2025 年 5 月 18 日

・説教 マルコの福音書6章1-6節「郷里の人々のつまずき」

Filed under: 内山光生師,礼拝説教 — susumu @ 06:51

2025.05.18

内山光生

イエスは彼らに言われた。「預言者が敬われないのは、自分の郷里、親族、家族の間だけです。」  マルコの福音書6章4節

序論

 今日の説教題は「郷里の人々のつまずき」です。聖書の中には「つまずき」という言葉が出てきますが、聖書を初めて読む人にとっては、どういう意味なのかが分かりづらいとの意見があるという事を知り、私はそのことについて何年がかりかで思い巡らしていました。けれども、辞書などを調べたりする訳でもなく、ただ時が過ぎ去っていきました。

 それで、今回、説教の準備をする際に、つまずきについて辞書で調べてみました。分かった事を整理すると、一般的な意味でのつまずきは二つに分類できると。一つは「文字通りのつまずき」で、歩いている時に石につまずいたといった感じで用いられます。もう一つは「比喩的な表現としてのつまずき」です。この場合、「人生につまずいた」といった感じで用いられます。そしてその意味は「人生に行き詰った」ということを指しています。ですから、比喩的な意味としてのつまずきの場合、別の言い方を付け加えることによって自分の言わんとしていることがきちんと伝わりやすいと解説されていました。

 しばしばクリスチャンの間で「誰かにつまずいた」と言った用いられ方をすることがあります。しかし、厳密に言うと、このような用い方は一般的な日本語としてはあまり使われていない表現です。クリスチャン独特の表現だと言えるかもしれません。ただ、言葉というのは時代によって変化するものなので、一概に「それは本来の用いられ方と違う」と指摘するのもナンセンスなのかもしれません。けれども、私自身、聖書で用いられている「つまずき」がどういう意味なのかをきちんと整理しておきたいという思いが出てきましたので、早速、聖書の色々な箇所を調べたり、ギリシア語や英語の聖書を調べてみました。

 分かった事は、日本語の聖書は一緒くたに「つまずき」と訳されているけれども、英語の場合は、文脈によって表現が変えられているということでした。具体的な事については、後で説明しますが、一つ言えることは、日本語の聖書で「つまずき」と訳されている聖書箇所については、英語の聖書で読んだ方が理解しやすいのではないか、ということです。

 聖書の中での「つまずき」という言葉は、大きく二つに分けることができます。一つは、今回の箇所のように「イエス様に対して人々がつまずいた場合」です。もう一つが、「誰かが誰かをつまずかせる場合」です。この二つは日本語では同じ「つまずき」と訳されていますが、しかし、先ほどお伝えしたように英語の聖書では、その文脈を踏まえた適切な訳となっています。

 今回の箇所について、どう訳せば分かりやすいかと言うと、「イエスにつまずいた」ではなく、「イエスを拒絶した」あるいは「イエスを疑った」とすればいいのです。それを踏まえると、今回の説教題は、「郷里の人々のつまずき」ではなく「イエスを拒絶した郷里の人々」と置き換えることができるのです。 (続きを読む…)

2025 年 5 月 11 日

・説教 マルコの福音書5章21-24,35-43節「タリタ・クム」

Filed under: 内山光生師,礼拝説教 — susumu @ 09:28

2025.05.11
(母の日)

内山光生

そして、子どもの手を取って言われた。「タリタ、クム。」訳すと、「少女よ、あなたに言う。起きなさい」という意味である。すると、少女はすぐに起き上がり、歩き始めた。彼女は十二歳であった。それを見るや、人々は口もきけないほどに驚いた。  マルコ5章41~42節

序論

 今日は母の日です。母の日について改めて調べた所、どうやら母の日というのは国によって日にちや祝う方法が様々だということが分かりました。日本における母の日というのは、アメリカの習慣を取り入れたことによって一般の人々に広まっていったと記録されています。日本に母の日が取り入れられた当時は、アメリカではカーネーションを贈る習慣がありましたので、それが日本でもそのまま受け入れられていったのです。ですから、今の時代においても母の日となるとホームセンターや花屋さん、そして、スーパーなどにおいてカーネーションが並べられているのを見ることができるのです。

