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・説教 マルコの福音書9章14-29節「信仰があるかを試した主イエス」

2026.03.08

内山光生

イエスは言われた。「できるなら、と言うのですか。信じる者には、どんなことでもできるのです。」するとすぐに、その子の父親は叫んで言った。「信じます。不信仰な私をお助けください。」

マルコ9章23~24節

序論

 イエス・キリストが地上世界において福音を宣べ伝えていた時、主イエスのもとに病気や悪霊にとりつかれて苦しんでいるたくさんの人々が連れて来られました。特に状態が悪い人の場合、家族や近所の人々がわざわざ主イエスのもとに連れてきたのです。苦しんでいる人を連れてきた人々は、主イエスなら癒すことができると確信していました。そして、その信仰のゆえに、苦しみから解放されたのでした。苦しんでいる本人に信仰があるかないかに関わらず、連れてきた人々の信仰によって人々が癒されていったのでした。もちろん、苦しんでいる本人の信仰のゆえに、癒されたケースもたくさんあります。けれども、周りの人々の信仰によって、癒されたケースが幾つも幾つもあったのです。

 主イエスには、病人を癒したり、悪霊を追い出す権威がありました。そして、それらの権威をご自身の弟子たちにもお授けになったのです。その結果、主イエスの弟子たちもイエス・キリストの名によって命じる時に、あるいは祈る時に、病人を癒したり悪霊を追い出すことができたのでした。

 ところが、今回の出来事によれば、弟子たちではどうする事もできなかったケースが取り上げられています。弟子たちには、何が足りなかったのでしょうか。また、今後、似たようなケースが起こった場合、どうすればいいのでしょうか。結論を先に伝えると、この時の弟子たちの問題点は、「不信仰」だったという事です。そして、それを乗り越えるためには、「祈り」が必要なのです。

I 律法学者たちと論じ合っていた弟子たち(14~15節)

 それでは、今日の箇所を順番に見ていきます。14、15節。

 前回の箇所を思い出してみると、主イエスが三人の弟子たち、すなわち、ペテロとヤコブとヨハネを山の上に連れて行き、ご自身の栄光の姿をお見せになった場面でした。特別な霊的な体験をして、高揚した気分になっていたのです。

 その後、主イエスと三人の弟子たちが山を下っていくと、残りの9人の弟子たちが、律法学者たちと論じ合っていたのでした。しかも、大勢の群衆に囲まれていたのです。どうやら、何か問題が起こっていたようです。そして、群衆が主イエスを見つけると、彼らの方から駆け寄って来たのでした。

 この時点では、何が起こっていたのかが分からない状態です。けれども、群衆が主イエスが現れるのを待ち望んていた、そのような事を感じ取ることができるのではないでしょうか。 続きを読む ・説教 マルコの福音書9章14-29節「信仰があるかを試した主イエス」

・説教 マルコの福音書9章2-13節「わたしの愛する子」

2026.02.15

内山光生

そのとき、雲がわき起こって彼らをおおい、雲の中から声がした。「これはわたしの愛する子。彼の言うことを聞け。」  

マルコ9章7節

序論

 神の子であるイエス・キリストが地上世界に遣わされた目的は、十字架の贖いによって私たちの罪を赦すためでした。先週の箇所には、「神の国が力をもって到来している」ことを人々が見るようになるとありましたが、それは、イエス様がよみがえる事によって実現していくのです。

 つまり、主イエスの弟子たちは、主イエスを裏切るユダを除いては、皆、よみがえりの主イエスに出会うのです。その結果、神の国がどういうものなのかを味わうようになるのです。しかし、その前の段階において、主イエスは三人の弟子、すなわちペテロ、ヤコブ、ヨハネだけに、短い時間ですが、ご自身の栄光の姿をお見せになったのです。

 今日の箇所は、イエス様がどういうお方なのかを、三人の弟子たちに対して目に見える形で示された場面です。もちろん、私たちは聖書に記されている事でしか、この場面を知ることはできません。けれども、心の中で、もし自分がこの場面にいたとしたら、どういう気持ちになったのだろうかと思い描きながら読み進めていきましょう。

I 山上での変貌~ペテロ・ヤコブ・ヨハネの前で~(2~3節)

