・説教 マルコの福音書 11章27―33節「神の権威と人の権威」
2019.02.03
鴨下 直樹
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今日の聖書の箇所は、神殿の祭司長たちと主イエスが衝突しているところです。私たちもそうですが、時として人と衝突することがあります。人の意見と自分の意見が食い違う。そうすると、どうしても衝突が起こります。いさかい、争い、喧嘩、いろんな言葉で表現できます。私たちは人と言い争う時、どのようにして決着をつけているのでしょう。自分の言い分がある。言い分があるということは、話にスジが通っているということです。少なくとも自分ではそう思っているわけです。それでも、少し落ち着いて相手の言葉に耳を傾けてみる。もし、冷静に言葉を聞けるならですが・・・。そうすると、その相手の言葉にも言い分があり、それなりにスジが通っていることが分かるわけです。人と言い争っている時に、そこまでいくだけでも大変だと思うのですが、そうなってはじめて、自分の言い分と相手の言い分のどちらに分があるかということになるのだと思います。多くの場合は、相手の言葉にも耳を傾けることができず、感情だけをぶつけてしまって、後味の悪い思いをするというようなことをついしてしまっているのではないでしょうか。
今日の聖書はまさに、そういう論争、主イエスと律法学者たちとの論争が起こった時のことが記されています。そして、最終的は「分かりません」と言って、終わりにしてしまっているのを、私たちは見るわけです。
私たちは誰かとそれぞれの意見を交わす時、どうやって決着をつけているのでしょう。これは、毎日のことです。そして、信仰ということで考えてみると、神の思いと、自分の思いとがぶつかる時に、私たちはどうやって決着をつけているのかということでもあるわけで、それは、私たちが信仰の歩みをしていくなかで、常に問われることです。その時いつも「分かりません」と避け続けていくことはできないわけです。相手の意見に身を委ねるのか、それとも自分の思いを貫くのか。その時、私たちは何を手に入れ、何を失っているのか。そういうことをしっかりと分かっている必要があるのだと思います。
今日の出来事は、前の日に、主イエスがエルサレムの神殿で宮清めをなさったという出来事を受けてのことです。主イエスは神殿で商売をしている人たちの商売の台や腰掛けをひっくり返してしまわれました。そして、宮を通って物を運ぶこともお許しにならなかったというのです。それに、対して、神殿側の人間、祭司長や長老が「何の権威によって、これらのことをしているのですか」と問いかけてきたのです。
この「権威」という言葉は「権限」とも訳せるし「権利」とも訳せる言葉です。「何の資格があって」と言うのです。そこで、少しまず整理して考えてみたいと思うのですが、祭司長たちにはどんな「権威」あるいは「権限、資格」があったのでしょう。祭司長というぐらいですから、神殿で働く祭司たちの働きを統括しているわけです。祭司たちの仕事の分担をし、神殿の働きが円滑に進むために、ありとあらゆる管理をしなければなりません。しかも、この時はお祭りの時です。大勢の人々がエルサレムを訪ねて来るわけですから、そういう人々が円滑に神殿で、捧げ物をし、混乱をしないように取りまとめるというのは、とても大変なことだということは想像するのに難しくはありません。
その責任を果たすためには、権限がなければ人を取りまとめることはできません。では、その権限はだれが与えているというのでしょう。大勢の人が神殿で捧げ物をするというのは、律法が定めていることです。ということは、神様がそれを命じておられるわけですから、その権限は神によって与えられたものと考えることはできます。おそらく祭司長はそのように考えていたと思います。
けれども、少し別の視点で考えて見るとこういうこともできます。神殿に捧げ物をするために、確かに律法に定められているわけですが、そこに記されているのは「傷のない子羊を捧げる」ということです。あるいはお金のない、貧しい人であれば「家鳩の雛」を捧げることが許されていました。けれども、遠くから旅をしてエルサレムにやってくるなかで、子羊を連れて来るというのは大変なことです。「傷のない子羊」という条件がつくと尚のこと大変なことです。動物が怪我をしないように慎重に運ばなければならないわけです。あるいは家鳩を捧げるとしても、同じ時期に一斉にエルサレムにやって来て、みなで家鳩を探しても、探している時期が重なれば、見つけるのは至難の業です。
