・説教 ルカの福音書13章22-30節「主イエスという門をくぐって」
2024.9.1
鴨下直樹
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9月に入りました。私たちの教会では夏休みの期間、「信徒交流会」という名前で、毎週行っている水曜と木曜の祈祷会の時間に、信徒の方々に証しや、聖書研究や、さまざまな発題をしていただいております。今年は、7月の後半から始まり、10回10名の方が発題してくださいました。毎週、とても多くの方が参加してくださって、水曜と木曜の参加者を合わせると毎週20人以上の方の参加がありました。
今、笠松教会と兼牧をしていることもあって、合同で祈祷会をしますと笠松教会の方がびっくりします。どうしてこんなに大勢の参加があるのかと質問が出るのです。一番の理由は楽しいからだと思うのです。発題してくださる方の内容に興味があるということもありますし、また、参加者の皆さんが思いのままに発題されるその発言を聞くのが面白い、あるいは、その発言に対して自分たちの思いを好きなように話せるから楽しいということでもあると思います。みなさん、かなりリラックスして参加してくださっていますから、時折びっくりするような発言を耳にすることもあります。それも含めて楽しいのだと思うのです。
そう考えながら、今日の聖書を読みますと主イエスの周りにいる人々も同じようであったことが分かります。今日の、聖書箇所であるルカの13章23節にこんなことが書かれています。
すると、ある人が言った。「主よ、救われる人は少ないのですか。」
この質問をした「ある人」というのが弟子なのか群衆だったのかも分かりませんが、かなり直球な質問です。「救われる人は少ないのですか?」こういう質問を主イエスにできるというのも、やはり何でも言える環境であったのだろうということが分かります。
この12章から主イエスは群衆や、弟子たちといろんな話をされています。この前のところでは安息日に癒しの出来事をなさって、そこで「神の国」の話をされたばかりです。神の国というのは、小さいもの、弱いものであっても、その人から神は大きなみ業をなさるのだという話をされたばかりでした。そんな中で、「主よ、救われる人は少ないのですか?」という問いかけがあったのです。
私は、祈祷会の時でもそうなのですが、いろいろな質問が出て来る時にどうしてその質問がでてくるのかという、その背後にある思いに目をとめることが大切だと考えています。そうでないと、質問の意図が読めなくて、質問をした人の願っていることと違うことを答えてしまうことになってしまうからです。
この場合、質問をした人は何を思ってこういう質問をしたのでしょうか。考えられる一つの可能性は、「自分は神の国に入れてもらえないのではないか?」と考えたのではないかということです。こういう考え方は、私たちでもよく理解できることだと思います。自分の信仰と他の人の信仰を比較する時に、こういう思いというのはどうしても出てきてしまうのです。
この出来事の前に主イエスは、「神の国はからし種に似ている」と言われました。あるいは「パン種に似ている」とも言われました。小さなものであっても、そこから大きな実りをもたらすと言われた主イエスの話を聞いて、ひょっとして自分の中には「からし種」ほどの信仰もないのではないかという不安を抱いた可能性があるのではないかと思うのです。
主イエスの周りには弟子たちがいます。そして、他にも大勢の群衆たちがいます。そういう人々を前にして、自分のようなものまでも神の国に入れてもらえるのだろうかという不安を持つ人がいたとしても不思議ではありません。
あるいは、別の考えを持つ人もあったかもしれません。主イエスはエルサレムに向かって旅を続けておられます。当然、群衆がみなエルサレムまでついていくことはできませんから、1人去り、2人去りというのを見ていた可能性もあります。そして、自分もエルサレムまで付いていくことはできない。主イエスに最後まで付き添える人でなければ救われないのだろうかという考えを抱く人もいたと思うのです。そう考えると救われる人は多くない。最後まで付いていける人だけが救われるのだろうか、その多くは道半ばで振り落とされてしまうのではないかと考えて「救われる人は少ないのですか?」と聞いた可能性も考えられます。
その質問に対して主イエスは何とお答えになられたのでしょうか。私たちは、こういう質問が出る時に期待する答えとしては、「いいえ、安心してください。ちゃんと私が一緒にいてあなたの信仰がなくならないように守ってあげますから、大船に乗った気持ちでいたらいいです」というような答えを期待するものです。ところが、ここで主イエスが答えられたのは、私たちのそのような期待をひっくり返すような答えでした。
少し、長い答えを主イエスはなさいますから、丁寧に見ていきたいと思います。まず、24節でこう言われました。
狭い門から入るように努めなさい。あなたがたに言いますが、多くの人が、入ろうとしても入れなくなるからです。
