2019 年 1 月 13 日

・説教 マルコの福音書11章1-11節「主がお入用なのです」

Filed under: 礼拝説教,説教音声 — susumu @ 17:14

2019.01.13

鴨下 直樹

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 マルコの福音書も今日から第11章に入ります。主イエスの一行が、いよいよエルサレムに入ってくるのです。そして、今日の箇所はそのことが記されているところです。

 特に、読み始めるとびっくりすることが書かれています。エルサレムに入る前に、ベテパゲとベタニヤという町に着いた時に、主イエスは二人の弟子を遣わして、子ろばを借りてくるようにと言われました。2節です。

「向こうの村へ行きなさい。村に入るすぐ、まだ誰も乗ったとこのない子ろばが、つながれているのに気がつくでしょう。それをほどいて、引いて来なさい。」

 こうやって読むと、気になることがいくつか書かれています。まず、「まだ誰も乗ったことのない子ロバ」っていうのは、どうやったら分かるんだろうかと思うわけです。けれども少し考えてみると、どういうことか分かってきます。まだ誰も乗せられないと思えるほどに小さいロバということなんだと思うのです。そうすると、そんなロバをどうするつもりなんだろうかという疑問が浮かびます。しかも、つながれているのをうまい具合に見つけることができるのか、もし見つけることができたとしても、勝手に連れて来てしまっていいのかということも気になるわけです。どういうことなのでしょうか。

 結論から言うと、これは主がすでに備えておられたということです。3節にこうあります。

「もしだれかが、『なぜそんなことをするのか』と言ったら、『主がお入用なのです。すぐに、またここにお返しします』と言いなさい。」

 ここに「主がお入用なのです」と言いなさいと書かれています。これは、主イエスご自身が、ご自分のことを「主が」と言われたとても珍しい箇所です。主ご自身はここで、「主」として、この世界の造り主であり、支配者であるお方ということを自覚しておられるわけです。主として、これから子ろばを用いて、エルサレムに入場しようとしておられるわけです。そして、まさに主がこの子ろばを必要としておられる。それは、旧約聖書のゼカリヤ書の9章9節にこう書かれています。

娘シオンよ、大いに喜べ。娘エルサレムよ、喜び叫べ。見よ、あなたの王があなたのところに来る。義なる者で、勝利を得、柔和な者で、ろばに乗って。雌ろばの子である、ろばに乗って。

このゼカリヤ書に書かれているように、神はすでにこのことを預言しておられ、この出来事を神は前から備えておられたのです。そのことが、ここで実現しているのです。ここで「主が」と書かれている言葉が示しているのは、この出来事を主が、神がすでに備えておられたということなのです。これからエルサレムで起こることは、すべて神の御計画であり、主ご自身がそのために働いておられるのです。

 けれども、そのようにして主自らが備えておられるのですが、それは人が願っていることとはかなりかけ離れていたということが、ここから明らかになってくるわけです。

 主イエスがエルサレムに入られるとき、そのお姿は、弱々しそうな子ろばにまたがっての入場であったことがここに記されています。この時代の人々は主イエスに大きな期待を抱いていました。確かに人々は大歓声とともに主イエスをエルサレムに迎え入れます。けれども、その姿は人々の期待と大きくかけ離れていました。颯爽と軍馬にまたがって、ローマをエルサレムから追い出すような、ダビデの再来のような救い主を期待していたのです。しかし、主イエスは子ろばにまたがっての入場だったのです。

 クリスマスにお生まれになられた救い主は、ベツレヘムの馬小屋でひっそりと生まれられたのと同じように、「平和の君」と呼ばれると言われた主イエスはここで、まさに戦いには似つかわしくない子ろばにまたがってエルサレムに入られたのです。私はこの場面を想像するときに、ドン・キホーテとサンチョパンサの姿を思い起こすのです。かたや、さっそうと馬にのったドン・キホーテに対して、従者のサンチョパンサはろばに乗っている。そんな滑稽さが、ここにあるわけです。
 最近の聖書学者はこの時、群衆が「ダビデの子にホサナ」と言って叫んでいたのも、主イエスに対してではなくて、いつも過ぎ越しの祭りのためにエルサレムを訪れる人々は、詩篇118篇を歌いながらエルサレムに入ってくるので、主イエスのことをあまり理解しないで歌っていたのではないかと説明する人もあります。けれども、マルコが描こうとしているのは、たまたま人々が叫んでいる中に、主イエスが入場してこられたということではないのです。