 では2節から順番に見ていきます。

 「それから、六日目に」とあります。それは、前回の箇所でイエス様が弟子たちに「神の国が力をもって到来しているのを見るまで、決して死を味わわない人たちがいます。」と宣言した時から数えて六日目を指しています。このことは、イエス様が言われたこの言葉と今日の箇所の出来事にはつながりがあることを示しています。

 主イエスはペテロとヤコブとヨハネだけを連れて、高い山に登ったのです。この山は、恐らく、ヘルモン山だと考えられていて、海抜2800メートル程の高さの山です。これ程の高さの山となると、頂上までたどり着くまでにはかなりの体力を必要とします。今の時代は、高い山となれば登山をする人が大勢いますので、山登りの道中で誰かとすれ違うと思うのですが、イエス様の時代は、何らかの理由がなければ、高い山に登る人はいなかったと思うのです。しかし、イエス様は、しばしば、一人で祈りに専念する時に山に登られたように、イエス様にとっての山と言えば父なる神との交わりを持つ場所だったと言えるのです。 続きを読む ・説教 マルコの福音書9章2-13節「わたしの愛する子」

・説教 マルコの福音書8章31節-9章1節「弟子となるためには」

2026.02.08

内山光生

それから、群衆を弟子たちと一緒に呼び寄せて、彼らに言われた。「だれでもわたしに従って来たければ、自分を捨て、自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい。」  

マルコ8章34節

序論

 マルコの福音書を二つに分けるとすると、1章から8章30節まで、つまり、前回の箇所までが前半部分となります。そして、残り8章31節から最後までが後半部分となります。前半部分は、イエス様が人々の前で福音を語りつつ、愛のあるみわざをなした事、また、奇跡を行なったことが中心となっています。一方、後半部分は、イエス様の受難、つまり、十字架に関する事が中心となっています。

 そして、今日の箇所は、後半部分にどのような事が書かれているかについてが、まとめられています。細かく見ていくと、同じところから2回も3回も説教が語れる程に密度の濃い内容が記されています。

 それで今回、私自身がどの部分を強調して語っていこうかと思い巡らしたところ、「自分の十字架を負う」とはどういう事なのか、その部分をしっかりと伝えてきたいと考えたのです。というのも、多くの人は、この言葉をどこかで聞いたことがあるものの、イエス様が私たちに伝えようとしている本当の意味を理解している人は少ない。かくいう私自身も、すぐに「こういうことですよ」と答えることができない現実に気づかされたからです。タイトルは「弟子となるためには」ですが、中心ポイントは「自分の十字架を負うとはどういうことか」です。

I 受難の予告を受け止めることができなかったペテロ(8章31~33節)

 では8章31節から順番に見ていきます。

 前回の箇所では、ペテロがイエス様に対する信仰告白を致しました。ペテロはイエス様に「あなたはキリストです。」と告白することができたのです。これは、まさに模範解答と言えるのです。けれども、ペテロが思い描いていた「キリスト」とイエス様が示そうとしている「キリスト」との間には、大きな隔たりがあったのです。

 イエス様は、ペテロを始め弟子たちが皆、この段階では、「キリスト」であるイエス様の身に何が起こるのかを理解できていないことは分かっていました。また、「キリスト」の意味が正しく理解されないことも分かっていたのです。しかし、いつまでもオブラートに包んでおくわけにはいきません。それで、ようやく、かなり具体的なことを語りだされたのです。

 イエス様は「人の子は多くの苦しみを受け」と言っています。しかも、誰から苦しみを受けるのかを示しています。「長老たち、祭司長たち、律法学者たち」に捨てられると明言しているのです。捨てられるだけでなく殺されるとも言ったのです。ところがイエス様の弟子たちは、その言葉を素直に受け止めることができなかったのです。でもイエス様の話を最後まで聞いているならば、殺されて終わりではなく「三日後によみがえらなければならない」と言っているのです。つまり、最終的には勝利がやってくるのです。けれども、イエス様の弟子たちでさえも、イエス様がよみがえられた後まで、この言葉の意味を悟ることができなかったのです。 続きを読む ・説教 マルコの福音書8章31節-9章1節「弟子となるためには」

・説教 マルコの福音書8章27-30節「ペテロの信仰告白」

2026.01.18

内山光生

するとイエスは、彼らにお尋ねになった。「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。」ペテロがイエスに答えた。「あなたはキリストです。」  

