・説教 ガラテヤ人への手紙4章1-11節 「解放の言葉」
2012.12.30
鴨下 直樹
クリスマスを迎え、今朝は降誕後第一主日です。教会の暦ではクリスマスを覚えて祝う主の日です。私たちは年末ということもあって、もうクリスマスの気持ちはすっかり抜けて、新年を迎えるための準備をしておられる方々も多いかと思います。私も先週三日間のお休みをいただきました。と言ってもどこかに出かけたというわけではなくて、念願の大掃除をいたしました。牧師室などは何年ぶりかで綺麗になりました。これで気持ちよく新年を迎えられるという思いが私にもあります。けれども、教会の暦ではクリスマスです。不思議な気持ちになるかもしれません。それは、クリスマスはもう終わってしまったことと考えてしまうので、今朝の礼拝ではクリスマスのお祝いなのですよ、と言われてもあまりピンとこないのかもしれません。
今、礼拝ではこのガラテヤ人の手紙を順に学んでいます。そして、不思議にも、ちょうどクリスマスの出来事がここにも記されているのです。四節にこうあります。
しかし定めの時が来たので、神はご自分の御子を遣わし、この方を、女から生まれた者、また律法の下にある者となさいました。
神が定められた時、それがクリスマスでした。その神が定めたクリスマスの時に、神はイエス・キリストをこの世に生まれさせ、イエス・キリストもこの世界の律法、つまり法律のもとに生きる者とされましたと書かれています。ここに一つの大切なクリスマスの意味が記されています。クリスマスというのは、天におられた神であられたお方がこの地に来られて、この世界のルールに従う存在となったのが、クリスマスの意味だということができるわけです。
そして、神がなぜそんなことをなさったのかというと、続く五節で、
これは律法の下にある者を贖い出すためで、その結果、私たちが子としての身分を受けるようになるためです。
となっています。大変、興味深い説明をパウロはここでしています。神の御子であられる主イエスがこの世界のルール、きまりに従うのは、私たちがそこから解放されて神の子とされるためだというのです。
先週の礼拝で、クリスマスを祝いながら洗礼式を行ないました。洗礼というのは、キリスト者として新しく生まれるという意味を持っています。主イエスを信じるまでの生き方は、この世の価値観に支配されながら、みんなが考えるように自分も考えて決断するという生き方をしてきました。この世の考え方と言っても色々あります。自分の生活が第一という人もいれば、人のためになることをしたいと思っている人もいます。ですから、それらを簡単に悪いと言いきることはできませんし、それを一口に言い表すことはできないのですが、パウロはここで、「この世の幼稚な教えの下に奴隷になっていました」とはばかることなく主張します。しかも、ここで「私たちも」とパウロ自身、この世の幼稚な教えに支配されていたと言っています。ここで、パウロはそのようなこの世界の価値観を否定しているわけではありません。神の価値観に比べて幼いのだと言っているのです。 洗礼を受ける前の生き方が、この世の幼稚な教えの下で生きて来た、などと言うと、そうとう多くの人が拒否反応を示すのではないかと思います。
あの宗教改革者のルターの改心の出来事を聞いたことがあるでしょうか。 (続きを読む…)