2010 年 4 月 18 日

・説教 「神を見る清さ」 マタイの福音書5章8節

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鴨下直樹

 心のきよい者は幸いです。その人は神を見るからです。 (5章8節)

 

 今日、私たちに与えられている幸いを語る言葉はこのように語っています。神を見ることは幸いだと。私たちはこれまで、様々な幸いを告げる言葉を聞き続けてきました。今日の言葉で六番目になります。最初に申し上げましたように、この山上の説教は主イエスの弟子達だけではなくて、そこに集まってきていた群衆にも語りかけられました。主イエスの語る幸いに、多くの人々が招かれているのです。

 それで、「心の貧しい人」という問いかけから始まるこの主の教えを聞いた人々は、主イエスが語ろうとしている幸いというものが、次第にこの世界で幸せと言われることとは少し異なっていることに気がついていったのではなかったかと私は思います。そして、ついに、「神を見る」と主イエスはここで宣言されました。この幸いに生きようと思うのであれば、神を見ることが幸いをもたらすのだと語られたのです。

 考えてみて頂きたいのですけれども、これまで様々な人々が幸せとは何かという事を考えてきました。財産を築き上げること、長生きをすること、良い仲間に巡りあうこと、自分の力を発揮することができること、人に認められること、挙げればきりがありませんが、人々はそのようなことに価値を見出してきました。神を見ることが幸いの道などということは、あまり考えてこられなかったのではないかと思うのです。

 

 普通、人は日常の生活の中で、神を見たいとあまり考えながら生活はしていません。けれども、神を見たいと思うこともあるはずです。どういう時に、神を見たいと思うかと言うと、絶望している時です。もうどうしようもないと思える時、人は神を求めるのです。

 先週、書店に行きまして一冊の小さな本を買い求めました。小川洋子という方の書いた「物語りの役割」という小さな本です。この方は、キリスト者ではないと思いますけれども、最近ですと「博士の愛した数式」という書物を書きましてよく知られるようになりました、私は見たことはないのですが、テレビドラマにもなったようです。この「物語りの役割」という本には、この方が色々な読書の体験をしながら自分がその物語によって様々な考え方を得たことが記されております。その中で興味を持って読んだのが、エリ・ヴィーゼルというユダヤ人でノーベル平和賞を受賞されたことのある作家の書いた「夜」という物語りの事が書かれていました。

 この「夜」と言う物語りは、自分が家族とともにアウシュビッツの収容所に入れられた時の経験を語っています。この時、エリ・ヴィーゼルはまだ十五歳でした。ある日、この収容所で密かに武器を集めて隠している囚人が見つかって、処刑されることになります。三人のユダヤ人がこの収容所で公開処刑されたのです。その三人が絞首刑として吊るされるときに、彼の後ろから声が聞こえます。「神さまはどこだ、どこにおられるのだ」と。すると、ヴィーゼルの心の中にある声が聞こえてきます。それはどういう言葉であったかと言いますと、「どこだって。ここに、この絞首台に吊るされておられる」という言葉でした。ヴィーゼルは自分と同じくらいの年の少年の中に、神を見たのです。そこで、この小川洋子という方は、「過酷な現実を突き付けられた時に、世界観をガラッと百八十度変えてしまわなければ自分を保っていられなかったのではないか」と、その本の中で語っています。というのは、このようなアウシュビッツでの経験を通して、ユダヤのラビになりたいと志していたエリ・ヴィーゼルは神を捨ててしまったからです。そのところでの結びでこうも語っています。「とうてい現実をそのまま受け入れる事が出来ないという時、その現実を受け止めなおすことができるようにするのが物語りの役割なのではないか」と言います。

 この本を読みながら、私は確かに物語りというのはそのような力があると言えると一方では思うのですが、やはり、本当の問題はヴィーゼルがここで神を見ていながら、本当には神の御姿を見ることができなかったことが問題であったという気がするのです。そこで神を見ていながら、神がそこで死んでしまったとしか見ることのできなかったヴィーゼルのことを非常に残念に思うのです。そこにキリストを信じることのできないユダヤ人の悲しみがあるとも言えます。

 

 今、祈祷会でアブラハムの生涯を学んでいます。先週は創世記第16章の御言葉を共に学びました。そこには、あなたの子孫は空の星の数ほどになるという約束を与えられたアブラハムに、まだ子どもがなかったために、妻サラが自分の女奴隷ハガルによって子どもを得ようとした出来事が記されています。そこを学びながらこの水曜日の祈祷会に来ておられた私たちの教会の長老であり、岐阜県美術館の館長をしておられる古川秀昭さんが面白い話を聞かせてくださったのです。フランスの十九世紀の画家ルオーの作品の中には、顔を扱った作品がいくつもあるのですけれども、「サライ」という作品と「サラ」という作品があるのだそうです。先週学んだ所ではまだサライという名前で出ているのですけれども、ルオーの書いた「サライ」と「サラ」には大きな違いがあるのだそうで、サラは神によって子が与えられた時に、サラ、笑うと言うその名前を頂きます。そしてこのルオーの描いた「サラ」は、その名の示す通り、笑っているのだそうです。興味深いことに、この時のサラの顔は、顔だけを良く見るとルオーが書いた他の作品である「キリスト」と同じ顔をしているというのです。もっと興味深いことに、ルオーの作品の中には他にも同じように、髪の飾りや髪形などを取ると、キリストと同じ顔になる作品がいくつもあるというのです。例えば「ピエロ」という作品もそうなのだそうです。私はその古川さんのお話を聞きながら、ルオーという画家はあらゆる人の顔の中に、キリストを見出していたのだということに関心を覚えました。ルオーは、聖書の人物だけではなくて、あらゆる人を描きながら、ここにも、ほらあそこにも神の姿が見えるではないか、と描いて見せたのです。