マルコ8章29節

序論

 今日の箇所では、ペテロが信仰告白をしています。ペテロはイエス様の問いかけに対して「あなたはキリストです。」と答えたのです。この告白は模範的な解答と言えるのです。その点においては大いに評価ができるのです。けれども、この時点においてペテロが心の中で思っていたキリストというイメージとイエス様の本当の姿との間には、大きなギャップがあったのです。

 つまり、イエス様が何のために地上世界に来られたのかについては、ペテロは何も分かっていなかったのです。しかしながら、前回の箇所において、目の見えない人が2段階に分けて完全に見えるようにされていったように、ペテロを始め他の弟子たちも、最終的にはイエス様がどういうお方なのかをはっきりと理解できるように変えられていくのです。

 今の時点では、ペテロにしても他の弟子たちにしても、何も分かっていないのは確かな事です。しかし、その後、どうなっていくのかを踏まえて今日の箇所を見ていきましょう。

I イエスは誰かについての人々の考え(27~28節)

 ではまず27節から見ていきます。

 イエス様と弟子たちは、この直前には、ガリラヤ湖の北側に位置する漁師が多く住んでいる村、ベツサイダにいました。その後、北の方に向かって行き、ヘルモン山のふもとにあるピリポ・カイサリアに進んで行ったのです。

 当時のピリポ・カイサリアという町は、ローマ皇帝が神としてあがめられたり、更には異教の神々を信じる人々が大勢いたと言われています。つまり、偶像の神々に満ちた町だったのです。ですから、伝道したとしてもなかなか人々が心を開きにくい、そういう地域だったと考えられます。

 けれども、イエス様は敢えて、その町に向かっていったのです。そして、その途中、とても重要な問いかけをしたのでした。「人々はわたしをだれだと言っていますか。」と。 続きを読む ・説教 マルコの福音書8章27-30節「ペテロの信仰告白」

・説教 マルコの福音書8章11-21節「弟子たちが悟ることを期待したイエス」

2025.11.23

内山光生

イエスは言われた。「まだ悟らないのですか。」  

マルコ8章21節

序論

 今日は、一年に一度の子ども祝福式礼拝です。イエス・キリストが子どもたちを愛し、祝福されたように、子どもたちが神様から祝福を受ける存在だということを確認することができればと願います。また、大人の方々も、子どもたちを喜んで受け入れ、また、愛のある言葉をかけて頂けると幸いです。

 さて、今日の箇所では、主イエスの弟子たちが、イエス様がどういうお方なのかを悟ることができていなかった事が記されています。それで、イエス様の口から少しばかり厳しい言葉が出ているのです。けれども、イエス様の願いは、弟子たちがイエス様がどういうお方なのかを悟るようになる事であって、そのことを考えるとき、イエス様の言葉が愛に基づく発言だと言えるのです。

 イエス様が弟子たち一人ひとりの事を心から愛していたのは明らかなことです。そういう前提があって、弟子たちもイエス様を心から慕っていたのです。そのような人間関係が成立していたゆえに、多少厳しめの発言であっても、弟子たちは、イエス様の言葉を受け止めることができたのです。

 私自身、子どもの頃に、しばしば親に叱られた事を思い出すのです。叱られた時、自分が良くないことをした事を自覚し、それなりに反省するのですが、翌日、また同じ過ちをする。そんな事を何度も何度も、いや何十回も繰り返していたのを思い出すのです。一方、自分が親となった時、今度は子どもを叱る立場へと変わりました。子どもを愛する気持ちがあるのは当然なのですが、子どもが問題を起こす時に、感情が揺れ動くのです。そんな時、見て見ぬふりをするという方法があります。しかし、そのままの状態で大人になったならば、まるでモンスターのような、迷惑をかける人間になりかねない。それで、言うべきことは言わざるを得ない。そんな事を繰り返していくのです。

 人間は立場が変わると、ようやく、自分自身が何者なのかについて気がつくようになります。つまり、叱られる側にいる時は、「なんでそんなに私を責めてくるの。」と相手に対する不平不満な感情が出てくるのですが、一方、叱る側に立つ時、「どうして、あの人は、自分の問題行動を変えることができないのか。」と相手が変わろうとしない事に苛立ちを覚えるのです。

