・説教 ルカの福音書21章1-5節「自己からの解放」
2026.01.04
鴨下直樹
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新しい年を迎えました。今年、私たちは年間聖句としてヨハネの黙示録21章5節の「見よ、わたしはすべてを新しくする」とのみ言葉が与えられています。
先日の元旦礼拝の時にこの箇所から説教しました。そこで、私は「私たちが新しくされるのは、悔い改めの先に、神は新しい事柄を備えておられる」という説教をいたしました。説教全体としては、それほど厳しい説教ではなかったと思っていますが、説教を聞かれた方は、厳しい説教という印象を持たれた方もあったかもしれません。
「悔い改め」という言葉を聞くと、どうしても自分の振る舞いを反省して改めなければならないという部分に心が向いてしまうと思うのです。けれども、悔い改めというのは、私たちが変えられていくとても大切なきっかけです。これはまさに恵みであるということをぜひ知っていただきたいと思っています。
今回、予定表にはルカの福音書の20章45節からとなっていました。しかし、前回の説教で、45節から47節も同時にお話ししたこともあって、今回は21章からといたしました。しかし、今日の箇所ではやはりどうしてもこの45節からの流れがとても重要です。この45節以降で、主イエスは人前で見栄をはる律法学者に警戒するようにと話しておられます。聖書のみ言葉に従って生きているはずの律法学者たちは、神のみ前の歩みということを忘れてしまって、人の前で自分を装う人となってしまっていることを戒めておられます。
この律法学者たちは自分たちがやっていることが、神の前に問題のある行動だということにさえ気づいていないのかもしれません。主イエスにこう指摘された時、律法学者たちは腹をたてたはずです。はらわたが煮えくり返るような憤りを覚えたかもしれません。けれども、その心の中では、「これの何が悪いのか? みんなやっていることだ」と考えていたかもしれません。あるいは、「私たちは、人々に聖書に従って正しく生きる姿を示しているのだ」と考えていたのかもしれません。
人々は律法学者たちのことを尊敬していました。「自分たちはなかなか聖書の教えを理解していたとしても行うことができない。けれども、この先生たちは神の前に忠実に生きている人たちだ」と考えていたのです。人から尊敬され、人からもてはやされ、人から褒められる生活というのは悪い気はしないものです。そういう生活が続いていくと、人からどう見られるかに心が向いてしまい、神のみ前でどう見られているかを考えることができなくなっていきます。そうして、この律法学者たちは、困っている人に親切にするという姿勢で、「やもめの家を食い尽くした」と主イエスは言っているのです。善人のふりをして近づき、弱い人に寄り添うふりをしながら、その人たちに養ってもらうようなそんな有様だったというのです。
聖書の専門家である律法学者たちでさえそうであったのですから、他の人はそのような生き方が間違っているとはなかなか気が付かないのです。
この律法学者の姿というのは、「神の前で悔い改めをすることを忘れてしまった人の姿」と言うことができます。主イエスはこのような姿にとても心を痛めておられるのです。
そのような律法学者たちの姿を嘆いておられる時に、主イエスは宮の中で一人の人の姿が目にとまりました。金持ちたちが献金箱に献金している姿を見る中で、一人の貧しいやもめの献金する姿が目に飛び込んできたのです。その人はレプタ銅貨を2枚献金の箱に投げ入れたのでした。まさに、律法学者たちに食い尽くされている人と主イエスが言われたその人が、神殿にやってきて、そのなけなしのレプタ銅貨を献金したというのです。
金持ちたちが得意顔で献金しているその側で、やもめが銅貨2枚を捧げたのです。レプタ銅貨というのは、当時のお金の中では最小単位です。私たちは1年玉が最小単位ですが、銅貨だと10円ということになります。主イエスはその姿をご覧になられて、こう言われました。3節です。
まことにあなたがたに言います。この貧しいやもめは、だれよりも多く投げ入れました。
この話は理屈では良く分かるのです。確かに、この人は自分の手持ちのお金のすべてを捧げたかもしれません。けれども、そこで私たちはこう考えるかもしれません。「銅貨2枚ではどうせ何も買えない、無いも同然の金額なのでそのお金を献金したとしてもそれほどすごいことでもない」と。
そこで、当時のお金の価値をすこし考えてみました。レプタという単位は1デナリの28分の1という価値なのだそうです。1デナリは大人の一日の労働賃金です。よく1デナリは1万円程度と考えられます。そうすると、1万円の28分の1は357円。1レプタは357円だとすると2レプタは704円ということになります。
もう少し現実的な計算をしてみると、今の岐阜県の最低賃金は1時間あたり1065円なのだそうです。よく見かけるのは1時間1100円という時給です。それでいくと、一日8時間労働だと8800円です。これの28分の1だと314円なので、レプタ2枚だと628円。そうすると、一食分くらいはなんとかなりそうな金額ということになります。
こうすると、明日の食べ物を買えるお金があるか分からない人が、レプタ2枚を捧げるということが、どのくらいのことであったかもう少しリアルにイメージできるかもしれません。
そこで考えるわけです。「自分にできるのだろうか?」と。やもめというのは、こういう時代の人ですから、収入がいつ入るか分からないような立場の人です。そんな中で、自分のなけなしの生活費すべてを神様に捧げることが、どれほどの意味を持つか。
昨年の芥見教会の総会の時に、一年間の予算を立てました。一応、前年度の実績に基づいて予算を立てるのですが、特に昨年は厳しくなることが予想されていました。必要な分を予算として計上するわけですが、それだけ収入がある根拠が何もないのです。