 ところで最近、私はインターネットの情報というのは、必ずしも正しくないということを色々な経験から学んでいましたので、念のため、アメリカにおいてカーネーションを贈るということが今でも普通の事なのかどうかを確認したくなりましたそれで今年の3月頃でしょうか。私はアメリカ人で元宣教師をされていた方に「アメリカでも母の日はカーネーションをプレゼントするのですか。」と聞いてみました。すると、その方からは、少なくともその方が住んでいる地域では、「その人が好きな花をプレゼントする」と返ってきました。どうやら、あちらの方では、色々な考え方を受け入れるという土壌があるようで、皆が同じものをプレゼントされるというのは肌に合わないと考える人が多いというのです。

 これはアメリカに住んでいる人の考え方によるもので、日本全体の考え方とは異なっています。しかし、どちらが正解ということではありません。ただ言えることは、日本においても母の日のプレゼントの内容について様々な方法が出てきている、ということは確かなことだと言えるでしょう。

 さて、今日の聖書箇所は二つの箇所を選びました。その理由は、いきなり35節以降の話から始めても、前回聞いてなかった人や、忘れてしまっている人にとっては唐突に感じてしまうかもしれない。だから、もう一度21~24節に書かれている会堂司ヤイロがイエス様にお願いをした場面を確認した方が良いと考えたからです。

I ヤイロの信仰(21~24節)

 ではさっそく21~24節から見ていきたいと思います。

 会堂司というと、以前の訳では会堂管理人と訳されていましたが、会堂管理人と表現すると、まるで会堂の修繕や掃除をする人のようなイメージが出てきて、権威ある立場だということが分かりづらいと指摘されていました。そこで、新しい訳では会堂司となったのです。会堂司は、ユダヤ人の会堂において、安息日ごとの礼拝に関する責任者です。ですから、会堂司が礼拝で聖書朗読をしたり、聖書の解き明かしをすることがありましたし、会堂司の一存で、誰に聖書の解き明かしをしてもらうかを決めることができたのです。

 それゆえ、会堂司ヤイロは、町に住んでいるユダヤ人の間では、尊敬される立場だったのです。そんなヤイロが、自分の立場に関係なく、イエス様にひれ伏してお願いするのです。「娘が死にかけています。どうかおいでになって、娘の上に手を置いてやってください。」と。

 ヤイロはイエス様が病気を癒すことがおできになるといううわさを聞いていて、それで、今まさに娘には癒しが必要だと考え、必死になってイエス様にすがりついたのです。ここにヤイロの信仰が現されているのです。そして、イエス様は彼の願いを聞き入れ、娘のところに向かおうとされたのです。 (続きを読む…)

2025 年 3 月 23 日

・説教 マルコの福音書5章21-34節「長血の女性」

Filed under: 内山光生師,礼拝説教 — susumu @ 07:58

2025.03.15

内山光生

イエスは彼女に言われた。「娘よ、あなたの信仰があなたを救ったのです。安心して行きなさい。苦しむことなく、健やかでいなさい。」

序論

 今日の箇所から次回の箇所にかけて、イエス様による二つの奇跡が記されています。そして、この二つの共通のテーマは、「信仰による癒し」となっています。人間の力ではどうすることもできない、そういう病にかかって苦しんでいる人が、「イエス様なら癒すことができる」という信仰によって、癒しがなされていく、そういう場面です。また、これらの奇跡は、病気の癒しだけでなく、魂の救いをもたらすことも強調しています。

 この事は、別の聖書箇所に記されている「神様が一方的に救い出して下さる」との教えと矛盾しているかのように思えるかもしれません。けれども、それは強調する部分が異なっているだけであって、私たちがイエス様を信じるようになるかどうかは、やはり、神様による導き、あるいは聖霊の働きがあるかどうかにかかっている、そういう点では、全く同じだと言えるでしょう。
 

I ヤイロの娘のところへ向かう主イエス(21~24節)

 21~24節から順番に見てきます。

 これらの箇所は、次回に詳しく取り扱いますので、簡単に説明していきたいと思います。

 ヤイロという人物が出てきています。この人は会堂司という立場にあります。ユダヤ人の会堂では安息日ごとに礼拝がささげられていましたが、その礼拝に関する責任を任されていた人です。そのヤイロという人が、イエス様の下にやってきて「死にかけている自分の小さな娘を助けてほしい」とお願いをしたのです。

