・説教 ローマ人への手紙3章21-26節「示される神の義」
2021.08.29
鴨下直樹
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今日の箇所から、ようやく光が見えてきます。「しかし今や、」とパウロは語るのです。
パウロはこの手紙でひたすら罪の悲惨な姿を描き続けてきました。人間の醜い姿と言ってもいいのかもしれません。人と比較し、自分の方が上にいると考えることで満足し、充足感を得ようとする人間の姿をパウロは描き出してきました。
神学者カール・バルトは1章18節から描き出されるこの部分を「夜」と名づけたという話をしました。この3章20節まで、まさに光を失った人のもがいている姿というのが、語られて来たのです。そして、「義人はいない、一人もいない」という重苦しい宣言のことばまで出て来たのです。
「しかし今や、」とパウロは言うのです。
しかし今や、神の義が示されました。
もちろん、これまでも神の義が語られていました。これまでのところで語られていた「神の義」とは「律法」のことです。神のみこころが、この神の律法の中に記されていたのです。しかし、その神の義を知っていたユダヤ人たちは、その神の義を掲げて、人を裁く物差しとしてきました。それまでの、神の義というのは、正解はこれであるというものでした。そして、この律法をたずさえて、人をさばくことを人はしてきてしまったのです。
今、パラリンピックが行われています。本当に選手の方々の能力というのは毎回驚かされます。近年、差別の問題が大きく取り上げられるようになってきました。それは本当に大きなことだと思います。その一方で、障害と言ってもいろいろなものがあるわけですが、なかなか理解が進まないという現実も確かにあります。どうしても、自分と違うということで、人を下に見てしまうという悲しい現実があるのです。
今、またコロナウィルスの第五波と言われて、緊急事態宣言が出されています。ワクチンを接種したとか、まだしていないとかということでも、いろんな情報が飛び交います。接種を勧める人も良かれと思って勧めますし、接種しないことをお勧めする人も良かれと思ってそれをします。そんな中で、どうしても、出てくるのは自分の判断が最善であるという思いが、見え隠れしてくるわけです。そして、そのことに対して、今全国で、実に多くの方々が苦しんでいます。人間不信になるというようなことまで起こってきています。それぞれに考えがあります。持病があったり、支える必要のある家族がいたりでその考え方が変わってきます。
どんなテーマにしてもそうですが、いろんなものの見方があって、いろんな立場や状況の違いがあるということが、今の時ほどクローズアップされた時代は過去になかったかもしれません。
人と比較して、自分を支える。それが人を裁く罪の姿です。そして、このことは、信仰の中でも起こってくるわけです。
今や、神の義が示されたとパウロは言います。新しいものの見方が示されたというのです。それは、律法とは関係ない義だと言うのです。律法とは関係のない義ということは、何が正しいことなのかという判断基準ではない、あたらしい義の基準が、今、示されているのだということです。
しかし今や、律法とは関わりなく、律法と預言者たちの書によって証しされて、神の義が示されました。
この21節の「示されている」という言葉は、「啓示されている」という意味です。そして、旧約聖書である律法と預言者たちによって証されてきたことでもあると、パウロはここで言います。
それは何かというと22節です。
すなわち、イエス・キリストを信じることによって、信じるすべての人に与えられる神の義です。そこには差別はありません。
ここで示された、啓示された新しい神の義というものによれば、差別は生まれなくなると、パウロは言っているのです。2021年の現代になっても、差別はなかなか無くなりません。それは、残念なことですが、この21節で語られている「神の義」ということが、なかなか受け止められていないからです。
「イエス・キリストを信じることによって、信じるすべての人に与えられる神の義」ということは、主イエスを信じるものは、人を差別しなくなるということです。人を裁くことがなくなるということです。比較することをやめるということです。
それはどうしたらできるようになるのかというと、ここにあるように、主イエスを信じるということです。主イエスだけをより頼むことによって可能になるということです。