まず、主イエスが言われたのは「狭き門ですよ」ということです。「多くの人が入ろうとしても入れなくなる」とさえ言われます。つまり、「誰でも入れるような広い門ではありませんよ」と言われるのです。しかも「努めなさい」とあります。以前の新改訳聖書では「努力して」と訳されていました。珍しい言葉ですが、ここでは「努力すること」「努めること」が要求されています。この「努めなさい」という言葉は、パウロがよく使った言葉ですが、共観福音書ではここでだけ使われているギリシャ語です。
パウロはこの言葉をどういう時に使っていたかと言うと、第一コリントの9章24節から25節に「競技場で走る人たちはみな走っても、賞を受けるのは一人だけだということを、あなたがたは知らないのですか。ですから、あなたがたも賞を得られるように走りなさい。競技をする人は、あらゆることについて節制します。彼らは朽ちる冠を受けるためにそうするのですが、私たちは朽ちない冠を受けるためにそうするのです。」という言葉があります。
これは、この夏オリンピックを見たばかりですから、私たちでもよく分かります。ここでパウロがいう「競技をする」という言葉が、このルカの福音書の「努めて」という言葉と同じ言葉なのです。あるいは、第一テモテ6章12節では「信仰の戦いを立派に戦い、永遠のいのちを獲得しなさい。」という言葉があります。ここでは同じ言葉が「戦う」と訳されています。ここからも分かるように、この「努める」と言う言葉は、とても強い言葉で、「努力する」とか「戦う」と訳す言葉だということがわかると思います。
主イエスはここで「救われるためには努力すること、戦うことが必要不可欠だ」と言っておられます。これは、これまでのイメージと少し違った印象を受ける言葉かもしれません。私たちは、オリンピック選手たちがどれほど過酷な練習を積み重ねて、メダルを獲得するのかを見てきました。今回、日本の選手たちが過去最高のメダル数を取ったという話も耳にしています。けれども、その反面で水泳だとか、柔道だとか、これまでたくさんメダルを取ってきた種目の選手たちがあまりメダルを取れなかったことも知っています。他の国々の選手たちも、日夜努力に励んでいます。
今はパラリンピックをやっています。台風10号の陰に隠れてしまってほとんどニュースで流れていないのがとても残念です。パラリンピックの選手たちなどは、尚更、まさにとてつもない努力を積み重ねて、競技に励みます。救われるためにそういう戦いがあると主イエスは言われるのです。
そこまで言われると、私たちは反対に首を傾げたくなるかもしれません。「いや、そこまで大変なことをやってませんよ」と言いたくなる気持ちがあるわけです。
主イエスはこの24節から「救われる人は少ないのですか」との問いかけに答えているわけですが、よく読んでみると、この質問に対する直接的な答えはなされていません。本当であれば、どのくらいかを答える必要があります。多いのか、少ないのか。少ないのであればどのくらい少ないのかを答える必要があります。けれども、主イエスは「狭き門ですよ」と答えられたわけです。まぁこれでもある程度の答えになっているとも言えます。つまり、「多くはない」ということになるわけです。ところがこの次の25節になると「狭き門」どころの騒ぎではないのです。25節。
家の主人が立ち上がって、戸を閉めてしまってから、あなたがたが外に立って戸をたたき始め、「ご主人様、開けてください」と言っても、主人は、「おまえたちがどこの者か、私は知らない」と答えるでしょう。
この25節では狭い門ではなくて、もうその門は閉じられている、閉め出されているのだと言うのですから、驚きです。ここまで来ると多いか少ないのかではなくて、ほとんどダメという答えでさえあります。
すると、これまで主イエスと一緒に食事をし、旅についてきた人たちは言うかもしれない。「私たちは一緒に食事した仲ですよね。私のことは知ってますよね? 私は大丈夫ですよね? 入れてくださいよ」と。けれども、この主人は、「おまえたちがどこの者か、私は知らない。不義を行う者たち、みな私から離れて行け。」と言うのだと続けて言われました。
つまり、主イエスと一緒にご飯を食べてきました、楽しく周りでお話しして、旅に付いて来ましたというだけでは、神の国の中に入れないのだと明確にお答えになられたのです。ここまで来ると、私たちも安心した顔で聞いていられなくなります。
「やばい・・・ダメかもしれん・・・」
さて、主イエスはここで何を言っておられるのでしょうか? このことが分からないと、私たちも扉の外にたったままで中に入れないということになってしまいかねません。
そのことを理解するために主イエスのお答えの27節をよく理解する必要があります。主イエスはこの27節で「不義を行う者たち」と言われています。「不義」というのは「不正」とか「悪事」とも訳されています。神のみ前で正しく行わないことです。この不義を捨て去ることを主はここでお求めになられているのです。不義を抱えたままで、神のみ前に出すことのできないものを抱えたままで、神の国に入ることはできないと言うのです。私たちの罪、不義は、すべて神のみ前で明らかにされるのです。
では、その不義とは何でしょうか。それは神の愛の思い、神が無条件で私たちを受け入れてくださるというこの神の思いを拒絶することです。けれども私たちは、キリストの思いを受け止めることが求められます。