 その願いに応じるために、イエス様はすぐさま、ヤイロの娘のところに向かわれたのです。ところが、その途中で、大勢の群衆がついてきたのでした。

II 長血の病で苦しんでいた女性(25~26節)

 25~26節に進みます。

 イエス様が、ヤイロの娘のところに行かれる途中で、別の出来事が起こりました。長血をわずらっている女性が出てきています。長血というのは女性特有の病であって、血が止まらなくなるという症状があるようです。これが現代医学において、どういう病なのかは専門家の目から見れば幾つかの候補を挙げることができるかもしれません。でも聖書には、具体的な病名までは記されていませんので、あくまでも「血が止まらなくなる病気」と理解しておけば良いでしょう。

 この女性は、12年という長い期間、病で苦しんでいました。その間、いろいろなお医者さんに診てもらったのですが、しかし、医者代がかかるだけであって、治ることはありませんでした。それどころか、かえって悪い状態となっていたのです。

 今の時代では、少なくとも医療が発達している国々においては、このような事はめったに起こらないのではないかと思うのです。一つの病院で原因が分からなかったとしても、別の病院に行く、あるいは、評判の良いお医者さんの下に行けば、何とか治療をしてもらえる、そういう可能性が高いからです。例外的には、いわゆる難病と呼ばれているものだとか、腫瘍が末期的な状態になっている場合は打つ手が無い場合もありますが、そうでない限りは、何とかなるのが今の医学の現状だと思うのです。

 しかしながら、イエス様の時代においては、この長血という病を治すことができるお医者さんが、ほとんどいなかった、そういう時代だったのだと思われます。この女性は、自分にできる限りの事をやりつくしたのです。多くのお医者さんに治してもらうことを期待したが、もう治療してもらうお金も無なってしまった。こうして、病気による苦しみと経済的な苦しみを味わっていたのです。更には、彼女は堂々と多くの人々の前に行くことができない、そういう立場に立たされていました。

 というのも、旧約聖書の教えによれば、「血を流している者は汚れている」とみなされていて、多くの人々の前に出ていくことが禁止されていたからです。今の時代でも、伝染病にかかった人が強制的に隔離されるように、イエス様の時代においても、血が止まらなくなっている人は、人々との距離を置かなければならなかったのです。 (続きを読む…)

2025 年 3 月 16 日

・説教 マルコの福音書5章1-20節「良い知らせを伝えなさい」

Filed under: 内山光生師,礼拝説教 — susumu @ 00:22

2025.03.15

内山光生

しかし、イエスはお許しにならず、彼にこう言われた。「あなたの家、あなたの家族のところに帰りなさい。そして、主があなたに、どんなに大きなことをしてくださったか、どんなにあわれんでくださったかを知らせなさい。」

序論

 今日の箇所は、いつもより長めとなっています。よく知られている出来事ですので、「あっ、この箇所か」と思う方が多いのではないかと思います。全体が長いということもあって、あまり細かい所までは見ていくことができないですが、なるべく丁寧に解説していきたいと思います。

I 汚れた霊につかれた男性(1~5節)

 まず1節から5節を見ていきます。

 イエス様と弟子たちは、ガリラヤ湖を渡って反対側の岸、すなわち、東岸にやってきました。到着した場所はゲラサ人の地と呼ばれていました。その地は、いわゆるユダヤ人ではなく異邦人が住んでいる地域でした。それゆえ、今までに経験した事のないような困難やトラブルが起こる事が予想できたのです。

 ゲラサ人の地においてイエス様と弟子たちを待ち受けていたのは、汚れた霊につかれた人でした。イエス様は、以前にガリラヤ地方において、多くの悪霊で苦しんでいる人々を解放してきました。けれども、今回の場合は、今までとは様子が異なっていました。すなわち、すでにイエス様が助けてきた人々よりも、遥かに状態の悪い人と出会ったのです。その汚れた霊につかれた人は、なんと墓場に住みついていたのです。

 どこの国においてもそうなのですが、墓場というのはさみしい場所であって、その周辺にはあまり人が住まないものです。もちろん、住宅街の一角に墓場がある、そういう場所もあります。また、お寺さんの敷地内に墓があったりしますが、一般的には、墓場の中に住みつく人というのは、めったにいないのです。

