・説教 ルカの福音書2章1-7節 「居場所のないキリスト」
2012.12.23
鴨下 直樹
クリスマスになりますとさまざまなクリスマスに登場する人物に脚光が当てられます。主イエスの母マリヤ、天使ガブリエル、荒野にいた羊飼いたち、東の国の博士たち、そして、宿屋の主人。クリスマスの劇のことを生誕劇などと言いますけれども、かならず登場する人物たちです。けれども、宿屋の主人といいますのは、聖書を見てみますと、この「宿屋には彼らのいる場所がなかったからである」という記事が載っているだけです。そこから、ああ、主イエスがお生まれになられた時に宿屋にも泊ることができず、それで家畜小屋でお生まれになったのだということが分かるのです。しかし、家畜小屋とか、馬小屋と言われていますけれども、その言葉さえ聖書には出てまいりません。「飼い葉おけに寝かせた」とあるので、飼い葉おけがおかれているのは家畜小屋であろうと推測しているのです。いずれにしても、主イエスがお生まれになられたこのクリスマスの夜、世界はこの赤子を受け入れる場所さえなかったのだと聖書は記しています。これがクリスマスのはじめの出来事でした。
今日、私たちはこの礼拝でクリスマスをお祝いしております。三人の方の洗礼式が行なわれ、聖餐式がとり行われます。クリスマスの賛美を歌い、クリスマスの出来事の聖書に耳を傾けています。おそらく、みなさん今年はいいクリスマスだと思っておられるのではないかと思います。まさに、喜びの祝いです。そういう喜びの出来事の中で、私たちはこの朝、もう一度クリスマスに何が起こったのかということについて考えてみようとしているのです。
ここで何が起こったのか、一番正しく知っていたのは宿屋の主人であったはずです。ベツレヘムの町は当時誰も経験したことのない住民登録のために、どこの宿屋にも人があふれ返ってきたはずです。子どもの劇などで行なわれるときは、宿屋の主人はまだ若いヨセフに臨月を迎えたマリヤたちを見ながら、帰すのも忍びないと思って、馬小屋に泊らせます。実際にそんなところであっただろうと思いますが、宿屋の主人もこの時宿屋に泊めた若い二人が、それほど大事な人物であったなどと思いもつかなかったはずです。もし、後で、「あなたはこの世界の救い主としてお生まれになられた方をお泊めしたのに、何故、どこの場所も用意しないで、そんな馬小屋などに泊めたのですか」などとでも言われようものなら目を白黒させたに違いないのです。「まさか、そんな偉いお方だとは思いませんでした。何かしるしでもあればもっと違う迎え方をしたのでしょうに」と答えたかもしれないのです。あるいは、「いや、その日は忙しすぎてそんなことまったくかまっていられなかったんですよ」と答えたかもしれません。
もちろん、宿屋の主人がどう考えたのかなどということを想像してみてもあまり意味のあることとは言えません。すくなくともこの人は、馬小屋には泊めたのですから、少しばかりの親切な心はあったのでしょう。しかし、この宿屋の主人というのは現代のクリスマスを祝う人の姿をよく表していると言えます。神のみ子が自分のところで生まれているのに、あまりにも無関心なのです。少しの優しさは備えていたのかもしれません。けれども、そうして生まれた赤子が、神の御子であったなどというしるしを前もって知らせておいてくれなければ分からないとか、忙しかったのだとか、いや、精一杯親切にしたつもりだとか、色々言うことはできるかもしれませんけれども、主イエスをお迎えする場所はなかったのです。
先週の水曜日と木曜日に今年最後の聖書学び会が行なわれまして、マレーネ先生がクリスマスの箇所からお話ししてくださいました。そこでマレーネ先生が問いかけられたのは、このクリスマスにイエス様をお迎えする場所を持たなかったのは、教会に来ている私たちも同じなのではないかと問いかけられました。たとえば毎朝聖書の時間を三十分とって読んでいる。それでも、自分の生活の中にイエスさまを迎える余地がなくなっていることがあるのではないかと問いかけられました。私自身、どきりと考えさせられました。牧師であったとしても同じことです。聖書を読んでいても、説教のための準備をしていたとしても、自分の心の中に主イエスを喜んで迎える場所をなくしていることが起こるのではないかと考えさせられました。
今日、三人の方の洗礼式を行ないました。このクリスマスを覚える礼拝の中で洗礼式ができるということは、私たちにとって大変嬉しいことです。信仰の告白をし、洗礼を受けることによって、私は神の御子である主イエスが私のための生まれてくださったのだと、その心に迎えれたことを、こうして私たちは目にしながら喜ぶことができます。
けれども、家に帰っていつもの生活がはじまりますと、洗礼を受けたのはいったいなんだったのかということが起こってしまいます。自分の生活が何も変わっていないのではないかと思える。自分の生活の忙しさの中で、主イエスが入る隙間がなくなってしまうということが起こるのです。それは、誰にでも言えることです。
