2011 年 7 月 31 日

・説教 マタイの福音書13章53-58節 「味わい見よ、神の御言葉を!」

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2011.7.31

 鴨下直樹

 

 

 今日、私たちに与えられている聖書の個所には大変有名な言葉があります。「預言者が尊敬されないのは、自分の郷里、自分の家族の間だけです。」

 この「預言者は自分の郷里では敬われない」という言葉は色々なところで使われました。例えば牧師が、自分の故郷で伝道すると言う時には、必ずと言ってもいいほど引用されます。「イエス様だってできなかったんだから、自分にできるはずがない」と言うのです。

 

 私が神学生のころに、比較宗教学という授業がありました。その中で、当時世間を騒がせていた宗教団体、無差別殺人を企てるような反社会的な宗教のグループがありまして、その教祖の書いた物をレポートするという課題がありました。それで、その教祖の書いた本を手にとって読んだのですけれども、どうしてこんな稚拙な文章しか書けないような人物のところに、多くの学歴の高い人々が虜になったのか良く分からいくらいでした。

 その本の中にはいくつもの聖書の言葉を引用しています。その中でも特に印象をもったのが、この「預言者が尊敬されないのは、自分の郷里、自分の家族の間だけです」という言葉を用いて、自分は自分の故郷にいくと、敬われていないのだと述べて、だから自分はメシヤなのだという論理で書き記しているのです。故郷の人や、家族と言うのは、本当の自分のことを分かってくれないのだ、見抜けないのだというのです。メシヤにはそのような苦しみがあるのだと言っているのです。

 

 そうしますと、私たちだってそうだと言いたくなる人がいくらだっているのではないでしょうか。本当の自分のことを誰も理解してくれないというのは、多くの子どもが親にいだく思いだと言ってもいいくらいです。そして、今日私たちがこの御言葉から考えなければならないのは、イエス様もそうだったのだからということで、慰めのしてよいのかということです。

 

 といいますのは、実の多くの場合に、この聖書はそのように理解されるのです。別に、特別な教祖でなくたって、自分のことは周りにいる人には良く分かってもらえないという思いで苦しむことがある。そして、下手をすれば、この苦しみはイエス様もお持ちになったこと、主イエスでさえ、誰からも理解されなかったのだと考えてそれを慰めにすることは、この聖書を正しく理解したいことになるのでしょうか。

 

 

 今、私たちはこの礼拝においてマタイの福音書を順に読み進めております。この出来事というのは、他のどの福音書にもでてくる物語です。それほど、人々の心にとまった出来事であったと言うことができると思います。しかし、マタイにはマタイの書き方というのがあります。

 主イエスの郷里というのはどこか。ナザレです。ルカの福音書にはそのことがしっかりと記されています。けれども、マタイはそれを書かないのです。五十四節では「ご自分の郷里に行って」と書いているだけです。ナザレということを書く気はマタイにはないのです。それはここでマタイが私たちの生活の場所に主イエスがおいでくださっているということを言おうとしているのではないかと、私には思えるのです。

 

 私たちの生活の中に主イエスがおいで下さると何が起こるか。それは、やはり、ここに記されていることと同じことでしょう。「この人は、こんな知恵と不思議な力とをどこで得たのでしょう」と五十四節にあるような問いが起こるのです。

 

 

 先週からこの教会で信徒による聖書学び会が持たれています。私は今年はすでにキャンプの奉仕も終えていますので、ほとんどの会に出席できると喜んでいます。いつもよりも、多くの方々が聖書学び会に出席します。それほど、私たちはお互いの信仰のあかしの生活を聞くことによって励ましを受けたいと思っているのだと思っています。

 先週も本当に幸いな時間を持つことができました。いつもそうですけれども、その日当番になっている方が、それぞれのテーマで発言をいたします。証しをしたり、御言葉をかたったりした後で、参加している方々に意見を求めます。そこで、みなさん本当に自由に意見を出し合います。

 この木曜日のテーマは自分はどのように聖書を読んでいるかというものでした。そうすると、みながその後で、私はこのように聖書を読んでいるという話が続きます。こんなことを言っては失礼なのですけれども、そこで私は非常に関心したのですけれども、みなさんずいぶん丁寧に聖書を読んでおられる。こんなにちゃんと読んでいるのかと驚いたほどです。これは私には非常に嬉しいことでした。みなが自分の生活の中で御言葉聞いているのです。主イエスと共に歩んでいるのです。それは、本当に大きなことです。

