・説教 ガラテヤ人への手紙2章1-14節 「キリストにあって持つ自由」
2012.11.25
鴨下 直樹
今日の午後から教団の総会が岩倉教会で行なわれます。私たち同盟福音教会には26の教会がありますが、年に二度三月と十一月に牧師、宣教師、長老、執事が集まりまして総会を行ないます。そこで教会の大切なこと、主に来年のことについて話し合いをし、決議をいたします。特に今年は役員選挙が行なわれますし、教団全体のシステムについて今、長い時間をかけて話し合いをしています。そのように話し合いの時を持ちながら、総会で決議されたことはすべての教会で守られていきます。特に、私たち同盟福音基督教会というのは包括宗教法人といいまして、宗教法人格を一つしか持っていません。個々の教会一つ一つを一つの教会として考えるのだということをそこでも現わそうとしているのです。こうして話し合われて、会議で決定されたことは私たち26の教会すべてで尊重されます。そこに神のみ心があると信じるからです。
このような教会会議というのはいつから始まったかと言いますと、エルサレム教会で行なわれた教会会議から続いていると言えます。そのエルサレム会議で何が話し合われたのかというのが、ちょうど今日の聖書箇所です。パウロがテトスを連れてエルサレムに再び上ったのはそのためでした。この第一回エルサレム会議において何が話し合われたのかといいますと、異邦人がイエス・キリストを信じた場合ユダヤ人と同じように割礼を受けなければならないのかということを話し合うためでした。それで、テトスを連れて行ったのです。といいますのは、テトスが異邦人であるギリシャ人であったからです。
今現在、今年のクリスマスの礼拝で洗礼式をするための準備を進めています。この時同時に割礼を行なうということはありません。第一回エルサレム会議において、異邦人に割礼を受けさせる必要がないと決められたからです。九節を見ますと、
柱として重んじられているヤコブとケパとヨハネが、私とバルナバに、交わりのしるしとして右手を差し伸べました。
とあります。ここにエルサレム会議の結論がどうであったのかが記されています。パウロの言い分がエルサレム会議で受け入れられたのです。
パウロの言い分と言いますのは、異邦人はユダヤ人のように割礼を受けなくても、洗礼をうけることができるということでした。異邦人であっても、主イエス・キリストを信じることによって約束の神の民になれるのだということです。それが、パウロが二節で語っている「私の宣べている福音」という言葉や、五節に出て来る「福音の真理」という言葉で表そうとしています。パウロにとって福音というのは、ユダヤ人のようになること、つまり、ユダヤ人と同じように律法を重んじることによってしか救われないのではなくて、ただ、信じるだけで救われるのだということなのです。
先週の祈祷会でもある方から質問がありました。「律法というのは守らなくてもいいいものなんでしょうか」という質問です。たとえば、礼拝で十戒をともに読んでいます。私たちはこれを私たちに与えられている大切な戒めとして大切にしています。この十戒は旧約聖書に記されている律法です。そこで、「律法を守らなくてもいいですよ」ということになると大変なことなのではないかと言う質問でした。とても大切な質問です。律法というのは、神からの法律です。ですから、神の法律を守ることによって私たちは神がどのように生きることを願っておられるかが分かりますから、大事にしなければなりません。特に、先週マレーネ先生がドイツ語では律法は「ゲボーテ」という言い方をして一般の「規則」を意味する「ゲゼッツ」とは言わない。この「ゲボーテ」には約束という意味が込められていると説明してくださいました。ただ、神からの命令を守るという意味だけではないのだと。神の律法というのは、私たちが神の約束に生きるという意味があるのだということです。ですから、もちろん軽んじることはできません。けれども、パウロの手紙を読んでいると律法は必要ないように言っているのではないかと思えてくるかもしれません。私たちがここで覚えなくてはならないのは、パウロがここで戦っているのは「律法」ではなくて、「律法主義」だということです。
この時代、ユダヤ人が割礼を受けるということのなかには本当に大切な意味がありました。特に、イスラエルは旧約聖書の時代に長い間神に背きました。そのために他の国々に支配されていまいます。そして、イスラエルの国を支配する国々が次々に代わっていくなかで、ユダヤ人たちは国もない、神殿もない、聖書も読めないという環境に何度も置かれてきました。その中で自分たちが神の民であることのしるしは割礼しかありませんでした。ですから、割礼はユダヤ人たちにとって神の民のしるしそのものだったのです。割礼によって大きな慰めを受けてきたのです。そこから考えてみても、割礼がどれほど大切なものであったかが分かります。けれども、その割礼を、主イエスを信じる者はユダヤ人と同じようにならなければならないと考えるのは「律法主義」そのものです。パウロが異邦人に向かって語った福音は、主イエスを信じることによって救いを得るのであって、ユダヤ人と同じようにならなければならないということではなかったからです。そこには大きな違いがあるのです。