そうなると、誰かが、エルサレムの近くでそれを準備しておいてくれれば、多くの人が助かるわけです。それで、神殿側で羊や家鳩といった捧げ物を準備しておけば混乱がなくてすむわけですから、自然にそうなったと考えられるわけです。皆が必要としているので、神殿側としては、人々の希望に応えたということになるわけです。つまり、人のニーズがそういう働きを必要としているわけで、それに神殿側が応えたということになるわけです。となると、その権威は、人々が自然に認めていった権威ということになります。神殿のどの場所で誰が、何を売るのか、どれくらい場所代をとって、どういうふうにしてその管理をするのか、それはみんな、人が必要としていることに応えるために、その役割を、責任を果たすために、そのための秩序を作るために人間が認めた権威ということになるわけです。
面白いものですけれども、礼拝をすることは神様が求められたことですけれども、それが問題なく行われるようにするために、神殿側でいろいろ考えて対応してきたというのが、実際のところなわけです。人のニーズに応えるということの危険性を私はいつもお話しています。人の必要というのは確かに大切です。けれども、それは神が願っておられる事ではないということは、こういうことからもよくわかると思います。
祭司長はそういうことに気がついていなかったようです。自分たちは神から与えられた権威がある。そう考えていたのです。神によって与えられた権威によって神殿を運営しているけれども、「あなたは何の権威をもって、こういうことを行うのか?」とすごんだのです。
同じように神殿で自分の権威を振るおうとされる主イエスに戦いを挑んだ格好です。もちろん、祭司長に言わせれば、非は相手にあるわけで、自分の側に分がある。自分は正義だと思ったのでしょう。
私たちが人と争う時というのは、そういうものです。自分に言い分があると思うので、文句を言うのです。けれども、それでは物事の一部分しか見えてはいないのです。
先日、あるところでこんなことが起こりました。テレビでおいしそうな鍋の特集をしていました。それを見ていた奥さんが、「今、白菜とダイコンがたくさんあるから、今度鍋でもしようか」と提案をしたのです。ところがそれを聞いていた夫は「えーまた鍋」と答えたのです。それで、喧嘩になったというのです。こんなことは、どこの家庭でも日常的に頻繁におこることだと思います。その奥さんにしてみれば、沢山のもらった野菜を使うにはこれが一番いいアイデアということです。ところが、夫は「また鍋か」と妻の苦労に対する労わりもなければ、感謝の思いもなく、そのまま自分の気持ちで答えたのです。
みなさんの中でもご覧になった方があると思いますが、先日あるテレビを見ていましたら、男と女とではコミュニケーションを取るときに物事を認識する方法が違うのだそうです。そのテレビ番組によると、男の脳には、事実を認識するという線しかないのだそうです。ところが女性にはもう一本の線があって、それは「心の線」という言い方をしていましたが、相手の気持ちを思い量る線があるのだそうです。
今の例で説明をすると、男は「鍋ばかり食べている」という事実の線でしか物事を理解できないわけですが、女の方は、心の線というのがある。自分の気持ちや相手の気持ちを量る線がある。そこで考えるとこうなるわけです。自分としては今あるもので頑張って献立を立てているのに、その努力を受け止めもしないで、夫は文句を言ったということになるわけです。自分の気持ちが受け止められていないということになるというのです。
こういう説明を一所懸命やると、女性側は、だから男はダメなのよということになるのかもしれませんし、男性側はどんどん窮地に立たされることになってしまうのかもしれません。なので、このへんでやめたいと思うのですが、どういうことであったとしても、人は男であっても女であってもなかなか自分の思いを捨てることができないということは間違いないようです。
そこで、興味深いのは、主イエスはそういう時になんと言われたかということです。もう一度、改めて確認しておきたいのですが、ここで言い争っているのは男と女ではありません。神殿側の人間、祭司長や律法学者たちと主イエスです。
主イエスはこう言われました。「わたしも一言尋ねましょう。それに答えなさい。そうしたら、何の権威によってこれらのことをしているのか、わたしも言いましょう。ヨハネのバプテスマは、天から来たのですか、それとも人から出たのですか。わたしに答えなさい。」29節と30節です。
ヨハネの授けていた洗礼は人のニーズに応えてヨハネが生み出したのか、神が求めておられることなのか、とお尋ねになったのです。そして、その答えは明白なはずです。悔い改めること、罪の赦しというのは、神の御心以外の何物でもないのです。けれども、神殿側の人間はよく考えた末「分かりません」と答えるのです。これは、どういうことかというと、自分たちを守ることを選んだということです。神の御心と、自分たちを守ることを天秤にかけて、自分たちを守ることを選んだということなのです。そして、ここに人の弱さをみることになるのです。