 私自身が子ども時代に親から叱られていた時、「納得できない、もっと優しく言ってほしい」と思うことがありましたが、親の立場になって、ようやく、子どもの頃の自分が、いかに親の言うことを聞かない人間だったのか気づかされ、それを注意してくれた親に感謝を覚えるようになったのです。

 ところで、イエス・キリストは、完全に聖いお方であり、全く罪を犯しませんでした。けれども、弟子たちが、ご自身が伝えようとしている事を悟っていない事で、厳しく接しておられます。これは、あくまでも、弟子たちを愛していて、そして、福音がどういう意味なのかを悟ってほしいがゆえの言動だということを心にとめておきたいのです。 続きを読む ・説教 マルコの福音書8章11-21節「弟子たちが悟ることを期待したイエス」

・説教 マルコの福音書8章1-10節「七つのパン」

2025.11.16

内山光生

すると、イエスは群衆に地面に座るように命じられた。それから七つのパンを取り、感謝の祈りをささげてからそれを裂き、配るようにと弟子たちにお与えになった。弟子たちはそれを群衆に配った。  

マルコ8章6節

序論

 今日の箇所に書かれている出来事は、少し前に記されていた「五つのパンと二匹の魚」と似たような内容となっています。だから、ある人は「これは前の出来事と同じではないか。」と感じるかもしれないのです。そして、「この話は知っているから、軽く流し読みをすればいい。」と考えるのです。ある人々にとっては、同じような内容が繰り返されると、くどいと感じ、興味深く読み進めていくのが難しくなるというのです。

 ですから、似たような内容が続くと、軽く流し読みをしてしまう人が出てくるのです。一方、説教を語る側の立場からすれば、同じような内容が書かれている聖書箇所から説教の準備を進めていく時に、どのような気持ちが出てくるのでしょうか。

 率直に言うと、私自身、「これは以前の箇所と似たような内容だから、何を語ればいいかを見つけ出すために苦労するだろうな。」と感じるのです。それで、いつもよりも慎重にその聖書箇所の内容を見ていく事となるのです。つまり、より一層、何度も何度も読み返す作業が必要になってくるのです。そうしないと、何を語ればいいかが分からなくなるからです。

 さて、聖書の中で似たような内容が出てきた時に、どのように解釈していけばいいかのコツがあります。それは「なぜ同じような出来事が記されているのだろうか。」と疑問に思いつつも、「きっと、それなりの理由があるに違いない。」と考えるのです。そして、そこに書かれている内容の意図が何であるかを考えていくのです。すると、今回の箇所の場合、何かを強調するために、敢えて、似たような内容が記されていることに気づかされるのです。

 結論から言いますと、この奇跡がマルコの福音書に記録されている理由は、主イエスの弟子たちが「イエス様には奇跡を行なう力がある。こんな奇跡を行なうことができるのは神様だからだ。」ということを悟っていなかった事を伝える、そういう意図があるのです。

 イエス様がまことの神様だということをなかなか悟ることができないこの現実は、主イエスの弟子たちに限った事ではありません。つまり、どの時代に生きた人々であっても、しかも、神様のみわざを直接、体験していたとしても、すぐに「イエス様って、本当に偉大な力があるお方だ。」ということを悟ることができるとは限らないのです。

 人々の心というのは、簡単には変わらない。どうしても、自分の中にある常識によって物事を判断してしまう。そういう性質があります。だから、本当の意味で聖書の言っていることを理解するまでに時間がかかる事があるのです。

 しかしながら、聖霊が働く時、「あの出来事は、こういう意味があったんだ。神様って本当に私を導いて下さっているんだ。」ということに気づかされるのです。そのような事を何度も繰り返していくうちに、神様に対する信頼関係が深められていくのです。 続きを読む ・説教 マルコの福音書8章1-10節「七つのパン」

・説教 マルコの福音書7章31-37節「エパタ」

2025.10.19

内山光生

そして天を見上げ、深く息をして、その人に「エパタ」、すなわち「開け」と言われた。すると、すぐに彼の耳が開き、舌のもつれが解け、はっきりと話せるようになった。  

マルコ7章34~35節

序論

 先週、久しぶりに本巣の方にある谷汲温泉に行きました。岐阜県には、評判の良い温泉が幾つもありますが、谷汲温泉は私が好きな温泉の一つです。夏の間は、シャワーで済ませていた事が多かったのですが、久しぶりにゆっくりと温泉に浸かると、身体と心が癒される気持ちとなりました。

