2012 年 11 月 18 日

・説教 創世記27章1-45節 「子どもへの祝福」

Filed under: 礼拝説教 — miki @ 14:19

 

2012.11.18

鴨下 直樹

 今日は子どもの祝福を祈る主の日です。それで、今朝は、聖書の中に記されている子どを祝福した出来事の箇所から一緒にしばらく考えたいと思います。

 今日の聖書の箇所は少し事情が複雑です。イサクは年をとりいつ死ぬかもしれないという思いの中で、神から与えられている祝福を、長男のエサウに与えたいと考えています。言ってみれば、それが年老いたイサクの死への備えでした。ここに、長男エサウを愛する父親の思いが描かれています。

 ところが、イサクの妻リベカは別のことを考えています。弟のヤコブが神からの祝福を受けるべきだと考えているのです。しかも、聖書を読んでいると非常に複雑なのですが、神からの大切な祝福を、イサクはイサクでひそかにエサウに与えようと、妻のリベカもまたイサクに内緒で、年老いた夫イサクを出し抜く方法を考えているのです。

 

 夫と妻が、子どものことで別のことを考えている。しかも、それぞれに異なった息子を大事にしようとしている。それはとても悲しい出来事です。けれども、この両親に共通する思いがあります。それは、父イサクに与えられていた神の祝福を、子どもにも受け継がせたいと考えていたということです。自分の子どもにはどうしても神の祝福を受け継がせたいと願う親の思い。私たちはなによりもまず、この朝、このことを一緒に考えてみる必要があります。私たちはそのように願っているのかということです。自分が信仰に生きたように、子どもも信仰に生きて欲しいと願っているかということです。そして、それを何としてでも与えたいと願っているかということです。

 今日の聖書は見方によれば夫婦のゆがみを描いているかのように思えますが、聖書はそのことには少しも興味がありません。むしろ、この両親がどれほど真剣に子どもに祝福を受け継がせたいと考えていたかということに関心が向けられています。けれども内容を見てみると、ありそうもないことですが、妻のリベカはそうとうずる賢い方法を用いて、年老いた夫イサクを出し抜いて、自分の愛する息子ヤコブに祝福を受け継がせることに成功します。この奇妙な物語を、私たちはどのように理解したらよいのでしょうか。

 

 

 ここで特に覚えなければならないのは、神の祝福というものを、親も子供たちも、誰もがとても大事に考えているということです。聖書の中に、特に旧約聖書の創世記では、特にこの神の祝福ということを大事に語っています。祝福とは何でしょうか。それは、持ち物がさらに豊かにされるというイメージで語られているところも少なくなりません。ですから、物質的に豊かにされることが祝福であるかのような錯覚を抱きやすいのですが、それ以上に大事なことは、物質的な豊かさということよりも、豊かさそのものを表しています。この場合の豊かさとは単なる、持ち物が多くなる、財産が増えるという意味以上のことが含まれています。

 

 ここで年老いたイサクはここで自分の死を見つめています。子どもの祝福と死ということにいったいどんなつながりがあるのかと思う方があるかもしれません。今日、この子ども祝福式のために小さな子どもたちが来ています。特に小さな子ども、赤ちゃんを見ますと、まだ生まれたばかりで、死とは程遠いところに生きていると私たちは思います。けれども、聖書が語る祝福というのは、そのいのちそのものが豊かなものとされるという意味です。生活そのものが豊かにされるという意味です。実際に、この祝福に生きたイサクは、自分の死を見つめながら嘆いてはいません。自分の生涯は素晴らしかったと思えるからこそ、自分とおなじものを子どもに受け継がせたいと考えているのです。

 神の祝福に生きることは、どうしても必要なことなのだということを、イサクは十分すぎるほど味わっています。イサクにしても、妻のリベカにしてもそうですが、ここでとった方法はかなり大胆な方法です。年老いた父親イサクは息子エサウを呼び、祝福を与えたいことを告げます。そのために一つの願い事をします。エサウはその父の願いに応えるために狩りをしに行って、イサクにおいしいものを食べさせようとするのです。しかし、その会話を物影で聞いていたリベカは、そうはさせまいと策略を思いつきます。リベカはエサウよりもさきに料理をイサクに食べさせるために山羊を取って来て料理し、イサクが年老いて目がみえなくなって長男のエサウとヤコブを見分けられないのをよいことに、弟のヤコブに兄エサウの着物を着せ、毛深いエサウにみせるために子山羊のやわらかい毛皮を手と首にかぶせることによって、年老いた夫イサクを騙しとおせると考えてその計画を実行に移します。