パウロはそれをここで「キリスト・イエスにあって私たちの持つ自由」という言い方をしました。四節です。福音は、私たちを自由にするものであると、パウロは考えたのです。使徒の働きの第十五章にこのエルサレム会議のことが記されています。この一節によると、彼らは「モーセの慣習に従って割礼を受けなければ、あなたがたは救われない」とあります。そのように教えていたようです。けれども、ユダヤ人のように割礼を受けなければ認められないというのでは自由とはいえません。とても不自由なことです。ところがこのエルサレム会議は、パウロの書いているこのガラテヤ人への手紙と、使徒の働きとの間に若干の食い違いがあります。使徒の働きでは、ペテロが仲裁に入ることで会議は結論を得ますが、最後にエルサレム教会の指導者であったヤコブが、その二十節でこう言っているのです。
ただ、偶像に備えて汚れた物と不品行と絞め殺した物と血とを避けるように書き送るべきだと思います。
この結論としては異邦人への伝道を認めているのですが、このヤコブによって付け足された言葉が後で大きな問題を生じてしまったのです。というのは、ここで四つのことが言われていますが、偶像に備えた汚れた物、絞め殺した物、血を食べないというこの三項目は、旧約聖書のレビ記の十七章と十八章に記されている食物規定の要約です。このガラテヤ人への手紙を見てみますと、エルサレム会議ではパウロの主張が認められたように見えますが、この使徒の働きではほんのわずかではあっても、ユダヤ人の律法を異邦人も守るべきだという条項をヤコブは刺し込んだのです。大筋においてはパウロの主張は認められました。けれども、食べ物のことは守ってもらう。これが、エルサレム教会の主張だったのです。
それでどうなったのかといいますと、エルサレム会議でパウロの弁明をしたペテロがパウロとバルナバが伝道をしていたアンテオケの教会にやって来ます。ペテロ先生がアンテオケにいるということが伝わりますと、色々な人々がアンテオケ教会を訪ねて来ます。もちろん、エルサレム教会のヤコブのところからも人々が来たのです。この人々は割礼派とここで言われています。いつも教会で食卓を囲んで食事をします。パウロもペテロも異邦人も割礼派の人々も食卓に着きます。けれども気づいてみると、パウロの席には異邦人たちが、ペテロの席には割礼派の人々、つまりユダヤ人たちがというように、教会が食事の席で気まずい雰囲気をつくってしまったのです。いや、気まずいどころではない、険悪な雰囲気ができてしまったのです。しかも、それはペテロを通して起こったことだったのです。ペテロは、エルサレムから来た人々の手前もあって、異邦人たちと一緒に食事をすることは汚れた食物を食べることだと思われたくないと思ったのでしょうか、一緒に食事をすることをやめてしまったのです。それが、このガラテヤ人への手紙の二章十一節から十四節に記されていることです。ここで一緒に食事をしないというのは、異邦人は汚れた物を食べている人たちなので、この人たちと一緒の信仰に生きているのだということを認めたくないという意味をもってしまったのです。
こうして教会が分裂してしまいました。もうこうなると福音ではありません。主の福音によって私たちは自由にされているのだと言えなくなってしまうのです。特に、ここで不自由さを覚えているのはペテロ本人です。エルサレム会議ではパウロの見方をしたのはペテロです。ペテロ自身、異邦人のコルネリオの家族が回心して救われるのを見ているのです。そして、その翌日には天から風呂敷が降りて来て、異邦人の食べている物を、主がきよめたのだから食べなさいと言われた出来事を経験しているのもペテロです。まだ聖書を読んでいない方はぜひ、使徒の働きを読んでください。ペテロは異邦人が救われることにもっと理解を示すことができる唯一の人物であったと言ってもいいのです。そのペテロでさえ、不自由になってしまっている。人の顔色をみながら生きなければならなくなっているのです。ここから分かるのは、自由を奪うもの、それは人の顔色を見ることだということがよく分かります。確信を持って生きることができなくなるからです。
パウロは主イエス・キリストと出会いました。かつてはキリスト者を迫害したほど憎んでいたイエスと出会ったのです。ところが、パウロは主イエスとの出会いを通してかつて律法に支配されていた生き方から自由にされることを経験しました。それは人の顔色をみながら生きるという生き方とはまるで異なる喜びだったのです。だからこそかつては敵対視していたこの信仰を伝えるようになりました。
私たちは信仰に生きるようになって自由にされたのでしょうか。私たちは教会に通い、聖書を学び、この信仰に生きるようになって、いつのまにか人の顔色を見ながら生活するということになってしまっているのだとしたら、それは本当に残念なことです。クリスチャンらしく生活しなければならない。そのためには聖書を一生懸命読めと言われるし、礼拝にも務めて行かなければならないし、ちょっとでも手を抜くと周りの人がうるさいことを言うから仕方がないと感じるようになっているとしたらそれは残念なことです。もちろん、そういうことは起こりそうなことではあります。お互いを励ましているうちに、段々息苦しく感じる、他の人が何と言うか考え始めると気が重たくなる。そんなことがあるのかもしれません。
パウロがここで自由だと言っている四節を見てみますとその後半のところで
彼らは私たちを奴隷に引き落とそうとして、キリスト・イエスにあって私たちの持つ自由をうかがうために忍び込んでいたのです。
