・説教 マルコ5章21-43節「イエスがタイミングを決定するとき」トーマス・シェヒ師
2024.9.29
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2024.9.22
内山光生
今日の箇所は、前回の箇所から舞台が変わります。すなわち、イエス様たちが一旦、群衆たちから離れ、山の上で起こった出来事が記されています。13節から順番に見ていきましょう。
13節には、「イエスが山に登り」とあります。マルコの福音書では省略されていますが、別の福音書では、イエス様がお一人で山に登って祈られたことが記されています。福音書では、何度も、イエス様やその弟子たちが山に登る場面がありますが、多くの場合、何らかの意味があって山に登っているのです。
ではイエス様は何を祈られたのでしょうか。それは、イエス様について来ている人々がたくさんいる中から、ついに12人を選ぶ時がやってきたので、誰を選べば良いかについて、父なる神のみこころを探り求めるために祈りをささげられたのです。
多くのクリスチャンは、イエス様が重大な決断をされる時に、深い祈りをささげられたことを見習って、同じように、自分たちに重大な決断が迫られた時に、みこころが示されるようにと祈りをささげるのです。いつも、そのような深い祈りをささげる訳ではないが、人生の岐路に立たされるような、例えば、進学先だとか、就職先だとか、結婚相手を決める時などは、多くの人が、いつも以上に神に深い祈りをささげるのではないでしょうか。
時には、自分の願っている通りにはならない、そんな苦しみを味わいながらも、しかし、最終的には、神様が示されたた道をしっかりと受け止めるようになる、そんな事を人生の内で何度も何度も味わうのです。そして、そのような経験を通して私たちは、神様への信頼が深まっていくのです。
さて、多くの人々は、組織の中の重要な人物を選ぶ際に、優秀な人なのかどうか? 人格的に優れているかどうか? 誠実かどうか? 信頼できるかどうか? 等を基準に考えるのではないでしょうか。もちろん、そのような選び方が間違っているとは言えません。ところが、イエス様が十二使徒を選ばれた基準は、人間の感覚とは異なっていたのです。
すなわち、16節以降に記されている十二使徒は、その時代において、特別、優秀な人物だった訳ではないのです。また、人々から尊敬されていたという訳でもありません。家柄が良いとか、人格的にすばらしいという事でもなかったのです。 (続きを読む…)
2024.9.15
内山光生
8月末から9月上旬にかけて、全国各地のお店でお米が不足している状態となっていました。マスコミの報道が影響したのでしょうか。ますますお米がお店からなくなっていったのでした。政府は国全体では在庫が足りている。また、新米の入荷が始まるのですぐに問題は解消すると言っていました。そしてその通りに、今となっては新米がどんどん入荷してきて米不足は収束を迎えたようです。ただ、値段が例年よりも高くなっているとのことです。
余談ですが、9月上旬に私の実家でも、米の収穫を終えました。私も少し手伝いをしに行きましたが、例年になく苦労をしました。というのも、肥料を多くやりすぎたせいでしょうか、稲穂が倒れてしまったのです。そうなると、米を刈り取るコンバインがうまく作動せずに、何度も機械のメンテナンスをしながらの作業となるのです。
そんな訳で通常2日で終わる作業が2倍の4日かかってしまいました。けれども、なんとか収穫できた事に感謝を覚えます。私の父が後何年、米作りができるかは分かりませんが、今まで、神様が守り導いて下さったことに感謝をいたします。
7~8節から順番に見ていきます。
前回の箇所では、イエス様が安息日に「片手のなえた人」を癒した出来事が記されていました。そして、イエス様に敵対している人々、つまり、パリサイ人たちが「イエス様を殺害する計画をし始めた」と記されていました。
それまでイエス様は、町々の会堂、すなわち、シナゴーグにおいて、安息日ごとに聖書の解き明かしをするという方法で福音を宣べ伝えていました。けれども、パリサイ人たちの敵対心が大きくなった事を受けて、イエス様たちは、町から離れガリラヤ湖の方に向かったのです。
あのパリサイ人たちは、当時のユダヤ世界では、宗教的に最も権威のある立場でした。そして、イエス様に対してあからさまに敵意をむき出しにしていました。それを見ていたイエス様の弟子たちや群衆は、どちらが正しいと思ったのでしょうか。
言うまでもなく、イエス様の弟子たちはイエス様の言っていることが正しいと受け止めていました。それに加えて、大勢の群衆たちも、イエス様の言っていることが正しいと受け止めたのです。その証拠として、イエス様たちが町から出て行っても、イエス様が向かう所について行ったのです。
もしもパリサイ人たちの言っている方が正しいと受け止めていたならば、どうしてイエス様たちについて行くでしょうか。人々がイエス様について行ったのは、安息日に「善いことをする」のが当然だと受け止めたからです。また、安息日に「いのちを救うこと」が正しいと確信していたからです。
確かに、パリサイ人たちや律法学者たちは、旧約聖書に預言されている救い主に関する知識を持っていました。、しかし、目の前に救い主が現れているにも関わらず、そのお方が誰なのかに気づけなかったのです。反対に、旧約聖書の知識をそれほど持っていない群衆たちは、イエス様の言葉や行いを見て、この方について行きたいとの思いが出てきて、その気持ちを行動に移し、イエス様たちについて行ったのです。 (続きを読む…)
2024.9.8
内山光生