 私たちからすれば、こんなずる賢くイサクを騙すような方法をとって、真実の神はだまっていないのではないかと思うのですが、このリベカの策略は成功してしまいます。イサクは騙されたままヤコブに祝福をしてしまうのです。その祈りの間に、何の神からの中断がなされることもなく、祝福の祈りは無事に終わってしまうのです。

 

 これほど、非常識な出来事に思えるやり方がまかり通るのであれば、神の真実はどこにあるのかと私たちは思いたくなります。普通に考えれば、悪いのは完全にリベカとヤコブであって、エサウは真面目に父の願いをかなえようとしているだけです。真面目に行なった者が、軽んじられ、不正を働いた者が祝福を得るなど、神のなさりそうにもないことです。ところが、神はヤコブをイサクの後継者としてみとめられ、その祝福を与えられました。

 

この聖書の箇所のテーマは何かと言うと、実は神の選びです。神はヤコブを選ばれました。この出来事は新約聖書ではパウロによってこのように語られています。ローマ人への手紙第九章の六節以降に書かれていますが、ここでは十節から十三節を読みます。

このことだけでなく、私たちの先祖イサクひとりによってみごもったリベカのこともあります。その子どもたちは、まだ生まれてもおらず、善も悪も行なわないうちに、神の選びの計画の確かさが、行ないにはよらず、召してくださる方によるようにと、「兄は弟に仕える。」と彼女に告げられたのです。「わたしはヤコブを愛し、エサウを憎んだ。」と書いてあるとおりです。

このパウロの言葉の最後の部分、「わたしはヤコブを愛し、エサウを憎んだ」という言葉は、旧約聖書マラキ書一章二と三節に記されています。ですから、旧約聖書の頃にすでに、このイサクの二人の息子たちの祝福をめぐる出来事は、神の選びがテーマであると考えられていたことが分かります。

神の選びというのは、個人的に考えてしまいますと、非常に混乱します。誰かが選ばれていて、誰かが選ばれていないという間に何があるのかと考えてしまうからです。ただ、パウロがここで強調しようとしているのは、神の主権ということです。

旧約聖書は神の選びの歴史そのものです。アダムの二人の息子、カインとアベルの場合もノアの子どもの場合も、アブラハムも、イサクもヤコブも、あるいはダビデやソロモンが選ばれるのも、何故神がその人を選ばれたのか明確な答えを示すことはできません。特に、このイサクの子どもの場合はそうです。どうみても、イサクよりもエサウの方が気持ちのよさそうな雰囲気が漂っています。そして、神はそのようにして、神の選びの民であるイスラエルを特別に大事にし、そして、まさに神の選びの代表ともいえるイエス・キリストをこの世に送ってくださいました。ここに、神の知恵があります。

神は、このイエス・キリストを特別に選ばれ、このイエス・キリストを信じるものはすべて神の選びの民とするとの約束を与えてくださったのです。旧約聖書のイサクの息子のヤコブが選ばれたのは、そのための準備であったのだとしか説明ができないのです。

 

 

しかし、今、私たちにはっきりしていることがあります。私たちはイエス・キリストを信じたことによって、神からの祝福を受けました。もうすでに、神の祝福を受け取っているのです。それは、主が私たちと共にいてくださるということによって、私たちが体験することができるようにされています。

まるで、イサクが晩年に自分の死を前にして、自分の生き方は幸いだったから、自分の子どもにもこのような幸いを与えたいと思う同じ幸いを、神は私たちにすでに与えておられるのです。

 

すこし、ここでイサクから祝福を受けたヤコブのことを考えてみたいと思います。ヤコブはずるい方法を通して、兄エサウの祝福を受け取りました。もちろん、聖書はその前に、ヤコブは長男の権利をエサウからもらっていることを書いていますが、兄エサウにしてみれば、そんなことが本当に実行されるなどとは考えなかったはずです。ですから、兄は自分を出し抜いたヤコブに怒りを燃やし、ヤコブを殺してしまおうと考えます。そのために、ヤコブは神の祝福を受けた瞬間から、兄を恐れて逃げ回らなければならなくなってしまいました。その後のヤコブの生涯も非常に困難でした。自分の愛したラケルを妻にするために、騙されて姉のリベカとすりかえられてしまい、二人と結婚しなければならなくなります。そして、そのために、長い年月を働かなければならず、この二人の妻の戦いの間に身を置かなければなりませんでした。そして、十二人の子どもをもうけます。長い年月の後に、父の故郷に戻りますが、その町でヤコブは自分の最愛の息子ヨセフを失います。さらに、今度は故郷が飢饉に見舞われてしまい、エジプトまで行かなければならなくなるのです。