 「ホサナ」というのは、「主よ、救ってください」という意味の言葉です。たしかに、その言葉はエルサレムに入場する際の都のぼりの歌として歌われた歌です。けれども、人々は期待を込めてそう叫んでいる。主イエスは力強い王としてではなく、ゼカリヤ書にかかれているような「柔和な王」や、クリスマスに御使いが告げた「平和の君」として描かれ、弱く、今にも倒れてしまいそうな子ろばにまたがってエルサレムに入られたのだということを、マルコは書いているのです。

 このお正月にたくさんの年賀状をいただきました。その中に、隣の可児教会の脊戸先生の年賀状に、定年のお祝いで、北海道の旭川にある三浦綾子記念館を訪れたという写真が目に留まりました。その年賀状を見ながら、もうずいぶん前に学生キャンプで北海道に行ったときに、そこを訪ねた時のことを思い出しました。ここにも行かれたことのある方があるでしょうか。そこに今もあるか分かりませんが、その時入口の展示ケースに置かれていた綾子さんが夫の三浦光世さんに送った本の裏表紙に感謝のことばを寄せている言葉のページが開かれていました。

 私はもう帰るというときに、その言葉が目に飛び込んできたのでとても印象深く覚えているのですが、そこにはこう書かれていました。

あなたの歩みから大きく遅れての歩みですが、堪忍してください

1994.10.21 三浦綾子

岩のごとき信仰の 光世様

 そう書かれていたのです。三浦光世さんと綾子さんというのは、本でもわかりますけれども、おしどり夫婦という印象です。けれども、この言葉は少し綾子さんが卑屈になっているような言葉のように読めるわけです。1994年というのは綾子さんが72歳の時で、『銃口』という作品を書かれた年です。ただ、この10月というのは『この病をも賜ものとして』としていう本の出された時です。もう記憶もあいまいですし、どの本に書かれたものなのか今となっては分かりませんが、おそらくこの時に出た本に書かれたものだと思います。まさか、綾子さんも夫に送った言葉が、人目に触れるとは思っていなかったと思うのです。

 ここに書かれている言葉、「あなたの歩みから大きく遅れての歩みですが、堪忍してください」、ここにはまさに自分の弱さに苦しみながら、夫に対して憧れをいだいているのか、あるいは単なる嫌味なのか、私には判断できないのですが、どんな思いで綴ったのだろうか。そんなことを考えてしまいます。

 キリスト教文学の偉大な人物として、あるいは立派な理想的な夫婦としての二人の姿というのは、いつのまにか私の頭のなかで作り上げられているのかもしれないということに気づかされました。そして、だから、三浦綾子さんの言葉は魅力があるのだということにも気づかされるわけです。高見から見下ろす言葉を語るのではなくて、同じところに立っている者が、弱く、ちいさい者が獲得した言葉だからこそ、魅力を持っているのだということに気づかされるのです。

 この三浦綾子さんが書かれた本の中に『ちいろば先生物語』というのがあります。ちいろば先生というのは、一日一章というディボーションの本を書いておられる榎本保郎(えのもとやすろう)先生のことです。この教会でも榎本保郎先生の本で聖書を読んでおられる方があるかもしれません。この三浦綾子さんが書かれた榎本先生の伝記にはこう書かれています。神学生の時のことです。神学生の仲間でその後生涯の友だちとなった林という人が出てきます。この人にこの聖書箇所を読んだ感想を語っているのです。
「林、ぼくここを読んで、胸がとどろいたわ」
「胸がとどろいた?何でや?」
「向かいの村に行けと、イエスさまは言わはったな。僕の生まれ育ったところは淡路島や。本州から言えば向かいの村や」
「それもそうやが・・・それで?」
「ぼくはなあ、イエスさまが、何で子ろばなんぞに乗ろうと思ったんか、考えたんや」
「なるほど」
「ええか、林、しかもイエスさまはな、一度も人の乗ったことのない子ろばに乗ろうとなさったんや。ぼくがな、もし何かに乗ろうと思ったら、ろばなんぞには乗らん。馬に乗るやろな。嘘かほんとか知らんが、ろばは愚図な、魯鈍な動物やと聞いとる。ぼくなら、ろばには乗らん。」
「ぼくもそうやな」
「ところがイエスさまは、一度も人を乗せたことのない子ろばに乗ろうとされた。ぼくなら、せめて何度も何度も人を乗せたことのある親ろばを使うわ。一度も人を乗せたことのないいう以上、ほんとの子ろばや、ろばの赤ん坊や。乗り物としては下の下や。そう思った時、林なあ、僕も人間の中の下の下やと思ったんや。人を乗せたら、何歩で参るかわからへん、そんな力なしや思ったんや。けどな、イエスさまは、小さなろばに乗って、エルサレムに入場なさった。ぼくもな、主の用なりと言われたら、愚図やけど、イエスさまを乗せてどこへでも行こう、そう思って眠られへんかったんや」
 三浦綾子さんは榎本先生が「ちいろば牧師」と呼ぶようになるエピソードとしてこれを記したのです。ここには榎本先生の興味深い洞察があります。

