2012 年 12 月 30 日

・説教 ガラテヤ人への手紙4章1-11節 「解放の言葉」

Filed under: 礼拝説教 — miki @ 20:36

2012.12.30

鴨下 直樹

クリスマスを迎え、今朝は降誕後第一主日です。教会の暦ではクリスマスを覚えて祝う主の日です。私たちは年末ということもあって、もうクリスマスの気持ちはすっかり抜けて、新年を迎えるための準備をしておられる方々も多いかと思います。私も先週三日間のお休みをいただきました。と言ってもどこかに出かけたというわけではなくて、念願の大掃除をいたしました。牧師室などは何年ぶりかで綺麗になりました。これで気持ちよく新年を迎えられるという思いが私にもあります。けれども、教会の暦ではクリスマスです。不思議な気持ちになるかもしれません。それは、クリスマスはもう終わってしまったことと考えてしまうので、今朝の礼拝ではクリスマスのお祝いなのですよ、と言われてもあまりピンとこないのかもしれません。

今、礼拝ではこのガラテヤ人の手紙を順に学んでいます。そして、不思議にも、ちょうどクリスマスの出来事がここにも記されているのです。四節にこうあります。

しかし定めの時が来たので、神はご自分の御子を遣わし、この方を、女から生まれた者、また律法の下にある者となさいました。

神が定められた時、それがクリスマスでした。その神が定めたクリスマスの時に、神はイエス・キリストをこの世に生まれさせ、イエス・キリストもこの世界の律法、つまり法律のもとに生きる者とされましたと書かれています。ここに一つの大切なクリスマスの意味が記されています。クリスマスというのは、天におられた神であられたお方がこの地に来られて、この世界のルールに従う存在となったのが、クリスマスの意味だということができるわけです。
そして、神がなぜそんなことをなさったのかというと、続く五節で、

これは律法の下にある者を贖い出すためで、その結果、私たちが子としての身分を受けるようになるためです。

となっています。大変、興味深い説明をパウロはここでしています。神の御子であられる主イエスがこの世界のルール、きまりに従うのは、私たちがそこから解放されて神の子とされるためだというのです。

先週の礼拝で、クリスマスを祝いながら洗礼式を行ないました。洗礼というのは、キリスト者として新しく生まれるという意味を持っています。主イエスを信じるまでの生き方は、この世の価値観に支配されながら、みんなが考えるように自分も考えて決断するという生き方をしてきました。この世の考え方と言っても色々あります。自分の生活が第一という人もいれば、人のためになることをしたいと思っている人もいます。ですから、それらを簡単に悪いと言いきることはできませんし、それを一口に言い表すことはできないのですが、パウロはここで、「この世の幼稚な教えの下に奴隷になっていました」とはばかることなく主張します。しかも、ここで「私たちも」とパウロ自身、この世の幼稚な教えに支配されていたと言っています。ここで、パウロはそのようなこの世界の価値観を否定しているわけではありません。神の価値観に比べて幼いのだと言っているのです。 洗礼を受ける前の生き方が、この世の幼稚な教えの下で生きて来た、などと言うと、そうとう多くの人が拒否反応を示すのではないかと思います。

