・説教 マルコの福音書8章22-26節「はっきりと目が見えるようになった人」
2026.01.11
内山光生
それから、イエスは再び両手を彼の両目に当てられた。彼がじっと見ていると、目がすっかり治り、すべてのものがはっきりと見えるようになった。
マルコ8章25節
序論
昨年の12月にはクリスマスに関係のある聖書箇所から説教を致しましたが、今日から再び、マルコの福音書に戻ります。
まず最初に今日の箇所よりひとつ前に、どのような内容が記されていたのかを振り返りたいと思います。マルコの8章14~21節では、イエス様がご自身の弟子たちに向かって「まだ分からないのですか。悟らないのですか。」と言われました。とても厳しい表現が用いられています。それは、この時点で弟子たちが、イエス様の奇跡を目撃しながらも、そこから何も悟っていなかったからでした。つまり、この直前において、わずかなパンから何千にもの人に食べ物を与えた出来事を二度も体験しながらも、イエス様がどういうお方なのかを悟っていなかったからでした。
イエス様は、しばしば、弟子たちに対して厳しい言い回しをしています。けれども、その背後には、なんとかして弟子たちに霊的真理を悟ってほしいとの願いが込められているのです。つまり、弟子たちはきっと悟ることができる、そういう時が来るとの期待があっての厳しい言葉だと言えるのです。
人というのは、相手がもう成長する見込みがないと思うと、その人に対して厳しいことを言わなくなる、そういう事があります。期待をしていないゆえに、当たり障りのない態度を取ったりするのです。しかし、あと少しでその人が成長できるかもしれない、そういう期待があるならば、厳しい言い回しをすることがあるのではないでしょうか。
今日の箇所の直前の出来事で、イエス様は弟子たちに対して「まだ悟らないのですか。」と言われました。しかし、それは「もう間もなく、あなたがたは悟るようになるんですよ。」との期待が込められているのです。今日は取り扱いませんが、次回の箇所では、ようやくペテロの霊的な目が開かれた事が記されています。つまり、イエス様が期待しているように、弟子たちはイエス様がどういうお方なのかを悟ることができるようになっていくのです。
もちろん、イエス様が復活する前の段階では、ペテロにしても他の弟子たちにしても、まだはっきりとはイエス様がどういうお方なのかを悟ることができていません。ペンテコステの日に、ようやく、はっきりと心の目が開かれるのです。しかし、イエス様が十字架にかかる前の段階においても、主イエスの弟子たちは、ぼんやりとした状態かもしれないけれど、イエス様がメシアだということは理解できているのです。
今日の箇所の出来事には、目の見えない人が出てきています。この人は、ただただイエス様の憐れみによって、目が見えるようにさせて頂けるのです。このことから、聖書は私たちの霊的な目を開かせてくださるのがイエス様なんだ、ということを示そうとしています。しかも、今回の出来事の場合は、この人自身に信仰があったから見えるようになったのではなく、イエス様の一方的な愛のみわざによって、見えるようになったことが示されているのです。
私たちが救われるかどうかは、イエス様を信じる信仰があるかどうかにあります。しかしながら、心の目が開かれ、信仰を持つようになるかについては、神様側の一方的な憐れみによる、そういうことがよく表れているのが今日の箇所なのです。
I 連れてこられた目の見えない人(22節)
22節から順番に見ていきます。
ベツサイダというのは、ガリラヤ湖の北側に位置する漁師が多く住んでいた村です。ヨハネの福音書によると、元々ペテロたちが住んでいたのがこのベツサイダだと記されています。ですから、ペテロたちにとっては、よく知っている村に帰ってきた、そういう印象を持ったことでしょう。
イエス様と弟子たちがベツサイダに到着すると、目の見えない人がイエス様のもとに連れてこられたのです。
目の見えない人を連れてきた人々は、すでにイエス様が様々な病人を癒したという事実を知っていたのでしょう。そして、イエス様ならば、たとえ目の見えない人でも見えるようにする事ができると確信していたのでしょう。それで、目の見えない人をイエス様のもとに連れて来たのです。
ここで注目したい事は、目の見えない人が直接イエス様に「私の目を癒してください」と願い出たのではなく、彼を連れてきた人々がイエス様に「彼にさわってください」と願いでたことにあります。
つまり、自分の意志によってイエス様のもとに行った訳ではないのです。彼の事をなんとかしてやりたい、と感じていた周りの人々によって連れてこられたのです。この所から、考えさせられることがあります。しばしばイエス様を信じたその喜びを周りの人々に伝えたい、その思いから自分の友人・知人・家族を教会に誘いたい、そういう気持ちにさせられる人々がおられます。その背後には、「イエス様に出会うならば、この人の人生がすばらしいものとなる。」そういう確信があるがゆえの行動だと思われます。