 「主がお入用なのです」と主が必要とされたのはまだ人を乗せたことのないような幼い子ろばだということと、自分を重ね合わせたのです。主がエルサレムに来られるために備えておられる。そのために備えられたのは立派な軍馬や、たくさんの経験を積んだろばということでもない、なんということのない小さな子ろば。こんなものでも主イエスは必要とされるのだということに目がとまったというのです。

 主イエスはここで確かに王としてエルサレムに入場されたのです。けれども、この王は軍隊を持ってはいません。周りにいるのは12人の弱く、まだ物事も分かっていない、主イエスの心も分かっていないような者たちだけです。けれども、このお方がこそが、この世界の王、この世界を救う王として入ってこられるのです。

 私たちはどんな王を求めているのでしょう。私たちはどうありたいと思っているのでしょう。人々は力強い王を必要としていました。私たちとしては、綾子さんのように、光世さんに対する憧れのような、「岩のごとき信仰」を私も持ちたいという思いがあるかもしれません。あるいは、いま少し紹介させていただいた、このちいろば先生のように、ちいさなろばでも大丈夫ということに目がとまるのでしょうか。小さなろばを必要となさる主は、ご自身もまた小さなものであることを示そうとしておられる。私たちには、その主のお姿が目にはいってくるのでしょうか。

 このときのエルサレムの城でホサナと叫んだ人々と、主イエスとの隔たり。人々は確かに王を求めているのです。けれども、この王は今にも倒れるかもしれないような子ろばにまたがった王なのです。人々は次第に、主イエスに対して興味を失っていきます。そこで私たちもまた、問われるのです。私たちはどういう王を期待しているのかと。私たちは失望しないのか。私たちは、本当に主イエスが見えているのか。子ろばに乗られる平和の王を、私たちは期待しているのでしょうか。

 今年の年間聖句のテーマは「平和」です。イスラエルの人々が求めた平和は、ローマ帝国からの解放という平和でした。けれども、主イエスが示そうとされた平和は、神との平和、人々との平和です。

 エルサレムでよくわからないままで「ダビデの子にホサナ」と叫んでいた群衆と、私たちとどれほどの違いがあるというのか考えさせられます。そこで大事なことは、よく見るということ、正しく知るということです。

 小さな子ろばをお求めになる主は、私たちを必要とされるお方だということに目を向ける必要があるのです。私のような小さな者を必要とされるほど、小さな王、それが主イエスなのです。私たちは、たくさんの思い違いをするのです。自分の願いを投影させるような王を思い描くのです。けれども、この主は私たちに語りかけられる。

「主がご入用なのです」と。そして、この主の御用を果たしていくうちに、私たちをお招きになられた主のお姿が見えてくるのです。誤解が取り除かれて、本当の主のお姿が見えてくるのです。そして、気づく時がくるのです。わたしのような小さなろばであっても、主はわたしを必要としてくださったと。そして、自分のような何歩もあるけないような者でも、声をかけてくださって、あなたの助けが必要なのだと声をかけ続けてくださるこの主のことが、本当に嬉しいと思えるようになってくるのです。

 私たちの主は、どこか遠く、高みから招くようなお方なのではなく、いつも隣で寄り添いながら、私たちとともに歩くことを喜んでくださるお方。このお方と共に、平和を築き上げていくのです。

お祈りをいたします。

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