 どうやら、この汚れた霊につかれた人は、あまりにも狂暴で誰かに危害を加える危険があったと思われます。それで、人々が自分たちの安全を守るために、無理やりその人を墓場に連れてきたようです。そして、彼に足かせと鎖をつなぐ事によって、隔離しようとしていたのです。ところが、この人は、足かせと鎖をひきちぎって、辺りをうろついていたのです。彼は墓場や山で叫び続け、更には、石で自分のからだを傷つけていたのです。

 周辺の町や村に住んでいる人は、この人の事で頭を悩ませていたと思うのです。いや、当の本人も、苦しんでいたのだと思うのです。叫び続けたり、自分のからだを傷つけるというのは、それを見た人は、なんとも複雑な思いにさせられた事でしょう。一部の心優しい人は、かわいそうにと思って、なんとかして助けてやりたいと思ったかもしれない。しかし、どうやって助ければいいか分からない、そういう問題にぶちあたった事でしょう。一方、多くの人々は、気分が悪くなると感じて、目をそらしたり、近寄ろうとしなかったと思うのです。

 多くの人々は、不気味な雰囲気を漂わせている人を見ると、距離を置いてしまうのです。ですから、誰もこの汚れた霊につかれた人を助けようとしないし、それどころか、彼を見ると、皆、逃げていく、そういった情景がイメージできるのではないでしょうか。一方、この汚れた霊につかれた人は、孤独な状態にたたされていて、精神的に非常に辛い思いとなっていた事でしょう。

 私たちというのは、どうしても自分や自分の家族の身の安全を大切にしようとします。それゆえ、乱暴で大きな声を出している人とは関わろうとしない、そういう態度を取ってしまうのです。それは、しかたがないと言えばしかたがない。しかしながら、神様は、どのような酷い状況に立たされている人であっても、その人の存在を決して忘れていない、そこに気づくことができればと思うのです。 (続きを読む…)

2025 年 3 月 9 日

・説教 マルコの福音書4章35-41節「どうして怖がるのですか」

Filed under: 内山光生師,礼拝説教 — susumu @ 10:21

2025.03.09

内山光生

イエスは彼らに言われた。「どうして怖がるのですか。まだ信仰がないのですか。」

序論

 先月の2月は個人的な事情によって休暇を頂いたので、久しぶりの説教の奉仕となります。まだまだ寒い日が続いていますが、梅の花も咲き始めており春の兆しを感じる事ができるのではないでしょうか。家庭菜園をしている方は、3月上旬前後といえば、じゃがいもを植える時期かと思います。すでに植え付けが終わった方がいるかと思います。私の実家でも2週間程前に、種イモを3キログラム程、植えつけました。家庭で食べる分には十分な収穫が期待できますが、天候が守られ順調に育つように神様にお祈りをしていきたいと思います。

 さて今日から始まる箇所は、前回までとはテーマが異なっています。前回までは、大きなテーマとしてイエス様が「神の国の奥義」について語られていました。そして、今回からはイエス様の行った奇跡を通して「ご自身がどういうお方なのか」を示そうとしています。けれども、どの奇跡も、奇跡そのものに強調点があるのではなく、その奇跡を目撃した人々がどのような反応をしたかがポイントとなっています。

 すなわち、今日の箇所も、単にイエス様がすごい奇跡を行ったという事ではなく、もちろん、すごい奇跡には違いないのですが、ポイントは弟子たちがどういう反応を示したかにあるのです。そのことを通して、今の自分たちの信仰生活にどのように生かしていけばよいかを考えていきましょう。

I 向こう岸へ渡ろうと言われた主イエス(35~36節)

 35~36節に進みます。

 場面は、ガリラヤ湖です。時は夕方と記されています。その日の昼間は、イエス様が群衆を前にして「神の国」についての解き明かしをしていました。そして夕方になった時に、イエス様は弟子たちに対して「向こう岸へ渡ろう」と命じられたのです。

 それに対して弟子たちは、イエス様の言われた事に素直に従ったのです。イエス様の弟子たちの中には、漁師だった人が何人もいました。だから、彼らが自分たちで舟を操作して反対側の岸に移動することは特に難しい事ではなかったのです。