あの宗教改革者のルターの改心の出来事を聞いたことがあるでしょうか。ルターはある雨の中、ひどい雷の中を走っていました。目の前に雷が落ちます。その時に「聖アンナさま、もしわたしの命が助かるなら、この身をあなたにおささげします」と口にします。それが、ルターの改心でした。「聖アンナさま!」と叫んだのですから、そこにカトリックの信仰がよく表れています。その時に、命をおとさずにすんだルターは、この命は神から与えられたものだという自覚を生涯持ちながら、主に仕える道を選びました。途中で、自分はカトリックとは別の歩むことになっても、その自覚は変わらなかったようです。
ルターは、信仰に生きる前、それこそ「雷の時は、アンナさまに祈れば助けていただける」というような、その後のルターからすれば幼稚な教えに支配されていたわけです。けれども、主イエスに従うようになっても、自分のいのちは神のものであるというこの時に受けた自覚だけはなくなりませんでした。それが、ルターの信仰の支えになったのです。
パウロもここで何を書いているのかというと、自分がキリスト者になる前は、この世界の考え方の下に生きていたと言います。「幼稚な教え」としているのは、何を指すのかはっきりしませんが、たとえば、この時代の人々は世界は土と水、火と風という四つの元素がもとになっているという考え方がありました。そして、それにもとずいて色々な考え方が出て来ました。この四つの元素がもとになって、太陽とか月とか星を支配しているというような考え方があったのです。
私は高校の時に化学科だったので、元素の周期表というのを36覚えさせられました。この36の元素が基礎になっているというわけです。それで「水兵の離別か別の船が来た。なーに間があるシップすぐくらー」などといって、元素の一つ一つ覚えさせられたものです。もっとも全部で36の元素ががあるというのではなくて、全部で118あるとか、最近では172あるなどと言われていますけれども、昔は4つですから実に単純に考えていたわけです。
もちろん、今日のように科学的に説明するということでなくても、この時代に土、水、火、風がもとになって、太陽とか月と星を支配しているというような考えは、今の科学の時代でも同じように考えられていると言えます。たとえば、今日は仏滅なので日が悪いとか、生まれた星が悪い、何々座の人は今日は黄色いものをもつといいでしょうなどというような占いが、必ず朝のテレビ番組のどの放送局のものにも入れられています。家の方角が悪いので、金持ちになりたいなら家の方角を変えると良いとか言ったりします。こういうものは上げればきりがありませんけれども、男だからダメだとか、女はダメとか、若いからダメだとか、年をとっているとダメだなどいうことを口にするとこもあります。運が悪いとか、罰が当たったのだとか、名前が悪いとか、名前の画数がよくないとか、現代の科学的な時代になっても、やっていることはあまり変わっていないのが現状でしょう。
パウロは、この世界を支配しているさまざまな価値基準をここで「幼稚な教え」と言っています。そのようなものに自分も支配されて来たのだと。例外なく、すべての人が形は違っても、さまざまなこの世界の価値観に支配されながら生きて来たのです。
しかも、パウロは聖書の戒め、律法に支配されて来たのですから、自分だけは幼稚な教えには支配されては来なかったけれども、と言ってもよさそうなものですが、ガラテヤの人々の生活習慣であろうと、聖書の律法であろうと、人は実に色々な判断基準によって支配されて来た。けれども、それは、クリスマスにイエス・キリストがお生まれになられて、そのような価値基準を新しくするために、そのような価値基準から人々を贖い出すため、別の価値基準へと導くために主イエスはクリスマスにお生まれになられたのだ、とパウロはここで言うのです。
それが、このクリスマスにお生まれになられたイエス・キリストを信じるという意味なのだと言います。そして、このイエス・キリストを信じる時に、人は新しい価値基準に生きるようになる。それが、神の子の特権なのだと説明しているのです。

その神の子の特権を、ここで「相続人」という言葉で、パウロはこの四章は説明しています。神の相続人になることによって、私たちは新しい価値基準をいただいたのだというわけです。つまり、神のものを頂いたので、この世界の価値基準に支配されないで、神の、天の価値基準で生きることができるようになるのです。あまりにスケールの大きな話ですけれども、それが、キリスト者になるということです。

洗礼を受けるということも、これまでのこの世界の価値基準から、神の、天の価値基準を持つようになるということだと言えるのです。けれども、急に、あなたは天の相続人です。天の価値基準と言われても、実感もあまりなく、よく分からないと感じるのではないかと思います。パウロもそう考えたのでしょう。だから、パウロはここであなたはお祈りする時に「天のお父様」と言って祈っているではないですか?と問いかけます。
神に「お父様」と祈ることができるようになっていることが、もうすでに、神の子とされていることのしるしなのだと言うのです。聖霊が働いていないかぎり、神があなたの心の中に働いていないかぎり、神に向かって「天の父よ」などと祈ることはできないのです。もう、祈っているあなたは、そのことからしても、神の相続人になされていることが分かるのだとパウロは言います。そして、それはもう新しい価値基準で生きているのだと言いたいのです。