前回の箇所は安息日に関することがテーマとなっていました。すなわち、イエス様の弟子たちが安息日に麦の穂を摘んだことが律法に違反するのか、しないのか、が問われていました。それに対して、イエス様は「安息日は人のために設けられた」と答えました。更には、「人の子は安息日にも主です。」と宣言したのです。これらの言葉は、パリサイ人たちから反発をまねく内容でした。
とはいえパリサイ人たちは、すぐに反論してきた訳ではありません。ただ、彼らの心の中が怒りの感情で支配されていて、チャンスがあれば主イエスを訴えようという気持ちが出てきていたのです。
今日の箇所は、前回の内容とつながりがあることを理解しながら順番にみていきましょう。
1~2節に進みます。
主イエスは安息日ごとに、どこかの会堂に行って聖書の解き明かしをしていました。1節に記されている会堂がどこの町にあったのかは、はっきりとは分かりません。可能性としてはカペナウムだったかもしれません。あるいは別の町だったかもしれません。
そこでイエス様は、病人を癒すことが目的で会堂に入った訳ではありません。でも、そこには「片手の萎えた人」がいたのです。この片手の萎えた人は、恐らく、イエス様の評判を聞いていて、自分の手を治してもらえるかもしれないと期待していたのだと思われます。
イエス様は苦しんでいる人々に愛の御手を差し伸べるお方です。そういうことを知っていたパリサイ人たちは、主イエスが安息日にこの片手の萎えた人を治すかどうかをじっと見ていたのです。彼らは、主イエスが安息日にしてはならないことをするかどうかを見極めようとしていたのです。つまり、もし主イエスが、片手の萎えた人を治すならば、すぐにでも「あなたは安息日にしてはならないことをしている」と訴えようとしていたのです。
誰かに対して初めから悪い感情を持っていたり、偏見があるならば、その人からどのようなメッセージを聞いたとしても、心に届かない、そういうものです。パリサイ人たちは、すでにイエス様の言われた言葉に対して疑問を抱いていました。というのも、イエス様の安息日に対する考え方と自分たちの考え方に大きな違いがあったからです。
パリサイ人たちは、自分たちは先祖から伝えられた教えを忠実に守っていて正しい考え方をしていると確信していました。
例えば、「安息日は働いてはいけない」「収穫作業をしてはいけない」、「病人を治療することも禁止されている」と理解していました。一方、イエス様は、弟子たちがお腹をすかして安息日に麦の穂を摘んだ時に、弟子たちは間違った事をしていないと考えていました。また、安息日であっても病人を治しても良いと考えていました。 (続きを読む…)
2024.9.1
鴨下直樹
9月に入りました。私たちの教会では夏休みの期間、「信徒交流会」という名前で、毎週行っている水曜と木曜の祈祷会の時間に、信徒の方々に証しや、聖書研究や、さまざまな発題をしていただいております。今年は、7月の後半から始まり、10回10名の方が発題してくださいました。毎週、とても多くの方が参加してくださって、水曜と木曜の参加者を合わせると毎週20人以上の方の参加がありました。
今、笠松教会と兼牧をしていることもあって、合同で祈祷会をしますと笠松教会の方がびっくりします。どうしてこんなに大勢の参加があるのかと質問が出るのです。一番の理由は楽しいからだと思うのです。発題してくださる方の内容に興味があるということもありますし、また、参加者の皆さんが思いのままに発題されるその発言を聞くのが面白い、あるいは、その発言に対して自分たちの思いを好きなように話せるから楽しいということでもあると思います。みなさん、かなりリラックスして参加してくださっていますから、時折びっくりするような発言を耳にすることもあります。それも含めて楽しいのだと思うのです。
そう考えながら、今日の聖書を読みますと主イエスの周りにいる人々も同じようであったことが分かります。今日の、聖書箇所であるルカの13章23節にこんなことが書かれています。
すると、ある人が言った。「主よ、救われる人は少ないのですか。」
この質問をした「ある人」というのが弟子なのか群衆だったのかも分かりませんが、かなり直球な質問です。「救われる人は少ないのですか?」こういう質問を主イエスにできるというのも、やはり何でも言える環境であったのだろうということが分かります。
この12章から主イエスは群衆や、弟子たちといろんな話をされています。この前のところでは安息日に癒しの出来事をなさって、そこで「神の国」の話をされたばかりです。神の国というのは、小さいもの、弱いものであっても、その人から神は大きなみ業をなさるのだという話をされたばかりでした。そんな中で、「主よ、救われる人は少ないのですか?」という問いかけがあったのです。
私は、祈祷会の時でもそうなのですが、いろいろな質問が出て来る時にどうしてその質問がでてくるのかという、その背後にある思いに目をとめることが大切だと考えています。そうでないと、質問の意図が読めなくて、質問をした人の願っていることと違うことを答えてしまうことになってしまうからです。
この場合、質問をした人は何を思ってこういう質問をしたのでしょうか。考えられる一つの可能性は、「自分は神の国に入れてもらえないのではないか?」と考えたのではないかということです。こういう考え方は、私たちでもよく理解できることだと思います。自分の信仰と他の人の信仰を比較する時に、こういう思いというのはどうしても出てきてしまうのです。
この出来事の前に主イエスは、「神の国はからし種に似ている」と言われました。あるいは「パン種に似ている」とも言われました。小さなものであっても、そこから大きな実りをもたらすと言われた主イエスの話を聞いて、ひょっとして自分の中には「からし種」ほどの信仰もないのではないかという不安を抱いた可能性があるのではないかと思うのです。 (続きを読む…)
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