2026 年 1 月 18 日

・説教 マルコの福音書8章27-30節「ペテロの信仰告白」

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2026.01.18

内山光生

するとイエスは、彼らにお尋ねになった。「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。」ペテロがイエスに答えた。「あなたはキリストです。」  

マルコ8章29節

序論

 今日の箇所では、ペテロが信仰告白をしています。ペテロはイエス様の問いかけに対して「あなたはキリストです。」と答えたのです。この告白は模範的な解答と言えるのです。その点においては大いに評価ができるのです。けれども、この時点においてペテロが心の中で思っていたキリストというイメージとイエス様の本当の姿との間には、大きなギャップがあったのです。

 つまり、イエス様が何のために地上世界に来られたのかについては、ペテロは何も分かっていなかったのです。しかしながら、前回の箇所において、目の見えない人が2段階に分けて完全に見えるようにされていったように、ペテロを始め他の弟子たちも、最終的にはイエス様がどういうお方なのかをはっきりと理解できるように変えられていくのです。

 今の時点では、ペテロにしても他の弟子たちにしても、何も分かっていないのは確かな事です。しかし、その後、どうなっていくのかを踏まえて今日の箇所を見ていきましょう。

I イエスは誰かについての人々の考え(27~28節)

 ではまず27節から見ていきます。

 イエス様と弟子たちは、この直前には、ガリラヤ湖の北側に位置する漁師が多く住んでいる村、ベツサイダにいました。その後、北の方に向かって行き、ヘルモン山のふもとにあるピリポ・カイサリアに進んで行ったのです。

 当時のピリポ・カイサリアという町は、ローマ皇帝が神としてあがめられたり、更には異教の神々を信じる人々が大勢いたと言われています。つまり、偶像の神々に満ちた町だったのです。ですから、伝道したとしてもなかなか人々が心を開きにくい、そういう地域だったと考えられます。

 けれども、イエス様は敢えて、その町に向かっていったのです。そして、その途中、とても重要な問いかけをしたのでした。「人々はわたしをだれだと言っていますか。」と。

 弟子たちは人々が何を言っていたのかを思い巡らした事でしょう。28節では弟子たちが答えた内容が記されています。「バプテスマのヨハネだと言っています。」このように答える弟子がいました。あるいは、「エリヤだと言う人や、他の預言者の一人だと言う人もいます。」このように答えたのでした。

 バプテスマのヨハネは、イエス様が活動する直前において、多くのユダヤ人から注目を集め、人々はヨハネのもとにやって来ては、彼の教えを聞き、そして、洗礼を受けたのでした。ところが、ヘロデ王の妻に恨まれた結果、ヘロデ王によって殺害された、そういう人でした。ヘロデ王自身は、バプテスマのヨハネが偉大な預言者だと信じていたものの、彼を守ることができなかったのでした。

 そういう経緯(いきさつ)があって、当時の人々の間では、「もしかしたらバプテスマのヨハネの生き返りがイエス様なのではないか。」そういううわさが流れていたのです。けれども、バプテスマのヨハネ自身が「私よりも力のある方が私の後に来られます。」(マルコ1章7節)と言っていたように、ヨハネが何を伝えていたのかをよく知っているならば、この考えが正しくないのは明らかな事です。ただ、イエス様の事をバプテスマのヨハネだと考えた人々は、イエス様の事を好意的に捉えていたという点では評価ができるのです。

 そして別の人々はイエス様のことを「エリヤだ」と言っていました。エリヤとは旧約時代の偉大な預言者の一人です。確かに、旧約聖書のマラキ書4章5節には、「見よ。わたしは、主の大いなる恐るべき日が来る前に、預言者エリヤをあなたがたに遣わす。」と記されています。そして、実際イエス様が活躍していた時代においては、神様がエリヤを遣わして下さると期待する人々が大勢いたのです。ですから、イエス様の事をエリヤだと言っている人々は、それなりの根拠があったのです。

 エリヤとは、人々が偶像の神に心を傾け、本当の神様から目をそむけていた時代にあって、大胆に神様のことばを語り続けた預言者でした。それは人々を救いに導くための立派な働きだったのです。

 ですから、人々がイエス様のことを「エリヤだ」と発言したのは、イエス様のことを高く評価している証拠だと言えるのです。しかしながら、イエス様はエリヤではなく、まことの救い主なので、この答えもまた、正しくなかったのです。

 更に別の人々はイエス様の事を「預言者の一人だ」と言っていたのです。モーセのような預言者を意識したのでしょうか。それとも、別の有名な預言者のことをイメージしたのでしょうか。いずれにせよ、イエス様の語る福音を聞き、イエス様が人々の病気を癒している、その姿を目撃した人々は、イエス様に対して良い評価をしていた、その点は確かな事なのです。

 当時の人々は、イエス様に対して好意的に受け止めつつも、イエス様がどなたかについてはまだ理解できていなかった。そういうことが分かるのです。

II あなたはイエスを誰だと言いますか(29節)

