2010 年 4 月 25 日

・説教 「平和を築き上げよ」 マタイの福音書5章9節

Filed under: 礼拝説教 — miki @ 20:57

鴨下直樹

 「平和をつくる者は幸いです」。今日、主はこの言葉を私たちに語りかけてくださっています。「平和をつくる者」。これは、誰もが願っていることです。誰もが平和でありたいと願っているのです。争いを好む者はおりません。関係を壊したいと思っている者はいないのです。しかし、それならばどうして「平和をつくる」ということはこれほどまでに困難なのでしょう。いつも「不和」で苦しまねばならず、人との関係を築くことで、これほどまでの心を砕かなければならないのはなぜなのでしょう。私たちの中で、誰か一人でも私には争いがないと言える人が果たしているでしょうか。

 

 先ほど私たちは讃美歌21の371番を賛美しました。「このこどもたちが」という讃美歌です。この一節の歌詞の最後に「主よ、守りたまえ、平和を、平和を」とあります。木曜の祈祷会の時のことです。私たちの教会では、この朝の祈祷会の時間、時を同じくして、手話賛美の時間があります。ここでは、次の主の日に歌う讃美歌の内容を確認しながら、この歌詞をどのような手話で表現するのかということを検討するのです。それで、祈祷会の時に、いつも次の礼拝で歌う賛美を歌いますから、この時までは一緒に賛美をしています。そうすると、私たちはそこで、手話の賛美というのを身近で見ることができるわけです。手話というのは、私は詳しくわからないのですけれども、同じ日本語を使いながらも、別の言語であると言えます。この祈祷会の時にも、この「主よ守りたまえ平和を」の「守りたまえ」という言葉を、どのような手話で表現するかが難しいという話になりました。 (続きを読む…)

2010 年 4 月 18 日

・説教 「神を見る清さ」 マタイの福音書5章8節

Filed under: 礼拝説教 — miki @ 21:09

鴨下直樹

 心のきよい者は幸いです。その人は神を見るからです。 (5章8節)

 

 今日、私たちに与えられている幸いを語る言葉はこのように語っています。神を見ることは幸いだと。私たちはこれまで、様々な幸いを告げる言葉を聞き続けてきました。今日の言葉で六番目になります。最初に申し上げましたように、この山上の説教は主イエスの弟子達だけではなくて、そこに集まってきていた群衆にも語りかけられました。主イエスの語る幸いに、多くの人々が招かれているのです。

 それで、「心の貧しい人」という問いかけから始まるこの主の教えを聞いた人々は、主イエスが語ろうとしている幸いというものが、次第にこの世界で幸せと言われることとは少し異なっていることに気がついていったのではなかったかと私は思います。そして、ついに、「神を見る」と主イエスはここで宣言されました。この幸いに生きようと思うのであれば、神を見ることが幸いをもたらすのだと語られたのです。

 考えてみて頂きたいのですけれども、これまで様々な人々が幸せとは何かという事を考えてきました。 (続きを読む…)

2010 年 4 月 11 日

・説教 「キリエ・エレイソン」 マタイの福音書 5章7節

Filed under: 礼拝説教 — miki @ 20:49

鴨下直樹

 復活節第二主日を迎えました。この日には「クアジ・モド・ゲニティー」という名前が付けられております。ペテロの手紙第一 2章2節の「生まれたばかりの乳飲み子のように、純粋な、みことばの乳を慕い求めなさい。それによって成長し、救いを得るためです」という御言葉がこの日のための言葉として私たちは聴くのです。この「クアジ・モド・ゲニティ」という言葉は、第一ペテロの御言葉の「生まれたばかりの乳飲み子のように」と言う最初の言葉をラテン語にしたものです。イースターによって新しくされたことを祝う者は、乳飲み子のように御言葉を聴くことから始めるということを、教会は暦の中で教えて来たのです。このようなあまりなじみの無い言葉を聴くと、これは一体どのような意味なのだろうかと考えられるのではないかと思いますけれども、そこには大切な意味があるのです。

 

