2011 年 7 月 31 日

・説教 マタイの福音書13章53-58節 「味わい見よ、神の御言葉を!」

Filed under: 礼拝説教 — naoki @ 12:49

 

 

2011.7.31

 鴨下直樹

 

 

 今日、私たちに与えられている聖書の個所には大変有名な言葉があります。「預言者が尊敬されないのは、自分の郷里、自分の家族の間だけです。」

 この「預言者は自分の郷里では敬われない」という言葉は色々なところで使われました。例えば牧師が、自分の故郷で伝道すると言う時には、必ずと言ってもいいほど引用されます。「イエス様だってできなかったんだから、自分にできるはずがない」と言うのです。

 

 私が神学生のころに、比較宗教学という授業がありました。その中で、当時世間を騒がせていた宗教団体、無差別殺人を企てるような反社会的な宗教のグループがありまして、その教祖の書いた物をレポートするという課題がありました。それで、その教祖の書いた本を手にとって読んだのですけれども、どうしてこんな稚拙な文章しか書けないような人物のところに、多くの学歴の高い人々が虜になったのか良く分からいくらいでした。

 その本の中にはいくつもの聖書の言葉を引用しています。その中でも特に印象をもったのが、この「預言者が尊敬されないのは、自分の郷里、自分の家族の間だけです」という言葉を用いて、自分は自分の故郷にいくと、敬われていないのだと述べて、だから自分はメシヤなのだという論理で書き記しているのです。故郷の人や、家族と言うのは、本当の自分のことを分かってくれないのだ、見抜けないのだというのです。メシヤにはそのような苦しみがあるのだと言っているのです。 (続きを読む…)

2011 年 7 月 24 日

説教:マタイの福音書13章44-52節 「天国の専門家として」

Filed under: 礼拝説教 — 鴨下 愛 @ 19:36

2011.7.24

鴨下直樹

先週の日曜日、私はマレーネ先生と一緒に青年キャンプの奉仕に行ってまいりました。青年キャンプのテーマは「旅」です。聖書の中には旅を連想させる言葉がいくつもあります。

今、水曜日と木曜日の祈祷会で創世記をずっと学んでおりまして、現在はヤコブのところをもう少しで終わろうとしています。この祈祷会でアブラハムの生涯から順に学びはじめまして、ヤコブのところまで来たのです。私が、聖書の中から「旅」と聞いて直ぐに思い起こすのは、このアブラハムの生涯です。先日も、祈祷会の時に、少しアブラハムの生涯を振り返ってみたのですけれども、アブラハムの旅というのは、大変なものであったと言っていいと思います。まず、神から約束の地に行きなさいと言われて、約束の地、カナンの地に到着するのですけれども、そこには食べ物がなかったのです。到着したという報告もないままに、聖書は「さて、この地にはききんがあったので」と創世記第十二章十節に書かれています。

みなさんでも、そうでしょうけれども、どこかに旅行に出かけて、ついたホテルに食事がなかったなどということになったら、そんな旅行契約を立てた旅行会社に文句を言いたくなるでしょう。神様が旅を計画してくださるのだから、安心して身を預けたらいいということが記されているかと思うと、そんなことは全くないのです。

主イエスもまた、アブラハムと同様、旅の生涯をおくった人と言っていいと思います。ところが、主イエスもまた、天からこの地にお生まれになった時から、泊る宿さえなかったのだと、このマタイの福音書は記しています。神が私たちに与えてくださるこの人生の旅路というものは、どうも、それほど居心地のよいものではなさそうです。 (続きを読む…)

2011 年 7 月 10 日

説教:マタイの福音書13章24-43節 「よいものと悪いものとの中で」

Filed under: 礼拝説教 — 鴨下 愛 @ 21:55

2011.7.10

鴨下直樹

マタイの福音書の第十三章にはいくつもの主イエスがなさったたとえ話があります。有名なたとえ話と、あまり知られていないたとえ話があります。有名な、というのは少し正しくないかもしれません。よく耳にするたとえ話というのがあるのです。それは、なぜかと言うと、ほかの福音書にも同じたとえ話がでてくるからです。けれども、今朝、私たちに与えられているこのたとえ話は、主イエスがなさったたとえ話の中でも、マタイの福音書にしか記していません。ですから、それほど良く知られているたとえではないと言えるかもしれませんけれども、だからと言ってそれが大事の話ではないということにはならいのです。そのたとえ話が二十四節から三十節までに記されている、一般に「毒麦のたとえ」と言われているたとえ話です。 (続きを読む…)

2011 年 7 月 3 日

説教:マタイの福音書13章1-23節 「天の御国の秘密」

Filed under: 礼拝説教 — 鴨下 愛 @ 19:20

2011.7.3

鴨下直樹

私たちの教会では年に二回、「楽しいキリスト教美術講座」を行なっています。前回は二週間前に行なわれました。講座を開いてくださっているのは、私たちの教会の長老でもあり、岐阜県美術館の館長でもある古川秀昭さんです。特に、今回は20世紀の宗教画家ともいえるジョルジョ・ルオーの絵を紹介してくださいました。

これは大変興味深い講座でして、いつもよりも多くの方々が参加してくださいました。この講座の中で古川さんが、いくつも興味深い話をしてくださいましたが、私の心に特に残ったのは、このルオーが娼婦と道化師を沢山描いているのですが、どれも非常に醜く描いているということでした。あるいは裁判官も描いているのですが、それもやはり非常に醜く描かれているのです。なぜ、そのような人間をルオーが好んで醜く描くのかというと、古川さんはその講座の中で、醜い人間の姿のなかに、現代の人間の闇を捕らえていて、そこに、キリストの光が届くことを願っていた画家であったと言われました。 (続きを読む…)

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