 確かに、夕方になっているので辺りが暗くて前に進むのに苦労するかもしれない事を予期することはできたでしょう。ガリラヤ湖というのは、山に囲まれた地形ということもあって、突然、嵐がやってくる事で知られていました。けれども、プロの漁師たちが舟を漕いでいるので、大丈夫だろうと思っていたのでしょう。というのも、漁師たちは今までの経験から、大きな嵐が来そうだと感じたならば、舟で移動をする前に「イエス様。今は天候が良くないと思います。きっと嵐がやってきますので、舟で移動するのはやめましょう」と言うことができたと思うのです。そういう判断をしていなかった事から考えると、少なくとも、岸から離れる時には「嵐がやってきそうだ」とは思っていなかったのだと推測できるのです。

II 嵐で怯える弟子たち(37~38節)

 37~38節に進みます。

 どれくらい進んだのでしょうか。イエス様と弟子たちが乗っている舟の周辺に、激しい突風が起こったのでした。そして波が襲いかかり舟の中が水でいっぱいになったのでした。繰り返しますが、弟子たちの中には漁師たちがいました。その漁師たちでさえも、恐怖につつまれる程の嵐がやってきたのです。弟子たちは必死になって、舟の中に入ってきた水を外にだそうとしたと思います。また、舟から振り落とされないために必死で何かをつかんでいたかもしれません。一瞬にして、弟子たちとイエス様は命が危険な状態に立たされたのです。

 ところが、イエス様はこの危機的状況の中にあって、舟の端っこで寝ておられたのです。私たち人間の感覚からすれば、このイエス様の姿は、常識ではありえないと言わざるをえないのです。 (続きを読む…)

2025 年 1 月 19 日

・説教 マルコの福音書4章26-34節「からし種」

Filed under: 内山光生師,礼拝説教 — susumu @ 00:33

2025.01.19

内山光生

またイエスは言われた。「神の国はどのようにたとえたらよいでしょうか。どんなたとえで説明できるでしょうか。それはからし種のようなものです。

序論

 先週の木曜日の夜の事です。古川家の家庭集会が終わり無事に自宅に到着し、駐車場に車を駐めようとしたその瞬間、獣のような生き物が車の左側を横切りました。その生き物は、すぐさま身を隠したので、私の方からは姿が見えなくなりました。

 「あれは一体、何なのだろうか。猫ではなく、山に住みついている野生の生き物に違いない」との確信があったのですが、しばらくして、車の前の方を見ると、その生き物がライトに照らされて、顔がはっきりと見えました。正体は「タヌキ」でした。私は驚きと共にこの周辺は様々な野生動物が生息している事を改めて感じ取ることができました。

 そういえば、芥見教会の周辺でも獣が出るという話を聞いた事があったけれど、この地域の山に近い場所に住んでいる方は、似たような経験をしているのかもしれないと思いました。

 さて、今日の箇所には、二つのたとえが記されています。一つ目は「種が育ち実を結ぶ」というたとえで、二つ目は「からし種」のたとえです。いずれについても神の国がどういうものかについてを教えています。

 イエス様の時代に生きていた人々は、神の国について独特のイメージがありました。それは来るべきメシアによって、ローマ帝国による圧迫から解放され、メシアを中心として自分たちによって新しい国を作り出していくんだ。そういう考え方をしていたのです。

 一方、イエス様が人々に伝えようとしている神の国は、そのイメージとは異なっていました。神の国というのは、基本的には目に見えないものです。つまり、イエス様を信じる人々の心の中に存在するものなのです。

 例えば、クリスチャンならば、時々、「神様がこの世界を支配しておられる」という感覚を持つことがあるかと思います。目では見ることができないが、確かに、神様が存在し、この世界のあらゆるものを支配しておられる。あるいは、クリスチャンが二人三人と集まり、神様に礼拝をささげる時、その場所に神様が臨在されると聖書は言っております。それゆえ私たちクリスチャンは「目で見ることができないけれども、心の中で神様が存在する」という事を感じ取ることができる、そういう経験をすることができるのです。

 神の国とは、目で見ることができない、そういう性質があります。けれども、この神の国というのはイエス様を信じているクリスチャン一人ひとりが、神様の教えを大切にした生き方を実践していく時に、目で見える形で現わされていくのです。神様が私たちの心の中に働いて下さり、神様の栄光を現わす事ができるよう助け導いて下さるからです。

 私たちクリスチャンが生きる目的は何でしょうか。色々な答え方があるかと思います。その中の一つに「神様の栄光が現わされるため」と表現することができます。言い換えると、聖霊の助けによって「神様を愛し、隣人を愛する」生活を実践していくことと言えるのです。そのようにして、神の国をこの世界に住んでいるあらゆる人々に対して目に見える形で現わしていくことが、私たちクリスチャンの生きる目的なのです。

