2019 年 5 月 26 日

・説教 マルコの福音書14章27-42節「ゲツセマネの祈り」

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2019.05.26

鴨下 直樹

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 さて、今日の聖書は最初のところに、主イエスが弟子たちに「あなたがたはみな、つまずきます」と語られた言葉からはじまっています。この前には「わたしと一緒に食事をしている者が、わたしを裏切ります」という言葉があったばかりです。そして、この後には、弟子のペテロに対して「まさに、今夜、鶏が二度鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言います。」という言葉さえ語りかけておられるのです。

 「裏切る」、「つまずく」そして、「知らないと言う」こういう言葉が続けざまに語られているというのは、よほどの出来事がこの後起こるという予兆です。空気を読むまでもありません。明らかに、これから何かが起ころうとしているのは間違いないのです。そういう独特な雰囲気の中、弟子たちは何を感じ取ったのでしょう。ペテロをはじめとする弟子たちはこう答えました。31節。

「たとえ、ご一緒に死ななければならないとしても、あなたを知らないなどとは決して申しません。」

これは、ペテロの言葉ですけれども、「皆も同じように言った」とありますから、みな同じ気持ちであったわけです。

 ペテロをはじめとする弟子たちには、固い覚悟の姿が見られます。「たとえ、一緒に死ななければならないとしても」という言葉がそのことを物語っています。一緒に死ぬことになるのかもしれない。これからそういうことが起こるのかもしれない。でも、私たちの心は主と一緒です。そういう覚悟が弟子たちにはあるのです。

 もし、映画か何かであればここのところは感動的な音楽が流れて、見ている人たちがみな感動する場面です。赤穂浪士の討ち入り前のような場面、あるいは城を包囲されている中で、殿と一緒に討ち死する覚悟でございますというような場面です。そのように描いてもよい、弟子たちの固い心の結束と、主イエスに対する忠誠がここにはあるのです。

 そして、場面は次の舞台へと切り替わります。場所はゲツセマネです。このゲツセマネにやって来て、主イエスが祈る場面です。そこで、主イエスは弟子たちにこう言われたのです。32節から34節です。

「わたしが祈っている間、ここに座っていなさい。」そして、ペテロ、ヤコブ、ヨハネを一緒に連れて行かれた。イエスは深く悩み、もだえ始め、彼らに言われた。「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです。ここにいて、目を覚ましていなさい。」

 おそらく、この時の三人の弟子たちは初めて、主イエスの弱り果てている姿を目の当たりにします。悩み、もだえ、ここに一緒にいてほしいと主イエスの方から弟子たちに願われたのです。こんなに苦しそうな主イエスのお姿を、弟子たちはこれまで見たことがありませんでした。それは、私たちも同様です。この祈りがゲツセマネの祈りと言われる主イエスの祈りのお姿です。

 かつて、宗教改革者ルターは、この主イエスのお姿を見て、「このお方ほど、死を恐れた人はいなかった」と言いました。

 このゲツセマネの祈りのところを読みますと、驚くほどに気弱な主イエスの姿が示されているのです。「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです。ここにいて、目を覚ましていなさい。」と三人の弟子に語りかけている主イエスのお姿があります。
 
 死を恐れる。これが、主イエスのお姿なのです。

 私たちはこういう箇所を読むと、少し不思議な気がします。例えば、この後の多くの主イエスの弟子たちは立派な殉教の死を遂げていきます。私たちはどこかで、死を恐れないで生きる人の姿こそが、立派な信仰者の姿ではないかという思いがあると思うのです。もちろん、これは信仰者に限ったことにではなくて、死の恐怖に怯えることなく安らかな死を迎える人は、幸いな人生であったと考えるところがあると思います。立派な人というのは、そういうものだという気持ちが私たちの中にはあるのです。

 死を恐れるという思いは、誰の中にもあると思います。自分が死んだらどうなるのか。それでも、毎日が同じように進んでいくということを考えるとたまらなく悲しい気持ちになるという経験は誰にもあるでしょう。最初にそういうことに苦しみ始めるのは学生の頃からでしょうか。もちろん、個人差がありますから何とも言えませんが、死ということを意識し始めるわけです。

 けれども、主イエスが普通の私たちと同じように死を目の当たりにして苦しんでおられるのだとすると、少し私たちは戸惑うのです。主イエスは一体何を恐れているというのでしょう。
主イエスのこのゲツセマネでの祈りの内容が36節に記されています。

「アバ、父よ、あなたは何でもおできになります。どうか、この杯をわたしから取り去ってください。しかし、わたのが望むことではなく、あなたがお望みになることが行われますように。」