今日の説教題を「イエスという門をくぐって」としました。よく、何かの道を進むために、「入門する」という言い方をします。そういう意味では私たちもキリストの道に至るために、門をくぐるわけです。その門は「キリストそのもの」、主イエスという門をくぐる必要があります。ということは、主イエスの有り様を私たちは受け入れるところからしか何も始まりません。そのためにはまず「不義」を捨てることになるわけです。
主イエスの道を進んでいくためには、葛藤が、努力が必要となります。その戦いというのは主イエスを見続けるという戦いです。
門をくぐったらもう安心というわけにはいきません。私たちは常に戦いがあるからです。そういう意味ではこのキリストの道には「安全地帯」というものは存在しないのです。
もう何年も前のことですが、岐阜市には市電が走っていました。「チンチン電車」とか「路面電車」と呼んでいたあれです。岐阜市の街中の道路を車と電車が並行して走っていました。今となっては懐かしい光景です。しかもこの時の路面電車の駅は道のどまんなかにありましたから、そこには安全地帯というブロック塀で囲まれた、車が入って来られないエリアがありました。私が、「安全地帯」というのはあのイメージです。あれがないと危なくてしょうがないのですが、安全地帯の中にいれば子どもも安心できるわけです。
子どものころ私は昆虫が好きで、夏休みの自由研究は毎年昆虫採集を提出していました。そんな私はあの岐阜城の下にある「名和昆虫博物館」にいくのが大好きでした。そこにたどり着くためには、路面電車を乗り継いで行く必要があったわけです。5人兄弟の家ですから、子どもたちをどこかに連れていくのは、親からしてみれば大変なことで、路面電車なんていうのは、まさに一歩間違って、子どもの誰かが安全地帯の外に飛び出そうものならすぐ真横に車が走っていましたから、親は気が気ではなかったはずです。でも、子どもの頃の私は、それも含めて楽しかったわけです。
だんだん話が横道に逸れていきそうですが、キリスト者の歩みにはこのような安全地帯がありません。私たちは常に迫り来るものに対して備えをしていなければならないのです。それが、まさにここでいう「努める」「努力する」「戦う」と言われていることです。
私たちの周りには、私たちをキリストの愛から引き離そうとするものが満ち溢れています。いつも、キリストが私たちの防波堤となって身をまもってくださるというイメージではないのです。私たちの主は、私たちを子ども扱いするお方ではなくて、私たちを一人の人格として尊重してくださるお方です。危ないところを通るのを含めて、私たちを信用してくださっているのです。ですから、しょっちゅうひやひやすることが起こります。時には、「あーやってしまったなー」なんていうことも起こるのです。それが、私たちに与えられている自由です。主は、私たちがその信仰の戦いを戦い抜けると信じてくださっているのです。
主イエスはここで続く28節と29節でこう言われました。
アブラハムやイサクやヤコブ、またすべての預言者たちが神の国に入っているのに、自分たちは外に放り出されているのを知って、そこで泣いて歯ぎしりするのです。人々が東からも西からも、また南からも北からも来て、神の国で食卓に着きます。
ここまで来ると、主イエスに質問をした人はアブラハムやイサクのことを知っている人だということが分かってきます。少なくとも質問をした人は異邦人ではありません。そして、ここで主イエスは「神の国には他の土地の人々があらゆるところから招かれて来て、食卓に着く」と言っておられます。ということは、この神の国に入ることのできる人は、少ない人だとも言っていないことになります。むしろ、いろんな人が招かれているわけです。となると主イエスがここで話しておられるのは救われる人が多いか少ないかという質問に答えることよりも、大事なことはやはり、「不義を捨て去る」ことが鍵なのだということが分かります。
主イエスが願っておられるのは、神の愛の心を受け止めて、神の前に真実に生きるものとなることです。そこでは、私たちはいつもびくびくしながら自分は救われていないのではないかと怯えながら生きるわけではありません。安全地帯はなくとも、そこで主イエスに信頼されて生きることができるのです。
主イエスがここで答えておられる思いは何かというと、わたしを通れば、誰でも救われるのですよということです。主イエスが、この救いに至る道の門なのです。そして、私たちはその道を歩むのですが、安全地帯はありませんがいつも傍に主イエスが共にいてくださいますから、危ないと思ったら手を握ってくださっている主に身を任せたら良いのです。
この門は確かに狭き門です。この門の名はイエス・キリストと言います。私たちはここで主イエス・キリストの生き方を倣って生きることが期待されていますから、そこでは当然、主イエスによって示された神の愛に生きることになります。神の愛を知って、私たちも神を愛し、隣人を愛して生きる。この愛の道を歩み続けるのです。キリストの愛の道こそが、私たちの生きる道なのです。
お祈りをいたしましょう。