すべてのクリスチャンが、自分の周りの人を教会に誘う訳ではないにしても、少なくとも、自分が救われている喜びで満たされる時、周りの人にもその喜びを知ってほしいという気持ちが湧き出てくるのではないでしょうか。
ずいぶん昔に読んだ本のタイトルに「主の喜びに満たしてください」というのがありました。ある英国の説教者が書いた本ですが、世界中の言語に翻訳されていて、多くのクリスチャンの信仰の成長のために役に立ったと言われています。今でも、人々に影響を及ぼしている事でしょう。
ちょうど私が二十歳ぐらいの頃、主の喜びで満たされる事がどういう事なのかが分かりませんでした。だからこそ、この本を真剣に読んで自分も主の喜びで満たされるようになりたいと願いました。すると、割と早い段階で、その祈りが聞かれ、賛美をしたい気持ちが強くなったり、聖書を読むことが楽しくなり、更には、自分の周りの人々にもイエス様を信じてもらいたいと願うようになりました。神様から勇気が与えられ、思い切って友達を教会に誘ってみました。すると、割と簡単に教会に来てもらえた。そういう事を経験しました。
残念ながら、一度教会に来てもらえたからと言って、その人が続けて教会に来てくださる訳ではなかったのですが、振り返ってみると、クリスチャンが誰かを教会に誘うためには、まず自分自身が「主の喜びで満たされる体験」をしている事が重要だということに気づかされたのです。
私たちが、日々の生活の中で神様から受けている恵みの一つひとつを思い起こす時、感謝な気持ちがあふれてきます。また、様々な場面で神様が守ってくださっている事実、支えてくださっている事実に気づかされます。そのような事を思い起こす時、周りの人々にも「この福音」を知ってほしいという願いが強くなっていくのではないでしょうか。
聖書の箇所に戻りますと、目の見えない人をイエス様のもとに連れてきた人々が誰であったのかは分かりません。名前が記されていないのです。でも彼らは、イエス様には目の見えない人を癒す力がある事を確信していたゆえに、自信をもって、目の見えない人をイエス様のもとに連れて行ったのでしょう。
II 村の外に連れ出された目の見えない人(23節)
23節に進みます。
今回の場合、イエス様は、目の見えない人を村の外に連れて行くことにしました。推測するに、ベツサイダの村の中では、大勢の人がいて、静かにこの人とコミュニケーションを取るのが難しいと判断したのでしょう。
そして、イエス様は二人だけの状態になると、順を追って癒しのみわざをなしていくのです。イエス様はまず最初に目の見えない人の両目に唾(つばき)をつけました。これは目を癒すために必要な動作というよりも、むしろ、目の見えない人がイエス様に何かをしてもらっていると実感できるようにと、敢えて、唾をつけるという行動を取ったのでしょう。
というのも、イエス様は言葉によって「あなたの目は癒された」と宣言すれば、瞬時に目を癒すことができるお方です。ですから、イエス様の力を用いれば、わざわざ目に唾をつける必要がなかったのです。けれども、敢えて、回りくどい動作を加えたのは、イエス様なりの考えがあったのでしょう。恐らく、イエス様は、単にこの人の目を癒すだけでなく、それ以上の事をしようとしていたのでしょう。
つまり、イエス様がどのようなお方なのかを悟らせるために、丁寧に、目の見えない人にも理解できる方法で、癒しのみわざを進めていったのです。
私たちが救われた時のことを考えてみましょう。すべての人が必ずそうだとは言えないものの、多くの人々は、すでに救われたクリスチャンを通して、神様の愛がどういうものなのかを感じ取る、そういう段階を通ったのではないでしょうか。一瞬で、イエス様の十字架が自分のためだったんだと信じることができれば、それはそれで感謝な事ですが、人の心の目が開かれるのは、何度も何度も、神様の愛を受け続けた後に、ある時、聖霊の働きによって、イエス様の事を信じることができるようになっていた。そういうケースが多いのではないでしょうか。
もちろん、例えばクリスチャンホームの場合、物心がついた頃に、いつだか分からないけれどもイエス様を信じていたと証しする人もおられます。ですから、一概に言えないものの、しかし、1回、イエス様の話を聞いただけで信じました、という人は、それ程多くはないと思うのです。
さて、23節の後半部分において、イエス様は彼の両目に唾をつけた後、両手を当てて「何か見えますか」と尋ねました。このようにして、イエス様は一つひとつの事を丁寧に進めていくのです。
III 主イエスによる2段階の癒し(24~25節)
続いて24~25節に進みます。
24節では、彼の目が見えるようになった事が記されています。今まで目が見えなかった人が、イエス様の力によって見えるようになったのです。彼は「人が見えます。」と答えます。ただ、まだ完全に見えているとうよりも、ぼやけた状態でした。しかし、それでも、この人にとっては驚くべき事だったと思うのです。