 ところが、この学び会の中でそれぞれがどのように聖書を読んでいるかという話が進んでいくうちに、聖書はどれだけ読んでもちっとも分からないという話が出てきました。

 

 先週の礼拝後に行われました、2011年後半に向けての交流会の時にも、みなさんに聖書をぜひまず、全巻通して読んでほしいという話をしました。それで、今年の総会の時に、聖書通読表を渡しました。もうすでに全部読んだという方に小さな聖書の解説の本をプレゼントしました。まず、聖書を全部読んでほしいと思っているからです。

 それに応えてだと思いますけれども、この祈祷会の中で、何とか聖書を読もうと思ってどんどん読み進めるのだけれども、分からないところがあってもどんどん読み進めて行くうちに、どんどん分からなくなる。預言書などを読んでいると、神の民であるイスラエルは神様に叱られてばかりで、同じ失敗ばかり繰り返すのを読んでいるうちにどの書物がどんな話かどんどん分からなくなってくる。そんな読み方でいいのかという質問が出たのです。

 おそらく、この質問は聖書を読み始めた人ならだれでも持つ問いだと思います。とにかく分からなくても読むということを続けていても、自分の信仰の養いにならないのではないかと思えてくるのです。神様が自分の生活の中に語りかけてくださるような気がしないというのです。

 ここで、主イエスの故郷の人が経験しているようなこととはまるで正反対の経験をすることになるのです。ここでは人々は「この人は、こんな知恵と不思議な力をどこで得たのでしょう」と言っているのに、私たちは、「なぜ、私の生活の中では何も起こらないのだろう」というような思いを抱くことが起こるのです。

 

 そこで、私がその時に答えましたのは主に二つのことです。一つはそれでも、まず一度は聖書を読みとおすということです。面白くなくても分からなくても、分からないなりに読んでみるのです。そうすると、それこそ、預言書には神の民が失敗ばかりしていることが書かれているということくらいは分かるようになるのです。そういう聖書全体が何を語っているかということが少しづつ分かってくると、今度は聖書をもっと身近なものとして味わうことができるようになるのです。丁寧に、読むことも大切です。そして、同時に、まず全体を理解するということもまた同じように大事なのです。

 

 そうすると、今度は次の問題が出てきます。どうしたら、聖書が私に語りかけてくるかということです。聖書はどうせ分からないものなのだと思いながら読んでいたって何も分かりません。大切なことは、これをじっくりと味わうことです。

 分からないことは分からないこととして少し考えて見る。なぜ、ここで主イエスはこんなことを言われたのだろうかと考えて見る。

 

 今読んだところでいえば、なぜ人々はここで、「この人は、こんな知恵と不思議な力をどこで得たのでしょう」と考えたのかです。そうすると、次のところに書かれていますけれども「この人は大工の息子ではありませんか。彼の母親はマリヤで、彼の兄弟は、ヤコブ、ヨセフ、シモン、ユダではありませんか。妹たちもみな私たちといっしょにいるではありませんか。とすると、いったいこの人は、これらのものをどこから得たのでしょう。」

このように、五十五、五十六節に記されています。

 

 主イエスの故郷の人は、この大工の息子のことならなんだって知っていると思っているのです。どこで働き、家族は誰で、みんな私たちと同じ、特別変わったところはない。そう考えたのです。

 これは、どういうことを意味するのでしょうか。それは、主イエスはまさに普通の人としてこの地上で生きられたということです。そして、それゆえに、人々はこの人のことであれば知っている、分かっていると思いこんだのです。

 自分の見ているようにしか、人は人のことを理解できないのです。けれども、自分の理解を超えたことが起こった時に、人々は驚いたのです。五十四節には「驚いた」となっている言葉が、五十七節では「つまずいた」となっています。

 驚くという言葉は、悪い意味の言葉ではありません。興味を抱いたのです。感心を持ったのです。そこから、信仰へ至ってもよいような反応です。ところが、そうはならずに、「つまづいてしまった」のです。こんなものに騙されないぞと、怒りを表しにして、去って行ったのです。信じないことにしたのです。