 この祈りの中に、主イエスが何を恐れておられたのかが記されています。つまり、「どうか、この杯をわたしから取り去ってください」という祈りの中に、主イエスが恐れておられる死の内容があるわけです。この時、主イエスが飲まなければならない杯とは何でしょう。それは、人のすべての罪を身に負って、神に裁かれる、神からその罪の裁きを受け取るということです。主イエスが恐れておられるのは、罪人として死ぬということです。罪人として神の裁きの前に立つということを恐れているのです。その杯は飲みたくないと思っておられるのです。

 いつも、神と共に歩んでおられるお方が、神から罪の責めを受けて裁かれるということは、耐えられないほどの恐ろしさだと言っているのです。そうして受け取る死を、誰が勇敢に立ち向かっていけるというのでしょう。そこには、一ミリの希望も残されていない完全なる闇だけが広がっているのです。主イエスの恐れる死、それは命が終わってしまうという意味での死ではないのです。そうではなく、神との関係における死といったらいいでしょうか。罪人として神から切り離されるということ、それを主イエスは恐れておられるのです。そこには完全なる神との断絶があるのです。しかし、この主イエスの恐れは、私たちの理解からはあまりにも遠い出来事としてあるので、私たちはこの主イエスの苦しみをよく理解することができないのです。

 そして、興味深いことに、この時主イエスはこれほどまでに打ちのめされ、弱り切っておられ、一緒にいてほしい、一緒にいてあなたも神に祈ってほしいと、主イエスの方からこの三人の弟子たちに願われました。先ほど、死にまでも立ち向かっていくと答えたばかりの弟子たちは、まさにここでその絆を示すことのできる機会が訪れたわけです。けれども、この主イエスの期待に応えられたのかというと、驚くことに、まったく、完全に何の役にも立たない者としての姿がここに描き出されているのです。

 この弟子たちの姿を見ると、私たちは完全に打ちのめされてしまうのです。どれほど、固い決心をしていたとしても、どれほどこの弱り切ったお方の前にいたとしても、人の意志などというものは、何の役にも立たないのだということを目にして、私たちはもう自分に絶望するしかできなくなってしまうのです。

 そして、きっと私たちはこのことを毎週、毎週、味わい続けているわけです。礼拝に出て、み言葉を聞き、悔い改める。聖餐を受ける前に悔い改めの祈りをささげる。今度こそはきちんとしよう、今週こそは、神の御前に正しくあろうと決意をするのです。けれども、私たちはその決意もむなしく、また完全な罪びととして、次の日曜日に、主の前に立つことしかできないのです。

 私たちは、この弟子たちの姿をしっかりと心に刻む必要があります。どれほど、高い目標があったとしても、崇高な願いであったとしても、どれほど聖い生き方を願い求めたとしても、私たちは罪人なのだということを、私たちは心に刻み付けなければならないのです。

 改革者カルヴァンはこのことを、「全的堕落」と言いました。人間は、完全に堕落しきっていると言うのです。罪というのは、そういうことなのです。自分の中に良いと思えるものを何も見出すことができないというのです。

 もし、私たちがそれほどまでに、どうすることもできないほど、圧倒的なダメ人間だとすると、私たちは自分に絶望することしかありません。けれども、実はこの絶望こそが大事なのです。私たちに「神よ。どうしてですか」と祈る心を引き起こさせるのです。なぜなら、この私たち自身の無力さを知ることを通してのみ、完全な神の恵みに目を向けることのできる土台となるからです。私たちの神は、この完全に堕落しているどうしようもない罪人を、神の御業によって完全に救うことがおできになるお方なのです。

 主イエスのこのゲツセマネの祈りにおいて、主イエスはこの時に、この二つの存在の前に直面させられています。ひとつは、「アバ、父よ。あなたは何でもおできになります」と祈ることのできる、完全な主のお姿です。そのお方を仰ぎ見ながら、祈りをささげているのです。主はそのお方の前に、自分の弱さをすべて注ぎ出して祈りをささげているのです。

 そして、主イエスが後ろを振り返ると、これほどまでに恐れ、もだえておられる主の、もっとも近いはずの仲間たち、主の愛しておられる弟子たちの姿があるのです。このもっとも大事な時に、何も感じることができないで、眠り込んでしまっているどうしようもない彼らの姿を見ておられるのです。

 主イエスはこの時、完全に聖なるお方の前で祈りながら、まったく役に立たない者たちの中で祈っておられるのです。

 主イエスは孤独です。主イエスがこれまで身近においてともに歩んできた弟子たち、主イエスが愛し、主イエスのことを愛そうとしている人であったとしても、何も理解することができない者の中で、祈っているのだという事を突き付けられているのです。この主イエスの孤独を、人は理解することができません。それゆえに、主イエスの悲しみはいっそう深いものとなるのです。