 29節に進みます。

 イエス様の質問は更に続きます。今度は弟子たちに向けて同じ質問が投げかけられました。「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。」と。そこで、ペテロは「あなたはキリストです。」と答えたのでした。

 これはペテロだけがそう考えていたというよりも、他の弟子たちも同じように思っていた、ただペテロは他の弟子よりも早く言葉や態度に移す、そういう性格だったゆえに、真っ先に「あなたはキリストです。」と答えることができたのでしょう。

 このペテロの信仰告白は、まさに模範解答と言えるでしょう。イエス様の弟子たちは、他の人々と比べて、イエス様の福音に触れる機会が多くありました。また、イエス様の行った奇跡についても、何度も何度も体験することができました。イエス様ご自身の口からは「わたしはキリストです。」と、直接言われたことはありませんでしたが、イエス様の言葉と行いを通して、弟子たちの中には「イエス様はキリストだ」との考えがはっきりとしていたのです。

 では、キリストとはどのような意味なのでしょうか。キリストとは、元々は「油注がれた者」という意味がありました。例えば、旧約時代において、神は、ユダヤ人の王に対して油を注がれました。あるいは、祭司にも油を注がれました。更には、預言者にも油を注がれました。ですから、キリストというのは、王・祭司・預言者と三つの役割が含まれているのです。

 また、キリストとは「メシヤ」という意味があります。すなわち、人々を救いに導くお方だということを示している、そういう言葉なのです。

 それゆえ、イエス様はペテロが「あなたはキリストです。」と答えたことに対して満足されたと思うのです。当時の人々がイエス様に対して好意的なイメージを持っていたものの、「キリストだ」と答える事ができる人はあまりいませんでした。もちろん、イエス様に病気を癒してもらったり、イエス様と人格的な交わりを持つことによって「このお方はキリストだ」と受け止めた人々もおられました。けれども、全体としては「イエス様はキリストだ」とは受け止められていない中で、ペテロを始め他の弟子たちは、正しく理解できていた、その事は大いに評価できるのです。

 但し、この時点においては、前置きで伝えたように、イエス様が何のために地上世界に来られたのかについては、ペテロは何も分かっていなかったのです。

 もちろんマルコの福音書においては、「ペテロは何も分かっていませんでした」という解説が書かれているわけではありません。しかしながら、次回以降の聖書箇所を読んでいくと、彼がイエス様について、きちんと理解できていない事が明らかにされていくのです。

 イエス様が活躍していた時代においては、ユダヤ地方やガリラヤ地方を始め、多くの地域はローマ帝国の支配下にありました。ローマ帝国の支配下にあるということは、戦争が起こった時に守ってもらえるという側面もありますが、ローマに対して税金を納めなければならないという経済的な負担が強いられていました。それで、人々は経済的に苦しい生活を余儀なくされていたのです。また、政治の面においても、ローマの方針に従わなければならず、自分たちの考えは抑えつけられていました。ユダヤ人たちがエルサレム神殿において、礼拝を捧げる事は認めらていたものの、生活全般において、自分たちの考えが尊重されているかというと、不満な部分があったのです。

 この状況から解放されたい、それが当時のユダヤ人の共通の願望だったのです。イエス様の弟子たちも、この当時の考え方の影響を受けていたので、イエス様の事を「キリスト」だと告白しつつも、その中身は、ローマによる圧迫から解放し、新しい政治的な指導者という意味で「キリスト」だと理解していたのです。

 無理もないことです。多くの人々は、その時代の考え方に影響を受けるものです。たとえ福音が語られていたとしても、その影響によって自分たちの都合のいいように解釈していく、そういう事が起こりうるのです。

 ですから、ペテロの信仰告白の内容は模範解答でありながらも、その中身が異なっているという点で私たちに注意を促しているのです。つまり、私たち自身も知らず知らずのうちに、イエス様に対するイメージが、実際の聖書に書かれているものとは食い違っていることがありうるのです。

 世界を見渡す時に、経済格差があります。環境問題があります。戦争や紛争があります。また、人権がないがしろにされている地域が存在します。そして、多くの人々は、それらの問題を解決したいと願っています。その願い自体は純粋で間違ってはいないのです。ですから、そのような問題が解決されるための働きは、必要な事なのです。

 けれどもだからと言って、イエス様の伝えようとしている福音は、経済問題を解決することではないのです。あるいは、世界中の問題を解決することではないのです。

 確かに、これらの諸問題が解決する方向に向かっていくために、私たちクリスチャンが熱心に祈りを捧げることは必要なことですし、良い祈りだと言えるのです。けれども、イエス様が人々に与えようとしている「救い」については、あくまでもイエス様の十字架が中心なのです。イエス様の十字架こそ私たちの罪を赦すためだった、このことを伝えようとしているのが「福音」なのです。その意味において、イエス様は「キリスト」なのです。

