2024 年 10 月 20 日

・説教 マルコの福音書3章31-35節「神の家族」

Filed under: 内山光生師,礼拝説教 — susumu @ 00:53

2024.10.20

内山光生

序論

 今日のテーマは「神の家族」です。まず最初に、一般的な意味での家族について考えてみましょう。家族と一口に言っても、その人の年齢や結婚しているかどうかによって、イメージが変わってくるかと思います。

 私の場合は、家族と言えば、妻と息子のことがまっさきにイメージがわき、続いて、自分の父・母・兄弟姉妹、更には、妻の方の親族関係と続いていきます。その中でも、近隣に住んでいて年に何度も会うことができる人もいれば、遠方のために、めったに会わない人など色々とあるのです。けれども、家族そして親族は、特別なつながりがあって、何かの時に助け合ったり、励まし合ったりすることができるのではないでしょうか。

 一方、家族に関しても、人それぞれ様々な背景があって、家族の絆をあまり感じ取ることができない環境で育った方もおられるかもしれません。いや多くの人々は、外から見てしあわせそうに見えたとしても、実際は、家族関係がうまくいっていない事で悩んだり、苦しんだりしている、そういう現実があるかもしれません。

 では、「神の家族」とはどういう意味なのでしょうか。そのことを今日は、共に考えていきたいと思います。

I 使いの者からの伝言を聞いたイエス様(31~32)

 31、32節から順番に見ていきます。

 31節でイエス様の母と兄弟たちがやって来たとあります。これは、イエス様に対して悪いうわさを聞いたからです。具体的には、イエス様に対して「おかしくなった」と言いふらす人が出てきて、そして、家族としては放っておく事ができなくなり、イエス様を連れ戻そうとしたのです。

 どうやら、イエス様の身内の者たちは、イエス様が何のために福音を伝えているのか、また、イエス様がどういうお方なのかについて理解できていなかったようです。それで、イエス様に対して誤解してしまったのです。イエス様に対して誤解をしているのは、身内の者だけではありません。イエス様の弟子のペテロも、イエス様が味わう「苦しみと死」に関する予告を聞いた時に、すぐに、イエス様の発言を否定しようとした事が福音書に記されています。

 では、どうしてイエス様の身内やイエス様の弟子たちでさえ、イエス様の発言に対して誤解をしてしまったのでしょうか。それは、神様のご計画と神様のみわざというのは、私たち人間の考えとは正反対の方向に進むことがあるからです。それゆえ、今の時代の私たちでさえ、聖書の中のイエス様の発言や行動に対して違和感を感じてしまうことがあるのです。けれども、イエス様が私たちに示そうとしている事は何なのかを、じっくりと考え、思い巡らしていく時に、「あ~、そっか、そういう事を言おうとしているんだ」という事に気づかされるのです。

 だから、聖書を読んでいく時、第一印象にとらわれるのではなく、神が私たちに示そうとしている事が何なのかを読み解いていく事が大切なのです。

 さてイエス様の身内の者がイエス様を連れ戻そうとやってきましたが、そこには大勢の人がいたために、イエス様のところまで進むことができない状態でした。それで、身内の者は、誰かに伝言を託したのでした。

 イエス様の身内の者からの伝言は、すぐにイエス様に伝えられました。「あなたの母上と兄弟姉妹方が、あなたを捜しておられます」と。この伝言を伝えた人は、丁寧な言葉でイエス様に接しています。この人たちの言葉には、悪意や敵意などは何も感じられません。ですから、この場合、丁寧な応答をするのが常識かと思われます。例えば「伝言、ありがとうございます。今から、そちらの方に向かいます」など。

 ところが、イエス様は、まるでおかしな人になったかのような発言をしたのです。33節に進みます。

II 不思議な応答をするイエス様(33節)

 33節で、イエス様は伝言を伝えた人に対して「わたしの母、わたしの兄弟とはだれでしょうか」と答えたのでした。この発言は、イエス様の母や兄弟たちに対して、大変失礼な事を言っているかのような内容です。すなわち、まるでイエス様が自分の母や兄弟たちの存在を認めていないかのような発言に思えるのです。