主イエスは、何の権威があるのかと問われた時に、ヨハネのバプテスマは何の権威によってかと聞き返すことで、ご自分にどんな権威があるのかを明らかにされました。そして、あなたはどんな権威を持っているのかとも、お尋ねになったのです。主イエスの持っておられる権威。それは、人を赦して自由にするための権威です。そして、「わかりません」と答えた祭司長や律法学者の持っている権威というのは、自分たちの権利を守るための権威だということがここで明らかになったのです。
私たちは、人と異なる考え方を持っているときに、男と女の違いからくる理解の相違だけにとどまりません。自分の思いを放棄して、ほかのものに従うということを選びにくいのです。それは、なぜかと言うと、他を選ぶということは、自分を失うこと、自分の思いが軽んじられる、つまり無駄になるとか、損をすることだと考えてしまうのです。だから、私たちは人と意見が異なるときに、なかなか相手の言う言葉に耳を傾けることに難しさを覚えるわけです。
こういう二つの異なる意見が出る時に、相手の意見を認めにくいのは、相手が神さまであれば大丈夫とはいきません。相手が誰であったとしても、自分を捨てるということを素直に認めることは難しいのです。
では、どうしたら認めることができるのか。それは、権威とは何かということがちゃんと理解できなければならないのです。そして、特にここでは神の権威とは何かということが理解されなくてはならないのです。神の権威とはなんでしょうか。神の権威を認めるとは、自分がどうなることになるのでしょうか。
ヨハネのバプテスマとは何か。それは、悔い改めと罪の赦しだと先程言いました。神が赦してくださる。神は人を赦す権威をもっておられる唯一のお方です。そして、神はその権威を主イエスにお与えになったのです。神の権威というのは、人を自由にするためのものです。その人が縛られているものから解放して、本当に大事なことが何かが分かる。何が大事かが分かると自由になります。自分の考え方を捨てることができるようになります。
神は、私たちにこの自由を知ってもらいたいと思っておられるのです。人の考えと、自分の考えを戦わせて、自分の方が上にいるとか、優位だ、自分の方が頭がいいと言って、人を支配していくと、そこには自由は生まれません。悲しい気持ちと、いつかやり返したい、自分も優位に立ちたいという気持ちが生まれてしまいます。そうなると、人との関係はいつもぎすぎすしてしまいます。
けれども何が大事なことなのかが分かると、その大事なことのために、自分の思いを捨てることができるようになるのです。これが、悔い改めと赦しです。これこそが自由です。
そして、まさに礼拝というのは、この神の思いを知って、悔い改めて、神の赦しを体験するところです。神によって自由になることを味わうことです。それは、私たちが失うものなのではなく、得ることになること。神の赦しを得、神からの自由を得る。そのために主イエスは神からその権限を与えられているのです。その責任を果たすために、十字架にかかる備えがあるのです。
真理は人を自由にするのです。神の権威はそのためのものです。それは人を頑なにするものではありません。人を追い詰めるものでもありません。主イエスの持たれる権威は、私たちを自由にするのです。自分のことしか考えられないことから自由にし、人を愛するために隔てとなっているものを打ち破り、私たちの心に平安を与えるものとなるのです。
昨日、妻が一冊の絵本を買ってきました。よく売れている絵本なのだそうです。一人の男の子が、目の見えない人、耳の聞こえないの人のことに興味をもって、それを体験してみるのです。目をつぶって生活してみると、今まで聞こえなかった音が聞こえてくることを発見します。耳栓をして生活してみると、いままで見えていなかったことにいっぱい気づいたというのです。そしてその子は、両親を地震で失った子のことを分かりたいと思うんだけれども、よくわからなかったのです。すると、今度はその両親を失った子どもが、次の休みの日に、一日動かないでいるということがどういうことかを経験してみて、それがどんなにすごいことか分かったと、その子に伝えにくるのです。その最初の子は、体が動かない子で、いつも車いすで生活している子どもだったということが分かるのです。
相手のことが分かると、いろいろと見えてくるのです。そして、それは神様が考えておられることだと分かると、気がつくことがあるということにも結び付くのです。
神は、私たちに赦しを与え、自由に生きることができるようになることを願っておられるのです。この神の思いを伝えるために、主イエスは天から権威を持って、私たちのところに来てくださったのです。
お祈りをいたします。