このクリスマスに生まれた赤子は、天では神の栄光に包まれておられたお方です。天の輝きそのものであるお方が、この私たちの世界に、私たちの生活の中に入り込んでこられた。それは、本当であれば大騒ぎしなければならないようなことです。今年、国体のために天皇が岐阜に来られたということで、あらゆる会社が休みになって、その移動の時間には極力外には出ないようにという通達があったと聞きました。そのために道路を新しくしたり、施設を綺麗にしたりしたそうです。そうやって、この世界の中で尊敬されている人を迎えます。けれども、神の御子がこの世界に来られた時には、新しい道路を造ることもなければ、特別の部屋が新しく準備されることもありませんでした。人は、この方を外に放り出して、馬小屋の中で生まれることをよしとしたのです。そして、言うのです。そのために場所がなかったのだと、忙しかったのだと、いや、精一杯もてなしたつもりですと。
そして、このお方を信じている人であっても、それはさほど変わっていないのです。それは、御子をこの世にお遣わしになられた神にとってどれほど残念なことでしょう。どれほど悲しいことでしょう。
クリスマスの夜に馬小屋の飼い葉おけに生まれられたイエス・キリストの姿は、そのようなほんとうに無関心である私たちの心そのものを表しています。
けれども、この物語はその後に羊飼いたちが登場いたします。東の国の博士たちが出てまいります。彼らはそこで何をしたのかというと、この赤子の前にひざまずいて礼拝をしたというのです。この出来事を目の前にして、自分のほうこそ小さな者であると認めて、膝をかがめたのです。
羊飼いにしても、東の国の博士たちにしても、彼らは神の出来事が起こっているのだということを目の前で知らされました。羊飼いたちには天使が現れ、東の国の博士たちには大きな星が現れたのです。それは、確かに大きなしるしでした。神は、神の御業をこっそりと、誰にも気づかないようなところで行なわれるのですが、しかし、同時に人々の前にご自身のことを明らかにし、神がどのような人を招いておられるのかを明らかにしてくださいました。羊飼いたちは、まさにその夜泊るところも決まっていないような貧しい人でした。どんな貧しい人であっても主イエスの誕生をお祝いすることができるのだと明らかにしてくださいました。東の国の博士たちは、東の国の王であったのではないかと言われています。この人たちは少なくとも貧しい人々ではありませんでした。しかし、明らかに、他の神を信じる、外国の人々です。他の神を信じていようと、ユダヤ人ではない外国の人であろうと、神を礼拝することができると、そのことで明らかにしてくださいました。
つまり、イエス・キリストはすべての人が祝うことが出来るお方として、近づきがたい思いを抱かせるものをすべて取り除いて、誰でも近づくことのできる赤子の姿をとっておいで下さいました。
宿屋には、主イエスをお迎えする場所はなかったのですが、まさにそのことこそが、神が望まれたことだったのでした。すべての人の間にある垣根を取り除いて、主イエスは生まれてくださったのです。私たちのほうに、お迎えすることのできる立派な場所を整えることが出来なかったとしても、このお方は、私たちのところに来てくださるのです。それが、クリスマスです。祝う心の整っていない人々のところに、自らおいでになり、そして、神を礼拝する心を起こさせてくださるのです。そして、すべての人に、神は大きな喜びをもたらしてくださるのです。
すべては神が犠牲を払ってくださったのです。誰も迎えてくれることのないようなこの世に送ったのも、このお方をしっかりと心にお迎えする備えがなかったとしても、神の側ですべてを用意して、このお方は私たちの生活の中に入り込んでこられるのです。
今日洗礼式をいたしました。おそらく、この三人とも、そのことをご自身で経験したのではないかと思います。いつのまにか主イエスを信じる思いにされていたのです。礼拝をする者とされたのです。それはまさに、神がなさったことでした。そして、それゆえに、そのことは、私たちの喜びとなるのです。神が私の人生の中に入って来てくださる。そして、私の生活を整え、神に向かって歩むようにと導いてくださるのです。それは、いつも神が先だってなしてくださるのです。私たちはこのお方を見上げながら従っていくのです。すると、はじめは小さな赤ちゃんであったそのお姿が、やがてはっきりと示されてくるのです。人の犠牲となって、この世界を愛して下さった、あのキリストのお姿へと。そして、わたしたちもそのような愛に生きるものへとすこしづつ変えていってくださるのです。その最初の出来事が、このクリスマスによって私たちにしめされているのです。
お祈りをいたします。