 こうして、イエス様は不思議な応答をしたのです。実のところ、イエス様はこの箇所だけでなく、色々な箇所で誤解を与えかねない発言をしています。そして、聖書を読む一人ひとりが、どういう事なのか分からない、そういう思いにさせられるのです。

 ではイエス様は、イエス様が生きている間に、自分の母や兄弟姉妹との人間関係が悪かったのでしょうか。そうではありません。

 確かに、この時点でイエス様の母や兄弟姉妹は、イエス様が私たちの救い主であって、私たちの罪の身代わりとなって十字架にかかろうとしている、そういう事実に対して理解できない状態でした。けれども、イエス様は自分の母の事を大切に思っていましたし、兄弟関係もうまくいっていたと思うのです。

 というのも、イエス様の母や兄弟姉妹は、誤解であるにしても、イエス様がこれ以上人々から悪口を言われないために、今、ここにやってきてイエス様を連れ戻そうとしているのですから。そう考えると、イエス様の身内の者たちはイエス様に対して思いやりの心があったと考えられるのです。

 また、例えば、イエス様の兄弟ヤコブは、後にイエス様を信じる信仰が与えられ、そして、使徒たちと共に福音を伝える者へと変えられていくのです。そういう意味では、イエス様と兄弟ヤコブとの関係はとても良かったと考えられるのです。

 イエス様は、しばしば、誤解を与えかねない発言をしています。それゆえ、私たちからすれば、なぜなのですか、と思うのです。ところが不思議な事に、イエス様の発言が常識的な感覚では理解しがたいがゆえに、かえって、イエス様の言いたい事が印象に残るのです。そういう意味では、もしかしたら、イエス様は人々の心に大切な教えが刻まれるために、敢えて、びっくりするような発言あるいは大胆な行動に出ていたのかもしれません。

III 神の家族(34~35)

 34、35節に進みます。これらの箇所が今日の中心聖句となっています。

 34節でイエス様は、外にいる自分の肉親に対してではなく、まったく血のつながっていないイエス様の周りに座っている人に対して言われました。「ご覧なさい。わたしの母、わたしの兄弟です」と。

 これを聞いた人々は、一体どういう意味なのだろうと感じた事でしょう。なぜなら、ここにいる人々は、一般的な意味においては、どう考えてもイエス様の母ではありせんし、また、イエス様の兄弟ではないからです。

 それで、イエス様は続けて「わたしの母、わたしの兄弟です」と言った理由を伝えるのです。イエス様は「だれでも、神のみこころを行う人、その人がわたしの兄弟、姉妹、母なのです」と言われたのでした。

 この言葉は、注意深く解釈していく必要があります。というのも、この言葉の言わんとしている事は、イエス様を救い主だと信じているクリスチャンは互いに神の家族なんですよ、という意味なのですが、しかし、35節では「神のみこころを行う人」と書かれています。そうなると、良い行いをしている人同士でなければ、神の家族だと呼んででもらえないのですか、という事になりかねないのです。

 この箇所以外にも、ヤコブ書を読むと「行いのない者は信仰が死んでいる」と記されています。そして、しばしばヤコブ書に書かれている事を強調するあまりに、良い行いを実行していない人々は本物のクリスチャンではない、と言い張る人々が出てくるのです。

 歴史的に見ると、確かに、ある時代では「行いによって救われる」と教えられていた時代がありました。一方、宗教改革者ルターは、「行いではなく、信仰によって義とされる」と主張したのです。そして今では、正統的な教えの教会では、「信仰義認」つまり、イエス様を信じる信仰によってのみ救われると受け止めているのです。

 ですから、35節だけで解釈するのではなく、聖書全体を通して教えている事が何であるかを踏まえて総合的に解釈していく必要があるのです。

 私たちがイエス・キリストを信じた時に、その瞬間に、その人の内に聖霊が住んでくださいます。その結果、罪深い考え方や悪い行いが何であるかがはっきりと分かるようになります。私たちは、自分の内にある罪と葛藤しつつも、しかし、イエス様の十字架を仰ぎ見る時に、それらの罪が赦され、聖められていくという経験をします。