 今日の二つのたとえは、この神の国がどういう性質であるのかをそれぞれの角度から説明しています。 (続きを読む…)

2025 年 1 月 12 日

・説教 マルコの福音書4章21-24節「自分が量るその秤」

Filed under: 内山光生師,礼拝説教 — susumu @ 07:12

2025.01.12

内山光生

また彼らに言われた。「聞いていることに注意しなさい。あなたがたは、自分が量るその秤で自分にも量り与えられ、その上に増し加えられます。」

序論

 先週の金曜日の朝、車を動かすために外に出たら、車全体が雪で覆われていました。また、道路の方に目をやると、一面に10センチ程度の雪が積もっているのが分かり、少し驚きました。けれども、私は今までの人生の中で雪国で暮らした経験がありましたので、これぐらいならば車を運転することができると思いました。

 ただ、いざ道路に出てみると、スタッドレスタイヤを装着していると言えども坂道やカーブが多い場所では、幾分、気を使いました。今までの経験上、雪が固まっている場所では、多少ハンドルが取られそうになる事が分かっていたからです。ですから、いつもよりも相当ゆっくりなスピードで坂道を下っていきました。その後、用事が終わって無事に帰ってくることができた時、神様に感謝をささげました。

 一方、私の息子は、雪が積もった事を喜んでいました。そして、一生懸命になって雪だるまを作っていました。私自身の子どもの頃を思い出すと、やはり、雪が積もると楽しい気持ちになったものです。

 このように同じ出来事でも、「車で移動するのが大変だ」と思う人がいる一方、「雪だるまが作れてうれしい」と思う人がいる、人それぞれ自分の置かれている立場によって考え方に違いが出てくるのです。この事は、私たちが聖書を読むうえでも同じような現象が起こります。ある人は、ある聖書箇所に対して、前向きに受け止めることができ、喜びに満たされていく。一方、同じ個所を通して、何も感動しない人もおられる。あるいは、否定的な受け止め方をしてしまう。そういう事が起こってしまうのです。

 今日の説教題は「自分が量るその秤」です。これは聖書を読む時の態度について、どうあるべきかを考えさせられるみことばです。人それぞれ、いろんな状況の中に立たされています。そして、毎日毎日、その状況に変化があります。そういう中で、イエス様の伝えた福音に対して、どのような気持ちで、受け止めようとしているかが問われているのです。

I 明かりのたとえ(21~23節)

 21節と22節を見ていきます。

 この箇所は「明かり」がテーマとなっているたとえです。少しだけ読むと、あのマタイの福音書に書かれている、いわゆる「山上の説教」の教えと似ているように感じる方がおられるかもしれません。イエス様は山上の説教の中で、「あなたがたは世の光です」と宣言されました。つまり、私たちクリスチャンは、不正な事に手を染める人々や犯罪行為を犯す人々が存在するこの世界において、あるいは愛のある人間関係が少なくなっているこの世界において、「神様の子どもとして光輝く存在なんだ」ということを宣言している、そういう教えです。

 ですから、クリスチャンというのはイエス様から受けた光を反射させるかのように、世の中を明るい社会にしていく役割が与えられているのです。神様が私たちの内に働き、光としての役割を果たすことができるよう導いて下さるのです。

 ところが、マルコのこの箇所で語られている「明かりのたとえ」は、マタイに書かれているたとえとは、言わんとしているポイントが異なっています。マルコの方では、「明かり」はイエス様ご自身の事を指しています。あるいは、イエス様が伝えた福音の事を意味しています。このイエス様の福音というのは、一時的に升の下におかれた状態、あるいは、寝台つまりベッドの下に置かれたような状態になっているかもしれません。でも、この福音が隠され続けることはなく、最終的には明らかにされていく、ということを言っているのです。

 少し前の箇所では、種蒔きのたとえの中で、種が「道端」や「岩地」や「茨の中」に落ちたと書かれているように、福音が語られているけれども、聞いている人々の心にその福音が入っていかずに、なかなか信仰を持つようにならない、そういう人々が存在することが示されていました。