 また、この朝の説教のタイトルもあまりなじみのない言葉であると言えるかもしれません。このタイトルをご覧になって、同じように、この言葉はどういう意味かと考えられる方があるのではないでしょうか。 (続きを読む…)

2010 年 4 月 4 日

・説教 「義に飢え渇く者の幸い」 マタイの福音書5章6節

Filed under: 礼拝説教 — miki @ 20:39

  —イースター礼拝説教—

 

鴨下直樹

 イースターおめでとうございます。今日、主イエスがよみがえられた日を祝うこの日に、先ほど洗礼を受けられたNさんと、子どもたちも共にイースターを祝うことができることを本当に嬉しく思います。

 

 今、私はイースターを「祝う」と言いました。礼拝はそもそもこのイースターだけでなく、いつも日曜ごとにお祝いをするために礼拝するのです。この四月から私たちの教会にマレーネ・シュトラスブルガー先生が加わってくださいました。マネーネ先生の国、ドイツでは、礼拝を「祝う」「ファイアーン」という言葉を一般的に使います。私たちは礼拝を「する」とか丁寧な場合は「ささげる」などという言い方をしますけれども、ドイツ語の方が礼拝の性質をよく表わしていると言うことができるかもしれません。なぜ日曜にお祝いするかと言いますと、この日に主イエスがよみがえってくださったからです。死を打ち破られたからです。人間の絶望の源である死を打ち砕かれた。復活なされたことによって、死は終わりではないことを示してくださったのです。

 

 今日私たちに与えられている御言葉は「義に飢え渇いている者は幸いです」という御言葉です。「義」というのは、「正しさ」と言い換えることができるかもしれません。パウロは、コリント人への手紙 第一 15章32節で「もし、死者の復活がないのなら、『あすは死ぬのだ。さあ、飲み食いしようではないか。』ということになるのです。」と語っています。正しい生活というのは、キリストの復活が無ければ、なりたたないのだ語っているのです。もし、キリストのよみがえりが無いなら、人間は死んで終わりになるのだから、それまで好きなことをして生きればいいということになる。けれどもキリストの復活は、人間は死で終わりではないことを示されました。とすると、誰もが正しく生きざるを得なくなるのです。

 

 では正しく生きるというのはどういうことなのでしょうか。 (続きを読む…)

2010 年 4 月 2 日

・説教 「主は弱さのうちに」 イザヤ書53章

Filed under: 礼拝説教 — miki @ 19:09

 

 —聖金曜日 受難日礼拝説教—

 

鴨下直樹

まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。たが、私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。 (イザヤ書53章4節)

 

 この日、主の受難日に、主イエスは私たちの病を負い、私たちの痛みをになってくださいました。あの十字架の上で主イエスはこの言葉の通りになされたのです。

 私たちの病、私たちの痛み。それは、私たちに課せられた永遠の苦しみであるはずのものでした。しかし、そのような永遠の苦しみを、主イエスは負ってくださったのです。私たちは、病にしろ、痛みにしろ、そのような苦しみは負いたくないと思います。もし、そのようなものがあったなら、少しでも早くそのような病から、苦しみから解放されることを願います。耐えることはつらいことだからです。苦しむことは耐えがたいことだからです。なぜ、辛いのか、なぜ耐えられないのでしょうか? なぜ、苦しみから少しでも早く解き放たれたいと願うのでしょうか? (続きを読む…)

2010 年 4 月 1 日

受難日「聖餐式礼拝」と「イースタ礼拝」への招き

Filed under: イベント — 鴨下 愛 @ 23:23

受難日 聖餐式礼拝

主イエス・キリストが十字架に架かられた事を
聖餐式とともに覚える礼拝です。

4月2日(金曜日)
午後7:30〜

主イエスの十字架の死(受難日)
そして3日後の日曜日には
主のイエスの復活(イースター)を
喜び祝う礼拝が行われます。

イースター礼拝
(洗礼式と聖餐式が執り行われます)

4月4日(日曜日)
朝10:30〜

(子供達は9:45分より、イースターエッグ探しをします)

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