そのようなヤコブの生涯を見てみると、簡単に祝福されているとは言えないような苦しみを経験させられる事が分かります。けれども、そこでこそ、私たちは神の祝福について考えてみる必要があるのです。神の祝福とはどのようなものなのでしょうか。

 

 

 神の祝福というのは、私たちが単純に思い描いてしまうような楽に生きていけるようになることや、心配事がなくなること、苦しい経験、辛い経験、悲しい思いをしないというようなのではないことが、聖書を読むと良く分かります。多くの困難があるにもかかわらず、聖書を読むと、神は確かにヤコブを愛しておられたということが分かりますし、ヤコブを祝福しておられたということが分かるのです。それは、神がその生涯にずっと共におられたということから明らかです。

それは、わたしたち一人一人の生涯を通して見ても同じことです。私たちの歩みは、誰から見ても幸せそうだと言われるような、楽な生き方を誰もがしているということではないでしょう。けれども、確かに私たちがどんなことを経験したとしても、神が共におられることが分かるのです。苦しみの中にも、悲しみの経験の中にも、自分の思い描いたように、なかなかならないという経験の中で、私たちは確かに神が共におられるのだということが分かります。そして、そのお方こそ、信じるに値する方だと信じることができるのです。

だから、自分の子どもにもこの祝福に生きて欲しいと願うのです。神とともに生きることが、自分の子どもにとって、他の何にも勝る幸いとなるからです。

 

 

私の父は、非常に厳しい親でした。日曜日に礼拝に出ないで別のことをすることを決して許しませんでした。中学の時に私は卓球をしていまして、百人を超える生徒の中で十人の中に選ばれるレギュラーになっても、日曜日に試合に行くことをゆるしませんでした。多くの教会の人から厳しすぎると言われたかもしれません。けれども、両親には信念がありました。今、卓球を楽しんですることよりも、礼拝を大事にすることを教えることの方が大事だと。

子どものころはそのことが私には分かりませんから、もちろん面白くありませんでした。けれども、今は良く分かります。両親がそこまで厳しくしたことは、両親自身が厳しい決断であったに違いないのです。子どものやりたいようにやらせてやった方がどれだけ楽だったか分かりません。しかし、厳しい道を選びとったのです。そして、子どもは礼拝が何よりも大事なのだということを、自分の経験として知ることができたのです。

 

ぜひ、知ってください。神の祝福は、私たちが考える方法によって与えられるのではなくて、神のやり方でもたらされるということを。そして、その祝福は私たちが考えているのにまさる豊かなものがそこにはあるのだということを。神を第一にすることにまさる祝福はありません。それこそ、そこでこそ、神を信じることが問われるのです。

神は、子どもの歩みがどんなにつらい人生になったとしても、それを乗り越えさせることのできる力を与えることのできる唯一のお方です。神の祝福にまさる、幸せは他にはありません。この後、子どもたちのために祝福を祈ります。

けれども、知ってください。子どもが本当に祝福に生きるのは親の祈りです。親が子どものために祈ることにまさる物はないのです。

「祈りの子は滅びない」という言葉があります。まだ、教会の歩みがはじまったばかりのころ、アウグスティヌスという教会の指導者が生まれました。この人はまさに信仰の父と呼ぶにふさわしい指導者でしたが、初めからキリスト者であったわけではありませんでした。アウグスティヌスは異教の神を信じていたのです。けれども、その母モニカは必死に自分の子どものために祈りました。長い祈りの生活が続いたのです。けれども、その祈りによって、アウグスティヌスは信仰に導かれていったのです。

神に不可能なことはありません。こと、信仰に生きるように祈り続けることについては、他ならぬ神ご自身がそう願っておられるのですから。ですから、子どものために祈るのです。教会でも祈るのです。他の人と共に祈るのです。この教会に集っている子どもたち一人一人が、本当に神を信じて、神に祝福された生涯を歩むことができるようにと。ここに、これは神の御心に適うことです。ですから、私たちは特にこのことを覚えて祈り続けて行くのです。

 

お祈りをいたします。

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