・説教 マルコの福音書11章12-25節「戦う主イエス」
2019.01.27
鴨下 直樹
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今日の説教題を「戦う主イエス」としました。戦っている主イエスのイメージというのは、私たちが心惹かれる主イエスのお姿とは少し違っているかもしれません。私たちは、主イエスのお姿を見る時に、人を慈しみのまなざしで見てくださるお方、人を癒し、人を受け入れ、赦してくださるお姿に安心します。慰めをそこに見出すことができます。けれども、ここで出てくるような、いちじくの木を叱りつけ、呪われるお姿や、神殿の境内で商売をしている人々の台をひっくり返して怒るお姿というのは、あまり心惹かれるということはないわけです。だいたい、人が怒っている姿を見て、それが好きという人はそれほど多くはないと思います。
けれども、この戦う主イエスというお姿は、私たちが信仰の歩みをしていくなかで深く心に刻む必要のあるお姿です。そして、ここに深い慰めがあるということを私たちは今日、心に刻みたいと思うのです。
主イエスは何と戦っておられるのでしょう。今日の聖書を見ると、特に、いちじくの木に向かって叱りつけておられるお姿には理不尽ささえ感じます。12節で「イエスは空腹を覚えられた」と書かれています。よく、「男の人はお腹が空くと機嫌が悪くなる」などと言います。主イエスも例外ではなかった。そう考えれば、男性陣は少しそういう気持ちを正当化できる気がするのかもしれません。けれども、もちろん、聖書はそんなことを語りたいわけではありません。
葉っぱは青々として見せかけは立派だけれども、実の無いいちじくと、祈りの場である神殿で神への思いはそっちのけで商売にいそしむ人々の姿。この両者のあり方に対して主は戦っておられるのです。それは、つまり見せかけだけの信仰との戦い、あるいは神に期待しない信仰に対して、主イエスは戦っておられるということなのです。
たしかに、実のなる季節ではないのに、実を実らせていないいちじくに腹を立てることは非常識なことです。私たちはこの常識というものに支配されて生きています。もちろん、それは大事なことです。非常識なことを期待して生きている人は、夢見がちな人などと考えられてしまいます。けれども、神は、私たちの常識を打ち破ってことを行われるお方です。すべて自分の手のうちにあることを期待するのであれば、それは神の御業としては何も起こらないことと同じです。葉は青々としていて見かけはよくても、それだけではいちじくの実を楽しむことはできないのです。神は、私たちの思いを超えて働くのです。 (続きを読む…)