とあります。まわりの言葉の説明はしませんが、ここで「キリスト・イエスにあって私たちの持つ自由」とパウロは言いました。この「キリスト・イエスにあって」という言葉はギリシャ語で「エン・クリストー・イエス-」と書かれています。「エン」という言葉は英語でいう「イン」、「中に」という言葉です。この「エン・クリストー」と書かれた言葉、「キリストの中に」という言葉を聖書は「キリストにあって」と訳しています。自由はどこにあるのかというと、キリストの中にあるのだというわけです。
私たちは他の人の顔色を見る、外を見ているといつまでたっても安心できません。あの人は何と言うだろうか。この人は何と言うだろうか。そうやって人の顔色を見ている時というのは自由を失ってしまいます。あっちを立てれば、こちらが立たずなどということも起こってしまいます。そうやって、周りの反応、周囲の様子をうかがっているところに自由はありません。けれども、キリストの中に入り込んでしまうときに、そこに自由があるのだとパウロは言います。それは、キリストに包みこまれているとき、と言い換えることもできるかもしれません。キリストに包みこまれているなら自由に生きることができるのです。
もちろん、ペテロもキリストに包みこまれていたはずです。キリストにある信仰に生きていたはずです。けれども、そこに留まらないで、周りをそわそわと見始める時に、大事なことを見失ってしまってしまうのです。ペテロでさえそうであったということです。だから、パウロは大先輩であったペテロに対して面と向かって抗議することができたのです。「ペテロ先生。あなたは福音にいないのですか」、「あなたは、キリストにとって自由にされたはずなのに、どうして人の顔色を見るようになってしまったのですか」。そのように問いかけたのです。
福音は人を自由にするはずのものであるとパウロは固く信じています。ですから、「福音の真理」という言葉を使っているのです。真理は人を自由にするものだからです。「真理」などというと、難しいことのように感じますが、本当のことという意味です。本当の福音はひとを自由にするのです。
もう最近ではあまり読まれなくなりましたけれども、小説家の椎名麟三という人がおりました。熱心な共産主義であったのですが、途中で信仰にいきるようになった人です。私はこの方の作品が好きで時々読みます。この椎名麟三の著作集というのがありますけれども、その中に「信仰について」という巻があります。この人の信仰の作品をまとめたものです。そこに、「ホントウということ」という短いエッセーが載っています。この人は「ホントウ」という言葉をカタカナで書いているのですけれども、「ホントウ」ということを色々な場面で考えてきたのです。そこで、「ホントウ」ということには二つの性質があることに気づきます。一つは「いつまでも」ということで、もう一つは「すべて、みんな」ということなのだそうです。その例として、わたしはあなたのことをホントウに愛しています。と言う場合、そこで言っているのは「いつまでも」という意味だというのです。ところが、ホントウに愛していたはずであったのに、あなたにすべてをささげますと言っていたのに、レストランで高い料理を注文されると財布の中をひそかに調べながら蒼くなってしまったりするのだと。「あなたの作品はホントウにすばらしい、みんなが褒めていますよ」というのだって、良く聞いてみるとその人の周りの二、三人ということがほとんどで、すべての人がいいと認めててくれているわけではないのだということに気づく。そうだとすると、大事なことは、このホントウということに賛成しないことが大事だというのです。そうでないと、この言葉の魔術にだまされてしまうというのです。それで、この椎名麟三と言う人は、「ホントウ」ということを自分の手の中にいれようとするからおぼれてしまうのだというのです。これを手に入れようとすると、ホントウというものに飲みつぶされてしまって手も足も出なくなってしまうのです。そこで、この作家は気づくのです。ホントウというものはこの世界にはどこにもないのではないかということに。自分がホントウと思っていることは、ホントウと言えないからです。
椎名麟像は、ホントウというものはこの世界にはないのだと言って、だからホントウのものに悲しむことはないのだと言います。椎名麟像がこの話を「信仰について」という本のエッセーに入れているのは、ホントウというのは、この世界の外に、つまり神にしかないのだということを言おうとしているからです。なぜなら神のところに真理があるからです。福音の真理、ホントウに人を自由にする真理は、私たちがいくら周りをみても、そこにはみつからないのです。もっと大きなところ、神のところにしかホントウのものはないのです。そして、そのホントウのお方が、イエス・キリストをこの世界の中に送り込んでくださって、私たちの中に信じる思いを与えてくださって、わたしたちをこの神の中に招き入れてくださったのです。
私の中におられるキリストが、私を神の支配の中に招き入れてくださいます。そして、私たちを自由にしてくださるのです。それは誰かの顔色をみていきるのではなくて、神の御手の中に抱かれ、神の中に包み込まれている平安が支配するのです。それこそが、私たちを自由にするのです。それこそが、パウロが語り、私たちに与えられたホントウの自由なのです。
お祈りをいたします。