 何故ですしょうか。妬んだからです。主イエスには特別なものがあることを認めざるを得ない。けれども、そんなはずはないではないかと判断した。そして、自分が傷つかないために、そんなことはないはずだと言って、見なかったことにしたのです。

 

 ですから、マタイはここでこのように記しました。「そして、イエスは、彼らの不信仰のゆえに、そこで多くの奇跡をなさらなかった」と。五十八節です。

 見ないようにする、信じないようにする、妬みの感情のあるところで、主イエスはご自分の御業をなさいませんでした。なぜでしょうか。それは、そこから何も生まれて来ないからです。

 

 主イエスはご自分の故郷であったから働くことができなかったのでしょうか。いや、そうではないのです。私たちの生活しているところ、どこででも、人々は、このお方の働きを拒絶し続けているのではないでしょうか。

 主イエスの郷里であろうと、私たちの郷里であろうと、同じです。そこには何もないのだと、思い込んでしまっている世界の中で、主イエスは力強く働くことをなさらないのです。

 

 私たちが、私たちの生活の中で、いくら聖書を読んだってそんなものは何の得にもなりはなしないと思っている中では、聖書の言葉は、何の意味も持たない。神の働きでさえ、主イエスの働きでさえ、無力と化すのです。

 けれども、弟子たちのように、どんなに無力な存在であったとしても、無価値と思われていた人々のようなところであっても、その中に信じる思いがあるならば、百倍の実を結ぶのだと、主イエスは言われるのです。

 

 この対比は実に見事です。たとえ、主イエスの生まれ故郷だと言っても、それは例外ではないのです。マリヤがいようが、後にエルサレム教会の指導者になった主イエスの弟ヤコブであろうと、ユダの手紙を書いたユダであろうと同じことでした。人々の目は何も変わらないのです。けれども、彼ら自身が変わった時に、主イエスを信じて、神の言葉に信頼を置いたときに、神の御業が起こったのです。

 

 

 今年の秋の特別伝道講演会に松居直先生をお迎えしようとしています。立派なチラシもすでにできております。何度かこの松居先生のことについては色々なところでお話しておりますけれども、なぜ教会の伝道集会に絵本の話をするのかと考えておられる方があるかもしれません。

 松居先生は絵本の編集に長い間たずさわってこられた方です。そこで、何よりも大切にしてこられたのは、自分を本当に生かす真の言葉と出会うということです。 

 教会でも貸出図書にしてお勧めしている「絵本・ことばのよろこび」という日本基督教団出版局からだされた本があります。そこに、いくつもの素晴らしいエッセーが載っています。そのなかに「ことばの力」というところがあります。これは、「初めにことばがあった。ことばは神とともっにあった。ことばは神であった」から始まるヨハネの福音書の冒頭の言葉に寄せて書かれたものです。

 その中で、松居先生は、このヨハネの福音書の言葉の「ことばは神であった」ということに確信を深めることは難しいのではないかと語っています。そして、「『みことば』は本質的に語り、聞く体験です。それには幼い時から「聞く」という体験がとても大切なかかわりを持っています。」と言っています。この方の口癖ですけれども、「絵本は、子どもに読ませる本ではなくて、大人が子どもに読んでやる本だ――と、繰り返し言い続けてきたのは、ことばの生命を感じ取り、言葉の生きて働く力をしることこそが、「みことば」の蒔かれる”良い土地”をはぐくみ養うてだてだと考えて来たからだ」と言っています。

 御言葉を聞き、語るということが、私たちを養い育てるのだ、それは子どもの時から養われ続けるべきだと言っておられるのです。

 

 私たちに向かって主イエスは実に豊かな言葉を語り続けてくださっています。しかし、私たちがそれを正しく聞き取ることができなければ、それは実の実らない種となってしまいます。しかし、正しく聞くなら。つまり、本当にその言葉を体で味わうように聞くならば、その神の御言葉は私たちの中で豊かな成長をとげ、その実際的な実りを体験することができるのです。

 

 それは、まさに、驚くべき体験です。そして、つまづきとなるのではなくて、私たちの喜びとなるものなのです。そのように、この御言葉を、よく見、味わうことが私たちにはできるのです。

 

お祈りをいたします。

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