・説教 マルコの福音書3章1-6節「善か悪か」
2024.9.8
内山光生
序論
前回の箇所は安息日に関することがテーマとなっていました。すなわち、イエス様の弟子たちが安息日に麦の穂を摘んだことが律法に違反するのか、しないのか、が問われていました。それに対して、イエス様は「安息日は人のために設けられた」と答えました。更には、「人の子は安息日にも主です。」と宣言したのです。これらの言葉は、パリサイ人たちから反発をまねく内容でした。
とはいえパリサイ人たちは、すぐに反論してきた訳ではありません。ただ、彼らの心の中が怒りの感情で支配されていて、チャンスがあれば主イエスを訴えようという気持ちが出てきていたのです。
今日の箇所は、前回の内容とつながりがあることを理解しながら順番にみていきましょう。
I 主イエスを訴えようとする人々(1~2)
1~2節に進みます。
主イエスは安息日ごとに、どこかの会堂に行って聖書の解き明かしをしていました。1節に記されている会堂がどこの町にあったのかは、はっきりとは分かりません。可能性としてはカペナウムだったかもしれません。あるいは別の町だったかもしれません。
そこでイエス様は、病人を癒すことが目的で会堂に入った訳ではありません。でも、そこには「片手の萎えた人」がいたのです。この片手の萎えた人は、恐らく、イエス様の評判を聞いていて、自分の手を治してもらえるかもしれないと期待していたのだと思われます。
イエス様は苦しんでいる人々に愛の御手を差し伸べるお方です。そういうことを知っていたパリサイ人たちは、主イエスが安息日にこの片手の萎えた人を治すかどうかをじっと見ていたのです。彼らは、主イエスが安息日にしてはならないことをするかどうかを見極めようとしていたのです。つまり、もし主イエスが、片手の萎えた人を治すならば、すぐにでも「あなたは安息日にしてはならないことをしている」と訴えようとしていたのです。
誰かに対して初めから悪い感情を持っていたり、偏見があるならば、その人からどのようなメッセージを聞いたとしても、心に届かない、そういうものです。パリサイ人たちは、すでにイエス様の言われた言葉に対して疑問を抱いていました。というのも、イエス様の安息日に対する考え方と自分たちの考え方に大きな違いがあったからです。
パリサイ人たちは、自分たちは先祖から伝えられた教えを忠実に守っていて正しい考え方をしていると確信していました。
例えば、「安息日は働いてはいけない」「収穫作業をしてはいけない」、「病人を治療することも禁止されている」と理解していました。一方、イエス様は、弟子たちがお腹をすかして安息日に麦の穂を摘んだ時に、弟子たちは間違った事をしていないと考えていました。また、安息日であっても病人を治しても良いと考えていました。
当時のパリサイ人たちは、律法学者の中でも一番権威がある立場であり、イスラエルの人々に指導する権限が与えられていました。それにも関わらず、どこの誰から教えを受けたのかも分からないイエスという人物が、勝手な事を言って人々を惑わしている。なんてひどいことをしているのだ。この状況をそのまま放置しておく訳にはいかない。そのような感じで主イエスの事を自分たちの敵のように考えたのです。
それに対して、イエス様はパリサイ人たちが心の中で何を考えているかを見抜いておられました。多くの人々は、相手が自分に対して悪い感情を抱いているのに気づいたならば、その人たちを怒らせないように穏便に事を進めようとするかもしれません。例えば、パリサイ人たちの前では、片手の萎えた人を治すことはせずに、後でこっそり、その人の手を治す、そういう方法を取ることができたのではないか。そうすれば、パイサイ人たちから訴えられなくてすむのに、、、と思うのです。ところが、イエス様は相手の状況を察知していながらも、敢えて、自分のしようとしている事をやめようとしなかったのです。
II 人々に問いかける主イエス(3~4)
3~4節に進みます。
イエス様は、片手の萎えた人に対して「真ん中に立ちなさい」と言われました。このような事をすれば、会堂にいる人が皆、彼に注目をすることは目に見えています。しかし、イエス様は、隠すのではなくむしろ、これから起こることが会堂にいる人すべてに分かるようにしたのです。
その上で、パリサイ人たちに質問をしたのです。「安息日に律法にかなっているのは、善を行うことですか、それとも悪を行うことですか。」と。