会計報告を見ていただくと分かることですが、そのような中で、予算を大幅に上回る献金が与えられています。これは、本当にみなさんがまさに、このやもめのような思いで献金してこられたことのあらわれと言えるかもしれません。
礼拝献金の時に、私たちの教会では必ず一年に一度は「献金の祈り当番」が回ってきます。多くの方は何を祈ろうかと、いろいろ悩みながら祈りをしてくださっています。その祈りの中でよく出てくるフレーズがあります。「今私たちはわずかばかりの献金をお捧げしました」という祈りです。多くの方がそう祈るので、そう祈ったら良いのかなということで、受け継がれている祈りの言葉なのかもしれません。その祈りをする時に、心の中にある思いは、実際に「今捧げた献金はわずかです」という思いがあるかもしれません。あるいは、その時に、このやもめのささげ物を思い出しながら、この祈りをするのかもしれません。
主イエスが、このやもめの本当にわずかばかりの献金をする姿をご覧になられて、「この人は誰よりも多くのささげ物をした」と言ってくださる姿を私たちは思い起こすのです。そして、主イエスは私の生活の大変な中でしている献金ですという思いを受け止めてくださるに違いないという思いがあります。その思いに支えられながら、私たちは祈るのかもしれません。
あるいは、この律法学者たちのようにどこかで自分が捧げたもののことが気になっていながら、そう口にすることで謙遜さを表すことができるのだと考えることも起こり得るのかもしれません。その心の中にある思いは誰にも分かりません。ただ、主ご自身だけがご存じです。ただ、こういう説教をする時に難しいのですが、このやもめの姿をあまりにも理想化してしまうと、持っているものは全部献金しなければいけないのではないか? というプレッシャーをどこかで感じてしまうかもしれません。しかし今日の主題は献金ではありません。そのささげ物をする時に、どんな思いがあるのかということに目を向けていただきたいのです。
明らかなことはここでささげ物をしたやもめは、どういう動機があったのかは分かりませんが、自分に与えられているものの全てをささげても良いと思ったのでしょう、自分のわずかなお金を全てささげています。神のみ前で、自分の将来の不安や、この先の自分の生活がどうなるのか? ということがあるはずなのですが、そのような将来の不安から自由になってささげ物をしています。ここに、やもめの信仰の姿が見えるのです。
このやもめの姿に、主イエスご自身どれほど慰められたか分からなかったと私は思うのです。主イエスがエルサレムにおいでになられたのは、この後自分自身を神にお委ねして十字架にかけられるためでした。主イエス以外には誰にも理解できないような、神への信頼を表そうとしておられる中で、このやもめもまた、自分のことをまったく神にお委ねして、持っているものを全て捧げてしまう、そういう信仰の姿を、主イエスはここで見出すことができたのです。まさに、これこそが信仰の姿であると主イエスは思われたと思うのです。この姿に励まされたのだと私は思うのです。ここに、自分のことから自由になっている一人の小さな信仰者の姿が見えるのです。
今日、私は一つのお祈りを紹介したいと思います。それは、マザー・テレサの祈りです。マザー・テレサのことを多くの方は知っておられると思います。マザー・テレサはインドのコルカタで貧しい人々や病気の人々に寄り添い、行き場のない人や死を待つ人を看取り、最も貧しい人に寄り添うことを大切にしていた、カトリックの修道女です。この人は、ノーベル平和賞を受け、現代の聖人として数えられている人でもあります。
このマザー・テレサの祈りの中に「自己からの解放」という祈りがあります。それを、みなさんに紹介したいと思います。
「自己からの解放」 マザー・テレサ
主よ、私は信じきっておりました。
私の心が愛にみなぎっていると。
でも、胸に手を当ててみて、本音に気づかされました。
私が愛していたのは、他人ではなく、他人の中に自分を愛していた事実に。
主よ、私が自分自身から解放されますように。
主よ、私は思い込んでおりました。
私は与えるべきことは何でも与えていたと。
でも、胸に手を当ててみて、真実が分かったのです。
私の方こそ与えられていたのだと。
主よ、私が自分から解放されますように。
主よ、私は信じきっていました。
自分が貧しいものであることを。
でも、胸に手を当ててみて、本音に気づかされました。
実は思い上がりと、ねたみの心に私がふくれあがっていたことを。
主よ、私が自分自身から解放されますように。
主よ、お願いいたします。私の中で天の国と、
この世の国々とがまぜこぜになってしまうとき
あなたの中にのみ、真の幸福と力添えとを思い出しますように。
マザー・テレサのような人でさえ、このような祈りをしていることに、私たちは驚きを覚えます。祈る時に自分の胸に手を当ててみると、自分の中に自分自身を大事にしている醜い自分の姿があることに気づくというのです。この人は本当に、人に良く見られたくて活動していたのではないことがよく分かる祈りとも言えます。
マザー・テレサは、その働きの中で祈る時に、自分の中にある醜い思いに気づくことがある。そして、そんな時にそのことに気づくなら、神に祈って、そういう自分から解放される道があることを知っているのです。
悔い改めが、自分を自由にすることだということを知っているのです。自分の醜さを見つめつつ、それを神様にお委ねして、そのような思いから解放されることを願っているのです。
自分のことを神に委ねる祈り、それが悔い改めの祈りです。この貧しいやもめの振る舞いは、まさに自分のことを神にすべてお委ねするささげ方でした。大切なことは、お金の金額ではないのです。「その心がどこにあるか」です。
主イエスは、私たちの心をご覧になられるお方です。そして、このお方は、私たちのことをより良く導いてくださるお方でもあられます。この主に、信頼し、お委ねする。ここに信仰の姿があるのです。私たちの主は、私たちの生活のすべてを受け止め、私たちを支えてくださるお方なのです。
お祈りをいたします。