 マルコの福音書では、今日の箇所を起点として、イエス様の語られる内容が十字架を意識したものへと変わっていきます。読んでいても暗くなるような内容、あるいは、意味が分かりづらい内容が含まれています。けれども、聖書が私たちに伝えようとしている重要な部分は、ここから先、つまり、イエス様の十字架によって神の愛が示されたことにあるのです。

 ただ私たちが誰かに福音を伝える際には、いきなり「十字架、十字架」と強調しても、理解されないどころか、相手が心を閉じてしまう危険があります。イエス様の弟子たちも、イエス様から十字架の話ばかり聞かされたのではなく、最初の頃は、人々の心に入りやすい、分かりやすい、そして、人々の心のやすらぎとなるみことばが多く語られていたのです。けれども、ある程度の段階となると、イエス様は弟子たちに向かって、十字架の苦しみについて語りだすのです。

 その手前の段階において、イエス様は弟子たちに対して「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。」との問いかけをしたのです。ですから、このような核心部分に触れる質問というのは、ある程度イエス様の福音について聞いてきた人々に対しては意味のあるものなのです。その時、ある人々は、「まだ分からないです。」と答える場合もあるかもしれません。あるいは、「イエス様はキリストです。」と答えることができる場合もあるかもしれません。いろいろな反応がある中で、何度も同じ質問が投げかけられていき、最終的には、本当の意味でイエス様がどういうお方なのかを理解できるようになっていくのです。神様がそのように導いてくださるのです。

 私たちが神様に心を開き、福音を受け入れたいとの思いを持つ時、そのような人々の心に聖霊が働いて下さいます。そして、その時、イエス・キリストこそ私のまことの救い主だ、という想いが与えられるのです。この想いが与えられた人は、自分の心の中にしまっておくことができずに、人々の前ではっきりと告白することができるようになります。そのような行動によって、周りの人々も「あの人は、イエス様を信じている」と確信することができるのです。

 礼拝の中で使徒信条を告白する場面があります。最初の頃は、そこに書かれている内容が十分には理解できていないかもしれません。けれども、少しずつでもいいので、その中身を理解していけばいいのです。信仰の理解というのは、聖霊の助けによって深まっていくものです。単なる知識だけでは分からない部分があるのです。また、神様の時があるのです。今は分からないけれども、様々な経験を通して理解が深まっていく、そういう部分もあるのです。

 最も大切なのは、イエス・キリストの十字架が誰のためだったのか。そこをどのように受け止めているかなのです。

III まだ時が来ていないゆえの戒め(30節)

 30節に進みます。

 ペテロが信仰告白をした直後に、イエス様は「だれにも言わないように」と戒められました。どうしてなのでしょうか。当時の社会においては、ローマ帝国に従うことが当然だという風潮がありました。これから向かうピリポ・カイサリアの町にはローマ皇帝を礼拝する場がありました。神の憐れみによって、ユダヤ人たちは、皇帝礼拝をすることが免除されていたものの、ユダヤ人以外の人々は、形の上かも知れないですが、ローマ皇帝を神としてあがめていたのです。

 ペテロを始め弟子たちは「キリスト」という意味を、ローマ帝国の支配から解放する政治的指導者と理解していました。その考えは、イエス様の視点から見れば間違っているものでした。しかし、当時のユダヤ人たちにとっては受け入れやすい考え方でした。だからこそ、その考えが広まるとローマ帝国から危険人物と見なされる恐れがあったのです。

 つまり、「イエスはキリストだ」との発言が広められると、イエス様だけでなくイエス様の弟子たちにも危険が及ぶ可能性があったと考えられるのです。もちろん、最終的にはイエス様が逮捕され、十字架につけられるのですが、まだこの時点では、「イエスはキリストです。」との発言を控えるのが良いと判断したのでしょう。

まとめ

 イエス様は、すでに十字架の上で死なれ、よみがえられました。その後、大勢のクリスチャンが集まって祈っている中で、ペンテコステの日に聖霊が降りました。その結果、堂々と大胆に「イエス様はキリストです。」と伝えることができる時代に変わっていったのです。つまり、今は、恵みの時代だと言えるのです。

 そのような中にあって、今日の箇所を通して考えさせられることは、私たちのイエス様に対する理解というのは、「イエス様こそ自分の救い主です。」との告白をしつつも、その中身については、段階的に深められていく、そういう部分があることに気づかされるのです。

 神はイエス様の十字架のゆえに私たちの罪を赦して下さいます。それがどれ程大きな恵みなのかについては、日々の生活の中で、神様と祈りの交わりと通して、深められていくのです。

 私たちは神から受けた恵みについて、すぐに忘れてしまう存在です。ですから、毎日毎日、神様から受けている恵みを思い起こすことが大切なのではないでしょうか。

 私たちは、聖書が示している罪が何であるかを知識としては知っています。しかし、日々の生活の中で同じような罪を犯す存在です。それでも、イエス様の十字架によって、悔い改める時に何度でも赦して下さる神の愛の大きさに感謝をいたしましょう。
 
 お祈りいたします。

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