 別の話ですが、数か月前から私は毎日、足裏マッサージをしていました。もう20年以上前に買ったマッサージ機ですが、ずいぶんお世話になっていて、愛着を持っていました。ところが、先日、突然、その器械が壊れてしまったのでした。とても残念に思いました。けれども、20年以上も用いることができたので、十分に役割を果たしてくれたと感謝しています。と同時に、新たなマッサージ機が必要なので、良い物が手に入るよう神様に祈っています。

 さて今日の箇所は、イエス様による癒しがなされた出来事が記されています。また、結構、有名な箇所なので内容自体は知っている人が多いかと思います。その中にあって、聖書が私たちに伝えようとしている事が何なのかを考えていきたいと思います。

I 耳が聞こえず口の聞けない人が連れてこられる(31~32節)

 31節から見ていきます。

 前回の場面は、ツロの地方、すなわち、ガリラヤ地方よりも北西に位置する異邦人の町が舞台となっていました。イエス様とその弟子たちは、恐らく、ツロの地方で短い期間ですが休息を取るために滞在していたと思われます。

 そして、休息の時が終わると、イエス様とその弟子たちは、再び、宣教活動の拠点となっているガリラヤ湖の方に戻って来られたのです。その地はイエス様の活動拠点ですから、すぐに「イエス様が戻ってこられた」とのうわさが広げられ、そして、大勢の人がイエス様の元にやってきたのではないかと推測できるのです。そういう状況の中で、32節にあるように「耳が聞こえず、口のきけない人」が連れてこられたのでした。

 この人は、目で見ることはできるのですが、しかし、人々が言っていることを自分の耳で聞くことができませんでした。また、自分で話すこともできませんでした。それで、この人の事を助けてあげたいと思った人々によって、イエス様のところに連れてこられたのです。ここに、人々の愛のある行動を垣間見ることができるのです。自分のためではなく、困っている人、苦しんでいる人を助けてあげたい、そういう心を持っている方がおられたのです。

 この人を連れてきた人々は「イエス様ならば、治すことができる」と確信していたのでしょう。事実、今までにイエス様の元に連れてこられた人々は、皆、癒されたのでした。また、前回の箇所に記されている出来事では、イエス様はその場にいない人であっても、その苦しみを取り除くことができるお方だということが示されています。ところが、今回の癒しのみわざは、前回のパターンとは対照的な方法が取られたのです。すなわち、イエス様は助けが必要な人に直接、手を触れてくださり、祈りをささげつつ、癒しのみわざをなしていくのです。 続きを読む ・説教 マルコの福音書7章31-37節「エパタ」

・説教 マルコの福音書7章24-30節「女性の娘を助けたイエス」

2025.10.12

内山光生

そこでイエスは言われた。「そこまで言うのなら、家に帰りなさい。悪霊はあなたの娘から出て行きました。」  

マルコ7章29節

序論

 昨日は、当教会で韓国の賛美宣教団オンギジャンイのコンサートがもたれ、すばらしいひと時を持つことができました。個人的な思い出となりますが、今から25年以上前に大垣のルーテル教会を会場に行なわれたオンギジャンイのコンサートに参加した事があり、その頃は割と韓国語での賛美が多かったように記憶しているのですが、今回は日本語での賛美がほとんどで、また、特別に日本人に馴染みのある歌も歌っていただき、心に染みるコンサートとなりました。

 さて、今日の箇所は、前回までの箇所から大幅に舞台が変わっていきます。

I ツロの地方に行かれた主イエス(24節)

 24節から順番に見ていきます。

イエス様とその弟子たちは、今までにガリラヤ地方やユダヤ地方を中心に宣教活動を繰り広げてきました。それらの地域では、一部の町を除いて、多くの人々に受け入れてもらえました。けれども、イエス様と弟子たちが、休みを取ることができない程に忙しくなってしまいました。それで、なんとかして弟子たちと共にリフレッシュする時間が必要だと考えたのでしょう。

