖書はやはり注をつけておりまして、「婚礼の式場の子たち」となっています。もう少し前のことになりますけれども、岩波書店から新しい聖書の翻訳の試みがなされました。それを見ますと「新婚の部屋の子らは」と訳されています。原文をそのまま読むとそういう意味になるのです。新婚の部屋、新改訳の注では「婚礼の式場」となっていますけれども、それがもともとの言葉なのです。婚礼の式場というのは、花嫁と花婿と部屋のことです。そんなところに子どもたちがいるというのはちょっとおかしな感じがしますけれども、それはどうも、「婚礼に招かれた客」のことを意味するようです。そのような新婚の部屋に入り込むのはよほど親しい間柄です。まして、その結婚を羨んだり、ねたんだりするようでは困ります。結婚をあげる喜びを、まさに、一緒になって心から喜ぶのが、この「婚礼の式場の子たち」です。

 つまり、主イエスはここで、自分と一緒にいて食事をするのは、まさに花婿と共にこれからの喜びを喜んでいるのだから、断食などする必要はないのだとお答えになったのです。

それに等しい喜びが、私の弟子たち、取税人たち、罪人と呼ばれる人たちは味わっているのだとお答えになったのです。

 ここでヨハネの弟子達や、パリサイ派の人びとしているように、断食しながら、人々が神を知らないことを嘆くのは間違ったことではありません。けれども、私と一緒にいる人たちは、もう神と一つになる喜びに生きているのだから、喜べばよいのだと、主イエスはここで言っておられるのです。主と共にある歩みは、喜びです。共に食事をしながら、お互いに喜び合うことのできるものです。ですから、聖書をよく読んでいますと、主イエスは本当によく一緒に食事をしています。そして、この習慣は教会の歴史の中で受け継がれていきました。罪人であろうとも、取税人のような者であろうとも、病の中で苦しみの中に置かれている者であろうとも、この喜びに招かれているのです。

 

 そして、興味深いのは、主イエスはそれを二つの小さな譬を用いて説明なさいました。十六節には「誰も真新しい布切れで古い着物の継ぎをするようなことはしません。そんな継ぎ切れは着物を引き破いて、破れがもっとひどくなるからです」とあります。

 私は着物の継ぎをするなどということをしたことがありませんし、古い着物が弱くなっているので、新しいもので継ぎをするというのは悪くないような気がするのですが、そんなことはしないのだというのです。私は知らなかったのですが、そんなことは、周知の事実だということでしょう。続く、十七節の言葉も「また、人は新しいぶどう酒を古い皮袋にいれるようなことはしません。そんなことをすれば、皮袋は裂けて、ぶどう酒が流れてしまい、皮袋もだめになってしまいます。新しいぶどう酒を新しい皮袋に入れれば、両方とも保ちます。」とあります。

 先週の水曜日の祈祷会の後で、ある方が今度の説教のタイトルだけれどもと質問してくださった方がありました。そこには「新しい革袋」という字が書かれています。今日の礼拝説教もそのままになっています。ところが、聖書を読むと、それは新改訳聖書の場合なのですが、この革という字が、皮、皮膚の皮という字が使われているのです。それで、この二つがどう違うのかということになりました。そうすると、その中の一人の方が、なめしてあるかあるかどうかで、言葉を使い分けるのだそうです。私も本当かと思って後で調べてみたのですが、なめしていない皮のことを皮膚の皮という字を使って、なめしてある皮は、革靴などとかきますけれども、こちらの革と言う字を使うのです。ですから、新共同訳ではこのなめしてある革の方の字で書かれています。どちらも、間違いはないようですけれども、今日では日本語ではそのような使い分けをしているのですけれども、それが、聖書の言葉でもなめしてある革と、なめしていない皮という違いがあるわけではありませんから、どちらでもいいわけです。いずれにしても、ここで主イエスが言っておられるのは、主イエスは新しいのだということを言っておられるのです。