この質問に対する常識的な答えは、言うまでもなく「善を行うこと」です。けれども、パリサイ人たちは答えようとはしませんでした。彼らはもしも「善を行うこと」と答えるならば、これからイエス様がしようとしている病人を癒す、その行いが正当化されてしまうと気づいたのでしょう。
パリサイ人たちは、当時の社会で、宗教的な知識がある賢い人々でした。誰よりも聖書の教えを知っていました。けれども、誰でも簡単に答えることができる質問に対して沈黙したのです。彼らほど賢い人間ならば、答えが分からないはずがない、しかし、答えようとしない、そこにパリサイ人たちの心の闇が見え隠れするのです。
多くの人々は、一旦、思い込むと簡単には考え方が変わらない、そういう経験をしている事でしょう。パリサイ人たちは、恐らく幼少期から旧約聖書の暗記に励んで、更には、数多くの教えを学んできた人たちです。そんな人たちが、自分たちの信じている教えに反する事を主張し、そして、自分たちが間違っていると思っている事を堂々とと行っている主イエスに対して心を開く事は、容易なことではなかったのです。当たり前と言えば当たり前かもしれません。
私たちはパリサイ人たちの気持ちを理解できるかもしれません。しかしながら、パリサイ人たちは簡単に答えられるはずの質問に対して沈黙しました。その点は、決して褒められた事ではなかったと思うのです。
キリスト教の歴史を学んでいくと、昔の人の感覚からすれば常識と思われる考え方であっても、今の時代では、正反対の考え方をするという事はよくある事です。例えば、この日本でも昭和40年前後の教会では、「映画に行くことは禁止」というのが常識となっていた時代があったようです。さすがに、私が子どもの頃は、それは昔話となっていましたが、当時としては常識だと考えられていたのです。また、携帯電話の普及率が上がったのは、恐らく1995年以降だと思いますが、その頃、ある教会の指導者は、「携帯電話は持たない方が良い、あれは悪魔の道具だ」と本気で言っていた事がありました。しかし、数年後には、その方は、自分の発言が間違っていたと謝罪をする有様でした。
どうやら、人は思い込みが激しいと、聖書が言わんとしている事を履き違えてしまうのです。そして、細かい事柄について「何々してはいけない、あれは罪だ」という思考回路に陥ってしまうのです。そういう事が歴史的に何度も繰り返されてきたのです。そして、一旦、極端な考え方に陥った人々は、自分の意見と違う考えを聞いたとしても、考え方を改めようとするのが難しくなってしまうのです。
誰であれ、クリスチャンになる前の生活習慣や考え方の影響を受けています。そして、その中には聖書の教えと食い違うものが含まれていると思います。でも、私たちは、聖書を読んでいく中で、あるいは、礼拝のメッセージの中で、自分の考え方と聖書の教えに食い違いがあることに気づかされたならば、その時、「あ~自分は正しくない考え方をしていた。」と受け止めれば良いのです。
すぐに、考え方を変えるのが難しければ、神様に祈れば良いのです。「自分の考え方が変えられるように。また、あなたのみこころを実行できるようにして下さい」と。
それでも私たちは、すぐに考え方が変えられる時とそうでない時があります。そういう中にあっても、いつまでも自分の考え方を変えようとしない態度をとり続けるのではなく、神様が喜ぶ人生を歩ませてくださいと祈ることができたら、その人の信仰はすばらしい、と思うのです。
ひとつ気をつけないといけないことがあります。たとえ聖書の教えであって、それ自体が間違っていなかったとしても、誰かから、まるで律法主義者のように強引に考え方を変えさせられようとする時に、信仰生活が苦しいものへと変わり果てていく、そういう危険があるという事です。人は誰かから強要されていると感じる時、抵抗したいという気持ちが出てくるものです。誰かから、あからさまに罪を指摘される時に、怒りや苛立ちを感じるものです。ですから、信仰歴の長い方や聖書の知識がたくさんある人は、初心者の方に圧迫を与えないように注意する必要があるのです。つまり、愛を持って関わりを持つことが大切なのです。