 ただ必ずしも、イエス様を信じてすぐに劇的な変化が起こる訳ではありません。長いクリスチャン生活を通して、その人その人によって色々なペースがあるからです。最初は早いペースだったけど、成長するスピードが遅くなる人がいるかもしれません。あるいは、その反対に、信仰を持ってまもない頃は、あまり変化がなかった、しかし、ある時を境に劇的に霊的に成長した、そういう方もおられるかもしれません。

 そのような中にあって、確かに、イエス様を信じた人々は「神のみこころ」が実行できる者へと変えられていくのです。ですから、この箇所で「神のみこころを行う人」と書かれているその意味は、イエス様を信じた人々の事を指していると解釈することができるのです。

 そして、イエス様を信じた人々は、互いに神の家族とさせて頂いているゆえに、愛し合ったり、赦しあったり、励まし合ったり、慰め合ったり、助け合ったりするようにと命じられているのです。

まとめ

 イエス・キリストが伝えようとしている事は、「同じ信仰を持っている人々、つまり、クリスチャンは皆、神の家族なんですよ。だからこそ、神の家族にふさわしい関係を築いていきなさい」という事なのです。

 現実の教会の中には、様々な性格の人々が存在します。それゆえ、私たちは「あの人とは気が合いそうだ、しかし、あの人はとっつきにくい」といった感じで、第一印象としては、すぐに仲良くなれそうな人とそうでない人が存在するかもしれません。また、性格的にどうしても馬が合わないと感じてしまう、そんな人がいるかもしれません。けれども、イエス様は「神の家族」なのだから、互いに愛し合いなさい、赦し合いなさい、励まし合いなさい、慰め合いなさい、助け合いなさい、と命じているのです。

 聖餐式において、「一つのパン」を食し、「一つの杯」を分け合います。それはキリストの血と肉にあずかる兄弟姉妹同士だと言う意味があります。言い換えると、クリスチャンは神の家族の一員なんだということを意味しています。なぜなら、聖餐にあずかる者同士は、キリストにあっていのちを共有し、キリストにあって救われたという点で共通しているからです。

 そういう訳で、私たちクリスチャンは、キリストにあって一つとされているゆえに、ある意味、肉親の家族、あるいは、親しい友人にも勝る不思議な強いつながりがあるのです。

 一方、注意しなければならない事があります。それはクリスチャンだからと言って必ずしも立派な人々の集まりという訳ではない、ということです。ある人々は「神の家族」に対して、理想を描いてしまい、現実の姿を見た時に自分の思いとのギャップにショックを受け、つまずいてしまった、そういうことが起こりうるのです。ですから、理想を描きすぎない方が良いのです。

 まあ、これはあくまでも一般的な事であって、芥見教会の事を言っているのではありませんが、現実的には、クリスチャンの中には、人間関係を築くのが苦手な方もおられると思います。また、気の長い人もいれば、反対に、気の短い人もおられる事でしょう。人当たりが良い人もいれば、とっつきにくい人もいる、ある程度の人が教会に集まれば、ありとあらゆる種類の人々が存在するのです。それゆえ、ある程度、自分の考え方を修正しないと人間関係が難しくなるのです。

 確かに、聖書は「御霊の実は愛・喜び・平安・寛容・親切、、、」とありますが、クリスチャンが皆、これらの御霊の実を結んでいる訳ではありません。信仰の霊的成長には、個人差があり、また、その時の状況によって、霊的状態に波があるからです。

 大切な事は、神の家族の一員である私たちは、互いに関心を持って、互いに愛し合い、互いに赦し合うことができるようにと、祈り続けていくことなのです。

 祈りにおいて、私が心がけている事として、まず、自分の家族のために祈ることです。次に霊的な家族、つまり、教会の方々のために祈る事です。なぜなら、一般的な意味での家族のために祈る事に加えて、霊的な意味での家族のために祈ることこそ、イエス様が私たち一人ひとりに願っている事だと私は確信しているからです。誰かのためにとりなしの祈りをささげる、その事の積み重ねによって、互いの絆が深まり、すばらしい神の家族へと成長していくのです。

 お祈りします。
 
 

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