 古い物を、傷つけたり、駄目にしてしまうほど、主イエスは新しいのだと。これは、私たちにもよく分かることです。新しいことというのは、それになれる前に、まず誰もがそうですけれども、非常に強い抵抗感を示します。これまでの価値観が壊されるというのは、その価値観、やり方に慣れ親しんできた人たちにとっては脅威でしかないからです。自分たちのこれまでのあり方が破壊されてしまうなどと考えるのです。そして、いやむしろ新しいものが出てくると、すぐに人はそれに魅せられてしまう、心奪われてしまって、大事なことを見失ってしまうということを考える。私たちが物事の判断をする時には、ですから、よくよく注意をしていると思います。何でも新しいものがいいとも限らないことを私たちはよく知っているのです。

 けれども、主イエスはここで、私はこれまでのあり方を壊してしまうほど新しいのだと言われました。その時に、私たちがこの世界で新しいと見せられるのは多くの場合は目に見える部分であったり、そのやり方、方法です。主イエスは、罪人たちと一緒に食事をするというのは、目に見える部分です。そして、それは、本当に、これまでのあり方とは全く異なるものでした。ですから、私たちもどんどん食事をして、楽しめばいいのだということになってしまうと、大きな間違い犯してしまうことになるのです。

 

主イエスはここで、この喜びは何に根差すのかということを示しておられます。それは、主イエスと共にいることは、神を知ることになるということです。神と交わりを持つということです。これまで、神を知らないから、断食をして、神の前に自分たちだけでも誠実に生きようとしていたなら、ここに、神と共にある喜びがもうあるのだから、あなたも、そこに生きることができるのだと、主イエスはここで招いていてくださるのです。

 けれども、パリサイ人は、神に対して人々の生活ぶりが間違っているので、私たちは断食という方法を取り入れながら、それをし続けることに固執してしまったのです。そして、神が示してくださっている新しい生き方が、見えなくなってしまったのです。ここに大きな問題があったのです。

 

 先ほど、エレミヤ書三十一章を読みました。本当は全部を読みたいのですが、最後の三十四節だけを読みます。「そのようにして、人びとはもはや、『主を知れ。』と言って、各々互いに教えない。それは、彼らがみな、身分の低い者から高い者まで、わたしを知るからだ。――主の御告げ。わたしは彼らの咎を赦し、彼らの罪を二度と思い出さないからだ」

 これは新しい契約と呼ばれているところです。イスラエルの人びとはその日がくるのを心待ちしながら、この日が来るためにそなえて断食をしていたのです。ところが、目の前に、「身分の低い者も高い者もわたしを知るからだ」ということが目の前に起こっているのに、それは目に入らなくなってしまっていたのです。いつの間にか、神を知ることが軽んじられて、自分たちの習慣を守ることに心が奪われてしまったのです。

 ですから、ここで主イエスは、自分は新しいのだと言っておられるのです。そして、この新しさがあなたに見えるかと問うておられるのです。 

 

 この後で、私たちは共に聖餐を祝います。もうお気づきの方も多いと思いますけれども、この聖餐卓は、みなさんから見て真ん中に置かれています。これは、ドイツの自由福音の伝統でもあります。私たちは聖餐を共に祝うために集まっているのだということを、これで表しているのです。先ほどもいいましたけれども、伝統であるということに意味があるのではありません。私たちは主イエスに招かれている喜びを共に喜び合うことが、私たちの中心なのだということを表しているのです。

 私たちは共に喜び、祝いあうために、主の食卓に招かれているのです。ここに、主イエスの新しさがあります。私たちの新しさがあるのです。私たちは、主イエスによって、新しい存在にされたのです。罪人も、病の者も、悩みを抱えている者、主イエスに招かれることによって、共に手を取り合って喜び合うことのできる者とされたのです。この喜びに、共に預かり、お互いにこの喜びを分かちあいたいと思うのです。

 

お祈りをいたします。

 

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