 同じように、福音が語られているものの、人々が心を閉ざしているがゆえに、福音がまるで升の下に置かれたような状況になっていたり、あるいは、ベッドの下に置かれているような状態になってしまっている事がある、確かに、そういう人々がいる。しかし、神様は福音が隠されている状態であり続けることを望んでいないので、一時的には心を閉ざしている人々の中からも、福音の本当の意味を悟るようになる人々が出て来るんだ、ということを伝えようとしているのです。 (続きを読む…)

2024 年 12 月 15 日

・説教 マルコの福音書4章10-20節「良い地に蒔かれた者」

Filed under: 内山光生師,礼拝説教 — susumu @ 00:58

2024.12.15

内山光生

良い地に蒔かれたものとは、みことばを聞いて受け入れ、三十倍、六十倍、百倍の実を結ぶ人たちのことです。

序論

 今日の箇所はいわゆる「種まきのたとえ」の解説が記されています。前回の話を簡単にまとめると、ある人が種を蒔くといろんな場所に種が落ちた、と。例えば、道端や岩地や茨の中、そして、この三つの場所に落ちた種はいずれも実を結ぶことができなかった。しかし、良い地に落ちた種は、多くの実を結んだ、と。

 言っている内容自体は、少なくとも当時の人々にとってはイメージしやすく簡単な話に思えるのですが、しかし、その本当の意味については、誰も理解することができなかったのでした。なんとイエス様の弟子たちでさえも、このたとえの意味が分からなかったのです。

 それで今日の箇所においては、イエス様がたとえの意味を解説していくのです。

 最初にお伝えしておきますが、イエス様の解説を読んではっきりと意味が分かった時に、ある人々はまるで自分の事を指摘されているのではないか、と感じるかもしれません。しかし、その時、「自分が責められている」と感じてしまって信仰が揺れ動くとすると、それはイエス様が願っている事とは正反対のことになってしまいます。

 ですから、私たちは聖書の教えをネガティブに受け取るのではなく、むしろ、自分自身の信仰が成長できるようにポジティブに受け止めていくことができればと願います。

I たとえで語られる意味(10~12節)

 では10~12節から順番に見ていきます。

 前回までの場面では、大勢の群衆が集まってイエス様の福音に耳を傾けていた場面です。その後、群衆がいなくなりましたが、イエス様の12弟子に加えて幾人かが残っていたようです。そしてその場にいた人々がイエス様に向かって「種まきのたとえは、どういう意味なのかですか」と尋ねたのでした。

 11節でイエス様は彼らの質問に答えていきました。どうやら今イエス様の目の前にいる人々や弟子たちには「神の国の奥義」が明らかにされているということ、一方、外の人たち、つまり、群衆にはその奥義が明らかにされていないと言うのです。それで、群衆に対してはすべてがたとえで語られているのだ、と。

 どうやらイエス様がたとえを用いて「神の国」について語っているのは、根本的には人々が理解しやすいからという理由ではないようです。そういう事ではなく、「人々が見るには見るが知ることがなく、また、聞くには聞くが悟ることができない、そして、彼らが立ち返って赦されることがないためだ」というのです。

 どういう事でしょうか。イエス様が語られたたとえというのは、イエス様に心を開こうとしていたり、あるいは、イエス様に対する信仰がある人にとっては、その本当の意味を悟ることができる、そういう性質があります。けれども、イエス様に対して心を開いていない人にとっては、そのたとえの解説を聞いたとしても、決して悟ることがない、というのです。

 このことは、イエス様のたとえというのは、イエス様に心を開いている人とそうでない人が明らかにされていく、そういう事が起こる事を意味しています。 (続きを読む…)

2024 年 12 月 8 日

・説教 マルコの福音書4章1-9節「聞く耳のある者」

Filed under: 内山光生師,礼拝説教 — susumu @ 08:04

2024.12.08

内山光生

そしてイエスは言われた。「聞く耳のある者は聞きなさい。」

序論

 イエス・キリストが人々に向かって福音を伝える際に、しばしば「たとえ」が用いられました。たとえによって語るメリットは、人々が自分たちの実際の生活と結びつけて考える事ができることです。また、語られた内容が心に残りやすいという点にあります。少なくともイエス様の時代に生きていた人々にとっては、イエス様が語るたとえを聞いて「あ~、これはそういう場面に違いない、あの話題ならばよく分かる」とうなずくことができたのです。

