・説教 ルカの福音書14章1-14節「えっ? わたしですか?」
2024.10.27
鴨下直樹
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今、私は笠松教会とこの芥見教会の兼牧をしています。そうすると、芥見教会で礼拝細目を作っているのと同じように、笠松教会でも礼拝細目を作成します。笠松教会では月に2回、小林先生が説教をしてくださるのですが、小林先生の毎回の説教題がとても印象的です。
たとえば今日の小林先生の説教題は「それはどこから?」というタイトルが付いています。毎回の説教タイトルがユニークで、どんな話になるのか興味を抱きます。それで、私も少し真似をしてみまして、今週の説教題は「えっ?私ですか?」としてみました。いつも看板を書いてくださっている方は、いつもと違うタイトルの付け方なので気になったかもしれません。何でこんなタイトルなのかは、おいおい分かってくると思います。
今日の聖書箇所は、ルカの福音書第14章の1節から14節までです。司式者の聖書朗読をお聞きになられて、3つのテーマが語られていることに、皆さん気づかれたと思います。どこで聖書箇所を区切るかというのは、いつも悩むのですが、今日は1節から14節までとしました。場面は、ある安息日の出来事です。この日、主イエスが、パリサイ派の指導者の家に入られて食事をされる場面です。この話は24節まで続いていますが、今日はその途中で一度区切りました。
あまり細かな前置きはしたくないのですが、3つの話をまずは見てみたいと思います。最初の話は1節から6節までです。
主イエスが、安息日の食事の席で、突然、律法学者やパリサイ人たちに、こうお尋ねになられました。3節です。
「安息日に癒やすのは律法にかなっているでしょうか、いないでしょうか」
さて、皆さんなら何とお答えになられるでしょうか? パリサイ人たちや律法学者たちは普段、人々に「安息日には働いてはいけない」と教えている側の人間です。私たちも「安息日の律法」と聞けば、「安息日には労働してはいけない」という教えだと理解していると思います。
では、十戒にはどう書かれていたか、もう一度思い起こしてみたいと思います。出エジプト記の20章8節にこうあります。「安息日を覚えて、これを聖なるものとせよ。」これが、安息日の戒めです。もちろん、仕事をしてはならないということも書かれています。9節以下は「六日間働いて、あなたのすべての仕事をせよ。/七日目は、あなたの神、主の安息である。あなたはいかなる仕事もしてはらない。」と続きます。
確かに「あなたはいかなる仕事もしてはならない。」と書かれているのは間違いありません。そして、「してはならない」という命令の言葉は強い言葉ですから、どうしても、その命令の言葉が人の心の中に強く印象付けられてしまうのかもしれません。主イエスがここでなさったのは、「安息日に癒やすのは律法にかなっているでしょうか」という問いかけです。主イエスが考えさせたいと願っておられるのは「安息日を覚えて、これを聖なるものとせよ。」という神の御心がどこにあるかです。
当時のパリサイ人や律法学者は安息日の戒めを、「労働してはいけない日」と理解していました。もちろん、その考え方は完全に間違いというわけではありません。十戒にそのように記されているからです。けれども、それだけでは正解ではないわけです。安息日の戒めの神の御心はどこにあるのか。それは、まさに、「聖なるものとする」ということをどう理解するかにかかっています。
「聖なるものとする」というのは、「神のものとする」というのが、そもそもの意図です。つまり、「神の望まれることをする」ことです。それは、この日には神のことを特別にすることですから、その中には当然仕事をしないことが重要な位置を占めていました。仕事をするということは、自分たちの都合を優先するという意味だからです。
けれども、神の御心はそれだけではありません。戒めのそもそもの意図は、神を愛し、隣人を愛することです。隣人を愛することも、神のことを愛することに次いで大事なことです。そこで、こんなことを言われました。安息日に、子どもや牛が井戸に落ちたら助けるでしょう、それを神の御意思に逆らう労働とは言わないわけです。神様は、戒めを杓子定規に当てはめるようなお方ではないのです。この神様の御思いの豊かさを知らないで、冷たく規則だからダメとやってしまうことを神は望んでおられないのです。
主イエスは、この安息日の食事の席で、イスラエルの宗教的指導者たちを前にして、この神の御思いに目をとめるようにと促されたのです。それで、あえて彼らの目の前で安息日に本来してはならない医療行為、治療をなさったわけです。この主イエスのなされたことに、パリサイ人や律法学者たちは何も言うことができませんでした。
さて、続く7節から11節はどうでしょう。ここでは、客として招かれた人たちが、食事の席の上座を選んでいる姿を主イエスはご覧になられて、そういう時には末席に着くように勧めておられます。これは、言ってみれば処世術、世渡り上手になるための方法という印象を受けます。先日の水曜の祈祷会でも「日本人はこの逆で、できるだけ下座に座ろうとする傾向がありますけどね」と話された方がありました。確かにそうです。ただ、そうであれば、日本人には、この話はあまり関係ない、必要のない話ということにもなりかねません。
では、ここで主イエスが話された意図はどこにあるのでしょうか? 話としては、この話はそれほど難しくないわけです。「謙遜でありなさい」ということになると思います。けれども、それだけのことを、主イエスがここで言おうとなされているのかどうかです。
いつも、聖書を読む時に話していることですが、福音はどこにあるかということです。「福音」とは、神のもたらしてくださる良い知らせです。「謙遜でありなさい」は律法であって、福音ではありません。福音は、神はどういうお方であるかです。あるいは、神は、どのように見ておられるのかという神の眼差しです。ここで言えば、上座について人々から立派だと思われている人のところに、神の眼差しが向けられていないことは明らかです。