私たちは、少しでも高い所にあるゴールを目指して歩んでいる。できるだけ高みに上り詰めたいと思うのです。信仰でもそのように考えるのです。主イエスの十字架は高い頂の頂上にそびえたっていて、必死にその頂上を目指してチャレンジする。何度も何度も、チャレンジするのです。
子どもの頃、よく遊んだ公園に、富士山をかたどった山が作られている遊具がありました。コンクリートで作られた山で滑り台のようになっているのですが、みんなでその頂上むけて走るのです。小さいうちはなかなか登り切れないのです。そういう子どものためには後ろ側に階段があって、一応上へは行けるんです。その山のてっぺんから滑り台のようにすべって遊ぶという遊具です。
そのてっぺんを目指して走る遊具遊びをしているかのように、私たちも、高い目標を作って、その目標に到達するのが信仰であるかのように考えるわけです。そして、何度も失敗して、まだ自分は頂上にはたどり着けない。まだ自分は幼い信仰なのだと、周りと比較して考え、がっかりしたりもするのです。
でも、実は十字架はその山の一番上に立っているのではないのです。主イエスの十字架が立っているのは、スタートラインである地面のところです。
高みに到達して、そこからの景色を楽しむというのが、信仰の道ではないのです。誰でも立つことのできるその地面のところに主イエスはおられるのに、みんな勝手に上を目指すんです。人より上に行きたがるんです。人より正しい者でありたがるんです。そうすれば気持ちがいいし、それができるようになった自分のことを誇らしく思えるようになるのです。
でも、神の義というのは、そういうものではないとここで言っているのです。そこには差別がない。みな同じところにいるからそう言えるのです。
竹森満佐一牧師のローマ書講解説教が三冊出ています。私がこのローマ書の説教をするために必ず読む本の一冊は、この竹森先生の本です。その中にこんなことが書かれていました。
差別と言った時に、中に、自分の罪は人よりももっと深い罪だから、自分は他の人と同じように赦されるとは思えない、自分はもっと特別な罪びとなのだからと考える人もいるというのです。そういう罪ということでも差別をつけたがることがあると言っています。
少しでも人よりも上にいたいと考えるように、自分は人よりも特別に悪いのだと考える場合もある。けれども、そこにも差別はないということでもあるのだと竹森先生はいうのです。
この指摘は私には目からうろこの指摘なのですが、そういうことも起こり得るのだと思うのです。
「すべての人は罪を犯して、神の栄光を受けることができず、」と23節にあります。これが、福音のスタートラインです。みな一律に神の前に罪を犯している。すべてがここから始まるのです。罪についても差別がないのと同じように、神の義が与えられるということにも差別はないのです。
先週、田中牧師が十字架の七つの言葉というタイトルで、とても素晴らしい説教をしてくださいました。主イエスは、あの十字架の上で、私たちの叫びを叫んでくださったのです。
「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」
キリストご自身が、わたしたちの贖いの代価として神に支払われたのです。罪を犯して神の御前に立つことすら許されない者が、イエス・キリストの贖いの犠牲によって、私たちの罪が赦されたのだというのです。
25節にこう記されています。
神はこの方を、信仰によって受けるべき、血による宥めのささげ物として公に示されました。
この「公に示されました」という言葉は、もう一つの理解があって「計画された」という翻訳もまたできる言葉です。神はそのように計画されていたのだという意味と、その計画を公にされたという二つの理解があります。私は、この二つの理解がともにとても重要だと思っています。
神は、主イエスを宥めのささげ物とするのだと、計画されていたというのです。
神の御前に犠牲をささげるというのが、旧約聖書の幕屋時代から続く、礼拝のささげ方でした。これは、自分の飼っている子羊の中でも最上のものをささげて、全焼のいけにえとして、その香りを神に楽しんでいただくことを通して、神との関係を回復するためになされたものでした。