 一方、21世紀の時代に生きている私たちは、当時の習慣や考え方がなんであったのかをよく理解しないと、イエス様が語ろうとしていた本当の意味がなんであるかが分からなくなるのです。ですから説教を準備する人々は、まず最初に、当時の人々がイエス様のメッセージをどのように受け止めたのかを理解するために色々と調べたりするのです。そして、その上で現代の人々に当てはめると、どのような意味になるのかを考えていくのです。

 確かに、イエス様はたとえで語られる事が多かったです。けれども、このマルコ4章に記されているたとえは、別のたとえと比べると、ある特徴が備わっているのです。それは次回の箇所で取り扱うことになりますが、「たとえの解説」が記されている、ということです。解説付きのたとえ、そういう点において、このいわゆる「種まきのたとえ」は他のたとえと異なっているのです。

 さて、今日の説教題は「聞く耳のある者」とさせて頂きました。4章3節で「よく聞きなさい」と書かれていて、更には9節で「聞く耳のある者は聞きなさい」と記されています。つまり、この1節から9節は全体として「聞くこと」が大きなテーマとなっています。そこで、「聞くこと」がどういうことを示しているのかを考えていきたいと思います。
 

I 舟の上からたとえを話されたイエス様(1~2節)

 では1~2節から見ていきます。

 場面は湖のほとり、すなわち、ガリラヤ湖のほとりです。そこには多くの群衆が集まっていたのでイエス様は、舟に乗って腰を下ろしました。一方、群衆は陸地の方にいました。つまり、イエス様が舟に乗っていて、群衆は陸にいる、そういうスタイルでみことばが語られたのです。 (続きを読む…)

2024 年 10 月 20 日

・説教 マルコの福音書3章31-35節「神の家族」

Filed under: 内山光生師,礼拝説教 — susumu @ 00:53

2024.10.20

内山光生

序論

 今日のテーマは「神の家族」です。まず最初に、一般的な意味での家族について考えてみましょう。家族と一口に言っても、その人の年齢や結婚しているかどうかによって、イメージが変わってくるかと思います。

 私の場合は、家族と言えば、妻と息子のことがまっさきにイメージがわき、続いて、自分の父・母・兄弟姉妹、更には、妻の方の親族関係と続いていきます。その中でも、近隣に住んでいて年に何度も会うことができる人もいれば、遠方のために、めったに会わない人など色々とあるのです。けれども、家族そして親族は、特別なつながりがあって、何かの時に助け合ったり、励まし合ったりすることができるのではないでしょうか。

 一方、家族に関しても、人それぞれ様々な背景があって、家族の絆をあまり感じ取ることができない環境で育った方もおられるかもしれません。いや多くの人々は、外から見てしあわせそうに見えたとしても、実際は、家族関係がうまくいっていない事で悩んだり、苦しんだりしている、そういう現実があるかもしれません。

 では、「神の家族」とはどういう意味なのでしょうか。そのことを今日は、共に考えていきたいと思います。

I 使いの者からの伝言を聞いたイエス様(31~32)

 31、32節から順番に見ていきます。

 31節でイエス様の母と兄弟たちがやって来たとあります。これは、イエス様に対して悪いうわさを聞いたからです。具体的には、イエス様に対して「おかしくなった」と言いふらす人が出てきて、そして、家族としては放っておく事ができなくなり、イエス様を連れ戻そうとしたのです。

 どうやら、イエス様の身内の者たちは、イエス様が何のために福音を伝えているのか、また、イエス様がどういうお方なのかについて理解できていなかったようです。それで、イエス様に対して誤解してしまったのです。イエス様に対して誤解をしているのは、身内の者だけではありません。イエス様の弟子のペテロも、イエス様が味わう「苦しみと死」に関する予告を聞いた時に、すぐに、イエス様の発言を否定しようとした事が福音書に記されています。

 では、どうしてイエス様の身内やイエス様の弟子たちでさえ、イエス様の発言に対して誤解をしてしまったのでしょうか。それは、神様のご計画と神様のみわざというのは、私たち人間の考えとは正反対の方向に進むことがあるからです。それゆえ、今の時代の私たちでさえ、聖書の中のイエス様の発言や行動に対して違和感を感じてしまうことがあるのです。けれども、イエス様が私たちに示そうとしている事は何なのかを、じっくりと考え、思い巡らしていく時に、「あ~、そっか、そういう事を言おうとしているんだ」という事に気づかされるのです。 (続きを読む…)

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