2026 年 1 月 25 日

・説教 テモテへの手紙第二 2章1-7節「成長し、成長させる喜びを知る」アイマン・ドロテア師

Filed under: 礼拝説教 — susumu @ 09:30

2026.01.25

アイマン・ドロテア師

2026 年 1 月 18 日

・説教 マルコの福音書8章27-30節「ペテロの信仰告白」

Filed under: 内山光生師,礼拝説教 — susumu @ 09:42

2026.01.18

内山光生

するとイエスは、彼らにお尋ねになった。「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。」ペテロがイエスに答えた。「あなたはキリストです。」  

マルコ8章29節

序論

 今日の箇所では、ペテロが信仰告白をしています。ペテロはイエス様の問いかけに対して「あなたはキリストです。」と答えたのです。この告白は模範的な解答と言えるのです。その点においては大いに評価ができるのです。けれども、この時点においてペテロが心の中で思っていたキリストというイメージとイエス様の本当の姿との間には、大きなギャップがあったのです。

 つまり、イエス様が何のために地上世界に来られたのかについては、ペテロは何も分かっていなかったのです。しかしながら、前回の箇所において、目の見えない人が2段階に分けて完全に見えるようにされていったように、ペテロを始め他の弟子たちも、最終的にはイエス様がどういうお方なのかをはっきりと理解できるように変えられていくのです。

 今の時点では、ペテロにしても他の弟子たちにしても、何も分かっていないのは確かな事です。しかし、その後、どうなっていくのかを踏まえて今日の箇所を見ていきましょう。

I イエスは誰かについての人々の考え(27~28節)

 ではまず27節から見ていきます。

 イエス様と弟子たちは、この直前には、ガリラヤ湖の北側に位置する漁師が多く住んでいる村、ベツサイダにいました。その後、北の方に向かって行き、ヘルモン山のふもとにあるピリポ・カイサリアに進んで行ったのです。

 当時のピリポ・カイサリアという町は、ローマ皇帝が神としてあがめられたり、更には異教の神々を信じる人々が大勢いたと言われています。つまり、偶像の神々に満ちた町だったのです。ですから、伝道したとしてもなかなか人々が心を開きにくい、そういう地域だったと考えられます。

 けれども、イエス様は敢えて、その町に向かっていったのです。そして、その途中、とても重要な問いかけをしたのでした。「人々はわたしをだれだと言っていますか。」と。 (続きを読む…)

2026 年 1 月 11 日

・説教 マルコの福音書8章22-26節「はっきりと目が見えるようになった人」

Filed under: 内山光生師,礼拝説教 — susumu @ 09:21

2026.01.11

内山光生

それから、イエスは再び両手を彼の両目に当てられた。彼がじっと見ていると、目がすっかり治り、すべてのものがはっきりと見えるようになった。  

マルコ8章25節

序論

 昨年の12月にはクリスマスに関係のある聖書箇所から説教を致しましたが、今日から再び、マルコの福音書に戻ります。

 まず最初に今日の箇所よりひとつ前に、どのような内容が記されていたのかを振り返りたいと思います。マルコの8章14~21節では、イエス様がご自身の弟子たちに向かって「まだ分からないのですか。悟らないのですか。」と言われました。とても厳しい表現が用いられています。それは、この時点で弟子たちが、イエス様の奇跡を目撃しながらも、そこから何も悟っていなかったからでした。つまり、この直前において、わずかなパンから何千にもの人に食べ物を与えた出来事を二度も体験しながらも、イエス様がどういうお方なのかを悟っていなかったからでした。

 イエス様は、しばしば、弟子たちに対して厳しい言い回しをしています。けれども、その背後には、なんとかして弟子たちに霊的真理を悟ってほしいとの願いが込められているのです。つまり、弟子たちはきっと悟ることができる、そういう時が来るとの期待があっての厳しい言葉だと言えるのです。