 イエス様の取った行動は、ツロの地方に行くという事でした。ツロというのは、ユダヤ人以外の民族、すなわち、異邦人が中心の町で、旧約聖書の時代から知られている町の一つです。ガリラヤ湖から見ると、北西の位置にあり、港町であり、かつて木材の輸出で栄えた時代もありました。けれども、良い材木が取れなくなると、漁師として生計を立てる人が増えたと言われています。聖書の中では、ツロに加えてシドンという町が出てきています。ですから、ツロとシドンをセットで覚えておられる方もおられるでしょう。共に地中海沿いの町なので、聖書の後ろにある地図を見るとすぐに見つけることができる場所です。

 さて、先ほどお伝えしたようにイエス様と弟子たちが、ツロの地方に行かれたのは、休息を取るためであって、その地方の人々に積極的に福音を伝えるためではありませんでした。だから、24節では、「だれにも知られたくないと思っておられた」と書かれているのです。

 普段、多くの人々と接する仕事をしている方の中には、休暇の時こそは、あまり人がいない静かな場所で過ごしたい、そう考えておられる方もおられるかと思います。それで、多少遠い場所であっても、自分がお気に入りの場所に行ってリラックスする時間を持とうとするのです。私も、最近減りましたが、休暇となると、どちらかというと人がたくさん集まる場所よりも、人が少ない公園を散歩する方が落ち着くと感じるのです。

 同じように、イエス様はツロの地方に行けば、自分のもとにやってくる人があまりいないのではないかと考えたのです。ところが、その予想に反して、ガリラヤから離れたツロの地方にまで、イエス様のうわさが広められていたのでした。この地方の人々は、どうやらすでにガリラヤやユダヤの地方でうわさになっている人物がいることを知っていたようです。そして、その中には、イエス様の顔を知っている人もいたのでしょうか。あるいは、雰囲気からして、あのうわさの人物に違いないとさとられたのでしょうか。どのような事だったのかは、はっきりした事は分かりませんが、結果的には、「自分たちの町にイエス様がおられる」そんなうわさが広まってしまい、イエス様たちは、もはや、隠れていることができなくなってしまったのでした。 続きを読む ・説教 マルコの福音書7章24-30節「女性の娘を助けたイエス」

・説教 マルコの福音書7章14-23節「人から出てくるもの」

2025.09.21

内山光生

イエスはまた言われた。「人から出て来るもの、それが人を汚すのです。…」  

マルコの福音書7章20節

序論

 猛暑が続いた長い夏でしたが、ようやく涼しくなってきました。朝起きて、家の外に出ると半袖では寒いと感じるようになり、秋だなと実感しております。だいぶ先の行事だと思っていた芥見教会のチャペルコンサートも、数週間後に迫ってきました。先週の木曜日と金曜日に新聞折り込みでチラシが配られているそうなので、チラシを見て教会に足を運ぶ人が起こされることを祈っていきたいと思います。

 さて、前回の箇所では律法学者やパリサイ人たちがイエス様の元にやってきて、イエス様の弟子たちがユダヤ人のしきたりを破って、きよめの儀式を行なっていないことを指摘しました。一方、イエス様は、彼らの問題点を指摘していくのです。その流れの中で、今度は、イエス様が群衆に対して大切な事を教えられました。

 今日の箇所の内容は、読めば理解できるかと思います。けれども、イエス様が言われたことを真剣に思い巡らしていくならば、自分自身の問題と向き合うこととなります。いや、そうなるようにと聖書は私たちを導こうとしています。

 ですから、ある意味、今日の箇所は「厳しい内容」と言えるかもしれません。私たちがイエス・キリストが示した福音を受け入れるためには、自分自身の問題と向き合うことを避けて通ることができないのです。けれども、自分こそが罪人なんだと自覚出来た人は、イエス様の十字架の愛がどれ程大きいかに気づかされるのです。その結果、イエス様がなぜ十字架にかかられたのか、その意味が分かるようになるのです。その結果、「イエス様こそまことの救い主だ」と告白する事ができるようになるのです。また、すでにイエス様を信じている人々は、自分の罪がイエス様に赦されていることに感謝を覚えつつ、十字架には私たちの罪をきよめる力があることに目を向けていきましょう。 続きを読む ・説教 マルコの福音書7章14-23節「人から出てくるもの」