 その時、主イエスは眠っている弟子たちにこう言われました。38節です。

「誘惑に陥らないように、目を覚まして祈っていなさい。霊は燃えていても肉は弱いのです。」

 これまでの訳では「心は燃えていても」となっていたところが、この新改訳2017では「霊は燃えていても」と翻訳が変わりました。これは大切なことです。この「霊」という言葉になったことで、自分の意志を示す「心」ではないということがはっきりしました。自分の意志だけの問題ではないのです。「霊が燃えている」というのは、神によって燃やされているということです。けれども、そういう良い状態であったとしても「肉」つまり、私たちの生まれながらの性質は、この霊の状態に逆らう性質があるということです。この弱い肉に支配され、祈る力のない弟子たちなのです。これほど大事なときであっても、祈ることのできない弟子の弱い姿がここには記されています。

 この時の出来事は、きっと弟子たちの心にこの後、何度となく自責の念として浮かんで来たに違いないのです。主イエスが一緒に祈ってほしいと、三度もチャンスを与えてくださったのに、こんなに大事な時に、主イエスとともに苦しみを共有して祈ることができなかったのです。きっとこの時のことを、後々まで、何度も何度も問い返したに違いないのです。そして、その度に、この時語られた主の言葉を思い返したのだと思うのです。

 私は思うのです。なぜ、この時主イエスはこのような弱いご自分の姿を弟子たちにお示しになられたのかと。主イエスは、本当に弟子たちに期待しておられたのでしょうか。弟子たちの支えを必要としていたのでしょうか。もちろん、それは「そうだ」とも言えると思いますが、それ以外の目的があったとも言えるのだと思うのです。

 もう、20年以上も前のことです。妻が名古屋の神学塾の牧師婦人コースで学んでいた時のことです。この教会の前任の浅野先生の奥様の留津子さんとこんな会話をしてきたといいう話をしました。もう妻も覚えていないかもしれません。留津子さんは「私、もう主人に期待しないことにしたの」と言われたのだそうです。私は最初この言葉を聞いた時に「この夫婦、大丈夫かな?」と思ったのですが、すぐにこの言葉の意味が理解できました。人に期待をするということは、良いことのように思えるわけですけれども、そこには自分の願っているようになって欲しいという、自分の側の願いがあります。それは、相手への信頼という姿でもありますが、自分の要求という面も強いわけです。「相手に期待することをやめる」というのは、同時に「自分の願っているような見方で人を見ることを止める」という覚悟でもあるわけです。

 私はこの話を聞いた時に、色々なことが一気に府に落ちました。先ほどの、カルヴァンの全的堕落ということもそうですけれども、私たちが罪人であるということは、人の期待に応える能力すら持ち合わせていないということです。もちろん、私たちには何かをする力が与えられていますけれども、それはすべて主によって与えられたものです。主がその必要なものすべてを満たしてくださるわけで、そう考えるなら、すべてのことは感謝だと思うことができるようになるわけです。

 自分の無力を知るということは、神の恵みの大きさを知るということです。主から、私たちは大きなものを受け取っていますから、その主から受けたものに私たちは精いっぱい応えていくのです。けれども、その人の応答は、その人自身が決断し、行うものです。それなのに、ほかの人がそれを自分の思うようにコントロールしようとするのは、人を支配したいという心の表れになってしまうのです。

 ここで、主イエスがご自分の弱さを示されながら、祈って欲しいと願われたのは、この弟子たちが自分の弱さを知ると同時に、それを心からしたいと思うように主によって変えられてはじめて、それが可能になるということなのです。

 まもなく、ペンテコステを迎えます。復活の主と出会った弟子たちは、この時から比べれば、信じられないほど変えられていきます。しかし、そう変えられるにはまだまだ、主からの訓練が必要なのです。

 今日の最後の箇所である42節にこうあります。

「立ちなさい。さあ、行こう。見なさい。私を裏切る者が近くに来ています。」

 今の今まで悩みながら祈っていた人の言葉とは思えないような力強い言葉がここに記されています。主イエスは自ら、この十字架の道へ歩み出して行かれたのです。それは、嫌々だけれども結果としてそうなったということではなく、この祈りの結果として、神の御思いに応える覚悟を持たれたということです。

 この世の支配者は主イエスに対して何かをすることはできないのです。主イエスはローマが強大なので恐れたのでも、死そのものを恐れておられるのでもないということが、ここからも明らかになるのです。主イエスは、ただ人の罪を負い、神から裁かれることを恐れられたのです。人を恐れているのでも、大きな目の前にある障害を恐れておられるのでもないのです。だから、ここで力強く立ち上がって、目の前に迫る者を、恐れているのではないのだということをこうして示されたのです。

 この主のお姿を見る時、私たちは何を恐れるべきかが明らかとなるのです。弱い者であっても、主が恵みを示してくださいます。死が迫ろうとも、敵が迫ろうとも、私たちもまた、この主のお姿を見上げつつ、この主の戦いに加わることができるのです。そして、私たちのうちに豊かな恵みを示してくださるお方によって、私たちはどんな大きな障害を前にしていても、力強く歩み出して行くことのできる者へと変えられていくのです。

お祈りをいたします。

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