 人というのは、相手がもう成長する見込みがないと思うと、その人に対して厳しいことを言わなくなる、そういう事があります。期待をしていないゆえに、当たり障りのない態度を取ったりするのです。しかし、あと少しでその人が成長できるかもしれない、そういう期待があるならば、厳しい言い回しをすることがあるのではないでしょうか。

 今日の箇所の直前の出来事で、イエス様は弟子たちに対して「まだ悟らないのですか。」と言われました。しかし、それは「もう間もなく、あなたがたは悟るようになるんですよ。」との期待が込められているのです。今日は取り扱いませんが、次回の箇所では、ようやくペテロの霊的な目が開かれた事が記されています。つまり、イエス様が期待しているように、弟子たちはイエス様がどういうお方なのかを悟ることができるようになっていくのです。

 もちろん、イエス様が復活する前の段階では、ペテロにしても他の弟子たちにしても、まだはっきりとはイエス様がどういうお方なのかを悟ることができていません。ペンテコステの日に、ようやく、はっきりと心の目が開かれるのです。しかし、イエス様が十字架にかかる前の段階においても、主イエスの弟子たちは、ぼんやりとした状態かもしれないけれど、イエス様がメシアだということは理解できているのです。

 今日の箇所の出来事には、目の見えない人が出てきています。この人は、ただただイエス様の憐れみによって、目が見えるようにさせて頂けるのです。このことから、聖書は私たちの霊的な目を開かせてくださるのがイエス様なんだ、ということを示そうとしています。しかも、今回の出来事の場合は、この人自身に信仰があったから見えるようになったのではなく、イエス様の一方的な愛のみわざによって、見えるようになったことが示されているのです。 (続きを読む…)

2026 年 1 月 4 日

・説教 ルカの福音書21章1-5節「自己からの解放」

Filed under: 礼拝説教,説教音声 — susumu @ 00:32

2026.01.04

鴨下直樹

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 新しい年を迎えました。今年、私たちは年間聖句としてヨハネの黙示録21章5節の「見よ、わたしはすべてを新しくする」とのみ言葉が与えられています。

 先日の元旦礼拝の時にこの箇所から説教しました。そこで、私は「私たちが新しくされるのは、悔い改めの先に、神は新しい事柄を備えておられる」という説教をいたしました。説教全体としては、それほど厳しい説教ではなかったと思っていますが、説教を聞かれた方は、厳しい説教という印象を持たれた方もあったかもしれません。

 「悔い改め」という言葉を聞くと、どうしても自分の振る舞いを反省して改めなければならないという部分に心が向いてしまうと思うのです。けれども、悔い改めというのは、私たちが変えられていくとても大切なきっかけです。これはまさに恵みであるということをぜひ知っていただきたいと思っています。

 今回、予定表にはルカの福音書の20章45節からとなっていました。しかし、前回の説教で、45節から47節も同時にお話ししたこともあって、今回は21章からといたしました。しかし、今日の箇所ではやはりどうしてもこの45節からの流れがとても重要です。この45節以降で、主イエスは人前で見栄をはる律法学者に警戒するようにと話しておられます。聖書のみ言葉に従って生きているはずの律法学者たちは、神のみ前の歩みということを忘れてしまって、人の前で自分を装う人となってしまっていることを戒めておられます。

 この律法学者たちは自分たちがやっていることが、神の前に問題のある行動だということにさえ気づいていないのかもしれません。主イエスにこう指摘された時、律法学者たちは腹をたてたはずです。はらわたが煮えくり返るような憤りを覚えたかもしれません。けれども、その心の中では、「これの何が悪いのか? みんなやっていることだ」と考えていたかもしれません。あるいは、「私たちは、人々に聖書に従って正しく生きる姿を示しているのだ」と考えていたのかもしれません。