今から十年ほど前に、島崎光正という詩人が亡くなりました。長野の松本、塩尻の詩人です。この島崎さんは、二分脊椎症という病のために車いすで生活していた人です。父の顔も、母親の顔も見ないで育ったというこの人は、若い時から非常に大きな悲しみに支配されていました。そして、その自分の悲しみを、詩という形で表現することを覚えて、十五歳の時から詩人の道を歩み始めました。そして、青年の頃に、イエス・キリストと出会って、二十八で洗礼を受けます。
ところが、洗礼を受けてからこの島崎さんは詩が書けなくなってしまいます。この島崎さんがまだ生きておられた時に、加藤常昭先生の古希の記念論文集というのが出されました。これは、加藤先生の身近な人たちが日ごろ説教の専門の学びを教えておられる加藤先生にささげるという形でだされたものです。そこに、島崎さんも短い文章を書いておられまして、自分が洗礼を受けて詩が書けなくなった時のことを書いておられます。そこにこんなことが書かれています。
「わたしは一九四八年の夏、松本の教会で洗礼を受けた。それは、詩の言葉に死んで神の言葉に召し上げられた出来ごとであったように思われる。別の見方をすれば、詩がそのように古い自分を引き留める未練としての罪の役目を担ったとも言えようが、追い詰められた場所においては、詩どころではなく、ただ神の言葉に聞くことだけが許された時間であったことだろう。そこに、もだえの苦痛とためらいがなかったと言えば嘘になろうが、その荒野でわたしは自分の言葉を失って光を浴び、そのまま否応なしに脱ぎかえた身をその場所にさらした。」
イエス・キリストに出会って信仰に生きるようになったこの詩人も、この世の価値観から天の価値観へと変わる中で、光へと変えられた一人です。島崎さんはそれを「否応なしに脱ぎかえた」と言いました。この言葉に現れているように、簡単なことではなかったようです。詩人が、詩を書く言葉を失うということは、苦しいことであったに違いないのです。けれども、別の本に書いているのですが、「けれども、不思議なことに、京都より帰ってから、私はおのずからのように詩が綴れるようになっていた。それは、どこかのちがった天井で別のモーターが廻りはじめ、そこから詩の言葉がこぼれおちてくるかのようだった」と書いているのです。それを聞いていた牧師が「それが復活というものではないですか」と言われたそうで、島崎さんもそう信じたようです。
島崎さんはこの世の言葉の支配の中から、神の言葉の支配の中へと変わる経験をとおして、新しい言葉を得る経験をしました。ルターも、嵐の中での改心がこれまでとは新しい生き方へと導きました。パウロの場合もそうです。
ここにいる主イエスを信じた方一人一人、そんなに立派なことは言えないけれどと思っていたとしても、神が新しい神の価値観に移されるという経験をされたことと思います。クリスマスにお生まれになられたイエス・キリストは、私たちを古いものから解放し、新しい生き方を与えてくださるお方なのです。

ですから、私たちはこの世界の価値観に支配されて生きることに留まったり、そこに再び惹かれていくのではなくて、神によって新しくされたものとして生きるのです。今日は今年最後の礼拝です。今年一年のことを振り返りながら、今朝、この礼拝に足を運ばれた方も多いことと思います。主は、私たちの歩みを日ごとに新しくしてくださるお方です。新しい年に、新しい歩みができるのではなくて、日ごと、主イエスと出会うたびごとに、私たちは新しくされるのです。
この主に、主の言葉に期待しつつ、主に新しくされつづけてきた一年を感謝し、また、新しい一年に期待して新しい年も主とともに歩んでいきましょう。

お祈りをいたします。

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