主イエスは、11節でこう言われました。
「なぜなら、だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるからです。」
ここに、神の眼差しがあります。神は自分を高くする者にではなく、自分を低くする者に目を留めておられるのです。そして、これがここで語られている福音ということになります。
そう考えると、その次の話も理解しやすくなります。12節から14節です。ここでは、自分が食事に人を招く場合に、誰を招くのかということが書かれています。私たちでも、友人や親戚を食事に招くということはありそうです。お金持ちを招くことは、あまり意識しないかもしれません。けれども、主イエスはここで、食事を振る舞うのであれば、貧しい人、体の不自由な人を招くようにと言われました。普段、悲しい思いをしている人たちに、目を留めるようにと言われたのです。
この箇所もそうですが、私たちはこういうことができるのかどうか、主イエスが言われることができるのかどうかということを考え始めてしまいます。先日の祈祷会でも「実際に聖書に書かれているような人々を家に招くことはできないですよね」という話になりました。このように、この箇所を読んでいくと、自分は貧しい人を招くことができないから、主イエスの御心を行うことができないから、やはり自分はダメなのではないかということになってしまいかねません。
私たちの教会では、今年度に入ってから「子ども食堂」を始めました。もともとの意図としては、食事の無い子どもの支援をすることを、この地域全体で願ってのことです。聖書のここに書かれていることを、自分一人ではできないけれども、教会で、他の人と一緒にならできるという部分があったかもしれません。この子ども食堂には教会の方々のみならず、実に、多くの地域の方々や学生たちがボランティアとして加わってくれています。毎回20人から30人の地域の方々が、この働きのために助けてくださっています。そして、80食から100食を超える食事の提供をすることができています。また、食材の提供をしてくださる方々も大勢おられます。これまで、すでに何百食もの食事を提供してきましたが、一度もお米を購入していないそうです。少なくともお米に関しては全て、食材の提供で賄われています。これは、本当にすごいことだと思っています。教会の人たちだけの力ではできないことです。
主イエスはここで、食事に招いた人からの見返りを期待することがないようにと話しておられます。主イエスがこのように言われた御心は、子ども食堂の働きをし始めてみて、私たちにもよく分かることです。お返しを期待して、食事の提供の働きをしているわけではありません。
ただ、私たちは、ここからもさらに深い主イエスの眼差しに目を留めることが大切です。というのは、私たちは通常の生活においては、何かにつけて人からのお返しを期待してしまう部分があるからです。前に助けてあげたのだから、今度自分が困った時には助けてもらって当然だと、どこかで考えるわけです。こういうところは、生活のいろいろな場面で顔を出します。あまりネガティブな例を上げなくても、皆さんの中にいろんな場面がイメージできるのだと思います。
問題は、主イエスがこの3つの話の中で、何を言おうとなさっておられるのかです。一つ一つの出来事は分かりやすく、またある意味では、とても厳しい戒めが語られています。「クリスチャンはこうするべきなのだ」と、ここから読み取ってしまうことしかできないとすれば、主イエスの御言葉を理解したことにはなりません。主イエスがこの3つの話の、中心の福音としてお語りになられているのは、どんな福音なのでしょう。
この箇所で語られている福音は、「神は小さな者、何もできない者にこそ、目を留めておられるのだ」ということです。これが、ここで語られている福音なのです。
主は私たちに人前で立派に振る舞うことを求められていると理解するならば、それはまるっきり反対のことを主イエスがここで語っておられることに気付けなくなってしまいます。主イエスは、人前で立派に振る舞うこと、器用に生きることをここで求めておられるわけではありません。「謙遜に生きなければならない」と仰りたいわけでもありません。「貧しい人を招かなければならない」と言われているわけでもないのです。このごく小さなズレは、やがて大きなズレとなっていくのです。的を外していくことになってしまうのです。
神は弱い者、小さな者、何もできないかもしれないような者に至るまで、目に留めておられるのです。何かができることや有用な人物に神は目をかけられるということではないのです。
そういう意味で言えば、パリサイ人にも律法学者たちにも有用な人物が多くいたことでしょう。高潔と言われるような立派な人もいたかもしれません。人から尊敬を受ける人というのは、それなりに理由があるわけです。そして、そのことを主イエスが軽んじておられるわけでもありません。ただ、神ご自身が目をかけられるのは、すでに人から賞賛を受けているような者たちや人生の成功者たちではないということなのです。
むしろ「えっ? 私ですか?」と、自分でも言いたくなるような人にこそ、主イエスは目を留められるのです。周りから見ても、どうしてあの人が選ばれたのかよく分からない。見ていて心配になる。そんな人のことも、ちゃんと神は目を留めておられるのです。
ここで、主イエスが安息日の食事の席で、水腫を患っている人に目を留められたようにです。ここに、神の愛の眼差しがあるのです。
主イエスの御思いは、愛です。私たちは、この神の愛の心を知ること、気づくことが大切です。安息日の心を知ることです。愛の神であられる主は、小さな者、何もできないような者にさえも目を留められるお方です。自分に自信が無くても、立派な生き方ができていなかったとしても、いやむしろ失敗ばかりの人生で、自分のような者はダメだとしか思えないような人であったとしても、主は、その人に目を留め、その人が、神の眼差しを受けて、愛に満たされて生きるようになることを願っておられるのです。
お祈りをいたします。