というのも、今まで全く見えなかったのが、完全ではないものの、誰かが歩いているのを見ることができるようになったからです。これだけでも、彼にとってはすばらしい癒しの体験だと言えるでしょう。しかしながら、イエス様は、更に踏み込んて、完全に癒されるために、次の動作に移るのです。すなわち、再び、彼の両目に手を当てられたのです。その結果、はっきりと見えるようになったのでした。
皆さんの中には、どうしてイエス様は1回目で完全に癒すことができなかったのだろうか。そういう疑問を感じる人がいるかもしれません。私も、どうしてなのかを考えてみました。けれども、結局のところ、イエス様の何らかの意図があって、敢えて、2段階に分けて、この目の見えない人を見えるようにして下さった、そういう事なのだろうと感じるのです。
そうだとすると、そのイエス様の意図は何なのでしょうか。
この癒しの出来事は、主イエスの弟子たちが「まだ悟っていない事」に対して、この目の見えなかった人が霊的に悟ることができるようになったことが示されています。この事は、目の見えなかった人が特別に信仰があったという事ではなく、イエス様の一方的な憐れみによって、霊的な目を開かせてもらえた事実を示そうとしているのです。
人というのは、1回、イエス様の愛に触れただけでは、まだまだ、完全にはイエス様の事を理解することができない、そういう部分があります。ですから、何度も何度も、イエス様の愛に触れる必要がある。そして、最終的には、つまり、私たちが天に上げられる時には、イエス様がどういうお方なのかをはっきりと理解できるようになる。そういうことを示そうとしているのではないでしょうか。
イエス様が人々に語った福音のことばは、私たちに慰めや励ましを与える力があります。私たちが思い煩っていたとしても、みことばによって力が与えられ、日々の生活の苦しみや困難を乗り越えることができるようになります。しかし、だからといって、神様が私たちに示そうとしている霊的真理を完全に理解できているかというと、そうではないのです。
イエス様は、そのような私たちの性質を知っていて、その事を理解させるために、この目の見えない人の目を瞬時で癒すのではなく、2段階に分けて、癒しのみわざをなしたのでしょう。
IV 間違ったうわさが広がるのを心配した主イエス(26節)
最後26節に進みます。
イエス様は、癒された人に対して「村には入っていかないように」と言われました。どういう事なのでしょうか。実はマルコの福音書全体を見渡す時、幾つもの箇所で似たような事が記されています。それらの事を踏まえて考えていくと、どうやらイエス様は、自分が行なった奇跡や癒しのみわざに対して、単なる病気を治す人だとか、不思議な力をもっている人、という表面的なことだけが人々に広められることを警戒していたようです。
というのも、人々がイエス様がどういうお方なのかを悟っておらず、イエス様が伝えたい福音の意味を理解できていなかったからでした。つまり、これから後イエス様が十字架にかかろうとしている。そして、その十字架は人々の罪のためなんだということについて、何も悟っていなかったからでした。
この事は、今の私たちの時代においても、教会が気をつける必要がある事を示そうとしています。確かに、私たちが神様に祈りをささげる時に、病気が癒されたり、悩んでいた事が解決されたりします。しかし、イエス様が地上に遣わされた本当の目的は、私たちの罪の身代わりとなって十字架にかかることでした。だから、病気が癒された事や神様が祈りに応えて下さったことを大胆に証しするのは良い事なのですが、十字架の福音がぼやけてしまうような形でイエス様がどういうお方なのかを語らなかったならば、誤解を与えてしまう危険があるのです。
確かに、私たちが誰かに伝道をしていく時に、いきなり十字架の話をしても、相手が受け入れてくれる可能性は低いと思われます。ですから、まずは良い人間関係を築いていき、私たちが神様の愛の大きさを伝えていく中で、福音の本質を伝えるタイミングを見極める、そういう知恵も必要かと思われます。ここには、神様のタイミングを見極める事ができるように、日々の生活の中で祈り続ける事が求められています。そして、ここが重要なのですが、人々の心の目を開くことができるのは、あくまでもイエス様なのです。
イエス様が私たちの心に働く時、私たちは、イエス様がどういうお方なのかを霊的に悟ることができるようになるのです。
まとめ
神様がその人自身に働くときに、人は神の愛の大きさに触れ、イエス様がどういうお方なのかについて霊的な目が開かれていきます。つまり、イエス様の十字架の福音を信じる事ができるようになります。
では人々の霊的な目が開かれていくために、すでに救われている私たち一人ひとりができる事は何なのでしょうか。冒頭でもお話ししたように、まずは私たち自身が、「主の喜びで満たされる事」を体験することにあるのです。そうすれば、自然と周りの人々に対して、積極的にイエス様の事を信じてもらいたいとの願いが出てくるのです。
一人の人が救いに導かれるためには、多くのクリスチャンの祈りと愛のある行いが必要となります。しかし、最終的にはイエス様の力によって、言い換えると、聖霊の働きによって、人の心の目が開かれていくのです。
お祈りいたします。