一方、避けるべき事があります。それは聖霊が自分の心に働きかけていることに気づいていながらも、頑なに自分の考えを変えようとしないことです。私たちは、人間の言葉に反発することはよくある事です。夫婦が互いに自分の伴侶に反発することは、皆、経験することです。子どもが親に反抗することも、決していいことではないにしろ、普通に起こっていることです。しかしながら、聖霊が語っている事に気づいていながら故意に反発し続けるならば、それは霊的に非常に危険な状態に陥っている、と言えるでしょう。ただ、私たちは恐れすぎる必要はありません。なぜなら、私たちが本当に神様を愛し、イエス様を信じているならば、聖霊の語りかけに応答することができるように神が導いて下さるからです。
III 片手の萎えた人を癒した主イエス(5)
5節に進みます。イエス様はパリサイ人たちが質問に答えなかった事に対して怒りを表しました。
彼らは答えが分かっているにも関わらず、答えようとしなかったからです。いや、もしも答えるなれば自分たちが訴えようとしているイエス様を訴えることができなくなる、だから、何を言わないという態度にでたのでしょう。
イエス様は、パリサイ人たちが自分たちの過ちに気づくことを願っていました。そして、そのチャンスを与えました。けれども、彼らは頑なであり、そんな彼らの心を見て、嘆き悲しんだのです。
パリサイ人たちは、目の前に立っているお方がどなたなのかに気づいていませんでした。そのお方が聖書の正しい解釈を示しているにも関わらず、受け入れようとしませんでした。その頑なな態度に対して、イエス様は怒りを覚え、嘆き悲しんだのです。
そして、イエス様は自分の行動が正しいことを明らかにするために、片手の萎えた人の手を治そうとしました。イエス様がその人に「手を伸ばしなさい」と言われると、すぐに、その人の手が治ったのでした。
これは片手の萎えた人にとっては、感謝すべき事です。また、彼の友人たちも、イエス様を褒めたたえたと思うのです。あるいは、イエス様に心を開いている人々は、改めてイエス様の偉大さに驚いた事でしょう。
しかしながら、今日の箇所には、イエス様の癒しのみわざに感謝をささげた人の事はいっさい省略されています。それは、手が治った人が喜ばなかったという意味ではありません。そうではなく、マルコが強調しているポイントがそこではないからです。
IV 主イエスを殺害する相談を始めるパリサイ人たち(6)
6節に進みます。
イエス様は、すでにパリサイ人たちの心の中を見抜いていましたので、彼らが怒りを表すことを予想していたと思います。そして、マルコの福音書は、イエス様の宣教活動のかなり早い時点で、パリサイ人たちが「どうやってイエスを殺そうかと相談をし始めた」と記しています。
パリサイ人たちは、自分たちだけでは主イエスを殺すのは難しいと考えたのでしょう。それで「ヘロデ党たち」を仲間に組み入れようと相談したのです。
ヘロデ党たちにとっては、イエス様が安息日に病人を癒したかどうかなんて、どうでもいい内容のはずです。しかしながら、パリサイ人たちは、ヘロデ党の人たちを仲間にするために、イエス様がローマ帝国に反逆しようとしている、といった感じで嘘の情報を流そうとしていたかもしれません。
パリサイ人たちは、すぐにはイエス様を死刑に追いやることはできません。しかし、彼らの怒りと憎しみは、確実に増幅されていくのでした。大変、残念なことです。
まとめ
安息日に善を行うことは、律法にかなっていることです。ですから、安息日であったとしても、病人がいたならば、その人が適切な治療をしてもらうことは善いことなのです。
めったにない話かもしれないですが、たとえ礼拝で何らかの奉仕があたっていたとしても、教会に行く途中で倒れている人がいたならば、その人を助けることは、善いことなのです。
礼拝は、たとえ一人の人が欠けたとしても、プログラムは進むものです。しかし、人の命に関わることは、その時に誰かが助けなければ手遅れになる可能性があるのです。
私たちは、宗教の専門家のような知識を持っていなかったとしても、感覚的に何が善で何が悪かを判断する力を持っています。その感覚で選んだ事柄は、時には、自分たちの守ってきたルールと異なるかもしれません。私たちの常識が、いつも正しいとは限らないからです。
ですから、私たちは普段の自分たちの行っているやり方や方法と異なっていたとしても、それが善であるならば、思い切って実行すれば良いのです。なぜなら、安息日に善を行うことは神のみこころだからです。
お祈りしましょう。