これは、旧約聖書の人々はみんな知っていることですけれども、このささげ物は、自分の所有物の中でも一番可愛い仔を神の前にささげるわけです。それだけでも、胸が締め付けられそうになるのですが、その子羊の頭の上に、自分で手を置いて、その後、その羊をほふる作業は、祭司たちがするのではなくて、全部、自分の手でしなければなりません。自分の飼っているまだ幼い子羊を自分の手で屠るというのは涙なしにはできないものです。そのようにして、自分の一番大事なものを神にお捧げすることを通して、自分は神に信頼している、神を本当に大事に思っているということを表明してきたわけです。
そこで、考えるのは、この主イエスが宥めのささげ物となったということは、そのささげものを準備したのは、罪人である私たちの方ではなくて、神の方だということです。これは、本当は、私たちが罪を赦してもらうためにささげなければならないもののはずです。それを、神の方が用意してくれて、それによって、私たちの罪が赦されるという方法を、神はあらかじめ決めておられたというのです。そして、その方法を、公にされた。それが、主イエスの十字架です。
それが、この24節の言葉の意味です。
神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いを通して、値なしに義と認められるからです。
私たちが肝心な犠牲の代価を支払うのではなくて、神の方でその犠牲のささげものを備えてくださった。そのことによって、お金を、代価を支払うこと無しに、私たちは神の御前で義と認められるのだというのです。
なぜ、そんなことを神がなさるのか。それが、25節の後半部分から26節に記されています。
ご自分の義を明らかにされるためです。神は忍耐をもって、これまで犯されてきた罪を見逃してこられたのです。すなわち、ご自分が義であり、イエスを信じる者を義と認める方であることを示すため、今この時に、ご自分の義を明らかにされたのです。
この神の、人の罪を赦す救済方法を通して示されるのは、神の義しさなのだというのです。ずーっと、人の罪を神は忍耐し続けて来られました。そして、もう我慢ならんと言って、ブチ切れてしまうような神なのではなくて、このお方はその神の義の性質を貫かれるお方として、このことが示されるために、自分で犠牲を準備して、この神の救いのみわざを信じて受け入れる者を、神は義とする。そのことを通して、この神は本当に義なるお方なのだということが示されるのだというのです。
この神の中に貫かれているのは、私たち人間に対する愛です。私たちは、人を見下して、自分が少しでも高い所に立つことで、いい気になりたいと思うような者なのです。けれども、神はこのような人を裁いてしまう醜い人間の姿を忍耐してこられた。それでも、私たちにこの神の心が分かるはずだと信じて、イエス・キリストをこの世界に遣わして、神の御心を示されたのです。そして、誰もたどり着けないような高みで、主イエスは十字架にかけられたのではなくて、私たちのその傍らで、すぐ横で十字架にかけられたのです。
何度も失敗する人間。すぐに誇ろうとする人間。それでもいいよ。全然立派な者になんかなれなくてもいい。私のこの気持ちを受け取ってくれるならそれで充分。そのためにわたしはあなたのためになら、一番大事なものだって犠牲にするから、わたしのところに戻っておいで。そう言ってくださるのが、私たちの神なのです。
私たちの神には潔癖さなどというものは存在しないのです。こうでなければならないというような高尚な人物を求めているわけでもない。反対に、自分のような特別に悪い者なんだから、私には特別な、他の人とは違った方法でないと、私は助け出せませんよということでもない。あなたのすぐ傍らにわたしがいる。いつもいる。わたしが全部あなたのために必要なことをするから、このわたしの心を知って欲しい、受け取って欲しい。
今日の箇所はそういう、神から私たちへのプロポーズのような言葉だと言えるのです。
この21節から26節。これが新約聖書の中心です。ここに、神の心が、神の義が示されているのです。
しかし今や、律法とは関わりなく、律法と預言者たちの書によって証しされて、神の義が示されました。すなわち、イエス・キリストを信じることによって、信じるすべての人に与えられる神の義です。そこに差別はありません。すべての人は罪を犯して、神の栄光を受けることができず、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いを通して、価なしに義と認められるからです。
このパウロが記した、私たちへの神のプロポーズの言葉を、ぜひ私たちも受け取りたいのです。
お祈りをいたします。