 人々は律法学者たちのことを尊敬していました。「自分たちはなかなか聖書の教えを理解していたとしても行うことができない。けれども、この先生たちは神の前に忠実に生きている人たちだ」と考えていたのです。人から尊敬され、人からもてはやされ、人から褒められる生活というのは悪い気はしないものです。そういう生活が続いていくと、人からどう見られるかに心が向いてしまい、神のみ前でどう見られているかを考えることができなくなっていきます。そうして、この律法学者たちは、困っている人に親切にするという姿勢で、「やもめの家を食い尽くした」と主イエスは言っているのです。善人のふりをして近づき、弱い人に寄り添うふりをしながら、その人たちに養ってもらうようなそんな有様だったというのです。

 聖書の専門家である律法学者たちでさえそうであったのですから、他の人はそのような生き方が間違っているとはなかなか気が付かないのです。

 この律法学者の姿というのは、「神の前で悔い改めをすることを忘れてしまった人の姿」と言うことができます。主イエスはこのような姿にとても心を痛めておられるのです。

 そのような律法学者たちの姿を嘆いておられる時に、主イエスは宮の中で一人の人の姿が目にとまりました。金持ちたちが献金箱に献金している姿を見る中で、一人の貧しいやもめの献金する姿が目に飛び込んできたのです。その人はレプタ銅貨を2枚献金の箱に投げ入れたのでした。まさに、律法学者たちに食い尽くされている人と主イエスが言われたその人が、神殿にやってきて、そのなけなしのレプタ銅貨を献金したというのです。 (続きを読む…)

2026 年 1 月 1 日

・説教 ヨハネの黙示録21章5節「すべてを新しくされるお方」

Filed under: 礼拝説教,説教音声 — susumu @ 06:51

2026.01.01
元旦礼拝

鴨下直樹

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 新しい年を迎えました。今年のローズンゲンによる年間聖句は、ヨハネの黙示録の21章5節のみことばです。5節全体を読んでみます。

すると、御座に座っておられる方が言われた。「見よ、わたしはすべてを新しくする。」また言われた。「書き記せ。これらのことばは真実であり、信頼できる。」

 主は、語られます。「見よ、わたしはすべてを新しくする!」と。新年を迎えるとき、私たちは家を大掃除し、冬の寒い中で車を洗車し、気持ちよく新年を迎えたいと思うものです。そのようにして新年を迎える時に、気持ちも新たに新しいスタートを切りたいと願う。そう考える人は少なくありません。問題は、その新鮮な気持ちがいつまで続くかということかもしれません。

 お正月の三が日はゆっくりと過ごし、今年だと5日が月曜日ですからこの日から仕事が始まる人も多いかもしれません。はじめのうちの数日は新鮮な気持ちで働くことができるのかもしれませんが、一週間もたつと新年の志は薄れていってしまいます。そうすると、あとは特に大きな変化もなく、同じような日々が続いていくことになるでしょう。それが、私たちの生活というものかもしれません。

 今年の年間聖句は、聖書を読む人々にとって、希望を与えるみ言葉です。ヨハネの黙示録の21章は、この世界を神がやがてどうされるのかが約束されているところです。まず、21章の1節では「新しい天と新しい地」を見たと語られていて、2節ではこの新天新地が「神のみもとから、天から降ってくるのを見た」と記されています。

 この黙示録は絶望の時代に生きている人々に希望を知らせているのです。今の世界が永遠に続くのではない、やがて神が備えられた「新しい天と新しい地」があなた方に与えられるのだと約束しているのです。

 この約束に、私たちのすべての希望が込められています。続く3節と4節では、その新しい世界は、死も悲しみもない、慰めに満ちた世界だとも語っています。

 そして、今日の箇所5節では、今度は神ご自身が「見よ、わたしはすべてを新しくする」と自ら宣言してくださっているのです。

 この幻を見ているのはヨハネで、1節から4節までは、ヨハネが見たこと、聞いたことが語られていました。しかし、この5節では神ご自身がこれを語られているのです。だから、この知らせ、わたしはすべてを新しくするという知らせは間違いない知らせなのだという宣言です。

 では、この神が語られているメッセージの中身は、どういった内容なのでしょう。「すべてを新しくする」とはどういうことなのでしょう? (続きを読む…)

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