 

 私たちは、とうてい受け入れがたい厳しい現実を突き付けられる時、神はどこにいるのかと問います。そこで、私たちは神が死んでしまう姿を見るのではなくて、まさによみがえられたキリストの姿を、その場面場面で見ることができるのではないかと思うのです。神は、私たちに御自身の顔を隠しておられる方ではなくて、いつも私たちにその御顔を示して下さっているからです。

 と言いますのは、先ほども少し話しましたけれども、今祈祷会で、アブラハムの物語りを聞いています。先週はアブラハムに子どもが生まれないので、何度か自分でするべきだと考えたサライが、その女奴隷ハガルを通して子をもうけようとしている所を学んだのです。その子どもをもうけたハガルはどうなったかと言いますと、このサライが嫉妬のために苛めてしまいます。そして、それに耐えきれなくなったハガルは逃げ出したという物語りです。ハガルは荒れ野をさまよいながら泉のところに来た時、主の使いがハガルに現れます。そこで、サラのもとに帰るようにと主の使いはハガルに語り、同時にハガルにあなたの子孫も数え切れないほどになると約束を与えます。その時、ハガルは神に向かってエル・ロイと言います。「ご覧になる神」という意味の言葉です。

 ハガルが神をエル・ロイと呼んだ時、聖書はこのように書いています。

「ご覧になる方のうしろを私が見て、なおもここにいるとは。」 (創世記16章13節)

ハガルはここで私は神を見たと語っているのです。ハガルはここで神を見たと語っています。神はこのように、身勝手に飛び出してしまった者にも目を掛け、見ていてくださるばかりか、自分の姿をさらしてくださったのです。けれども、ここで興味深い出来事が起こります。神の後ろ姿を見たハガルはそこで自分が今なお生きていることの不思議さを告白しているのです。神の後ろを見たのに、私はまだ生きていると。

 ここでハガルの中に何かが起こっています。まことに清いお方を見る。神を見る。その時何かが起こるのです。その時、自分は死ぬのではないかと言う思いが心の中に浮かんだというのです。それほどに、自分と神との隔たりを感じたということです。神と出会う時、畏怖を覚えたのです。

 預言者イザヤもまた神を見た預言者の一人です。イザヤ書6章5節にイザヤが主を見たときの事が記されています。そこでイザヤはこう言っています。

「ああ。私は、もうだめだ。私はくちびるの汚れた者で、くちびるの汚れた民の間で住んでいる。しかも万軍の主である王を、この目で見たのだから。」

 イザヤもハガルと同様、神を見た時に畏れを覚えました。同時に、自分がいかに汚れたものであるかを知ったのでした。それは、譬えて言うとこういうことです。普段着で歩いていたら、突然昔の知り合いに出会った。今から友達の結婚式があるから一緒に行こうと言われて式場に来てしまう。周りの人たちは綺麗に着飾っているのに、自分はジーンズにセーター。普段なら何も感じなくても、自分がいかにも場違いなところにいると感じる。それと同じようなことが、いや、それ以上のことがここで起こっているのです。

 神を見るということは、自分自身の本当の姿を知るということです。その時、私たちは自分が何者で、神がどのようなお方であるかを知ることになるのです。そして、その時、私たちは真の神を見たということができるのです。

 

今日私たちに語られている御言葉は、「心のきよい者は幸いです。その人は神を見るからです」という言葉です。「心のきよい者は、神を見る」のです。

 私たちは神を見出すことができるほど、心をきよくすることができるのかと考え始めると、答えはでてこないように思えてなりません。神を見ることが私たちには必要だとしても、私たちは神を見ることができません。私たちの前には、神を見ることができないように、何重ものカーテンが覆いかぶさっています。それほど、私たちと神とは全く異なっておられるのです。だから、女奴隷ハガルも、預言者イザヤも、このようなきよいお方を見た今、自分は死んでしまうのではないのかと考えたのです。

 

 今日、私たちは先ほどマタイの言葉に先立って、詩篇51篇を聞きました。ここには、ダビデが罪を犯したときの事が記されています。これは、詩篇の中にある七つの悔い改めの歌がありますけれども、その代表的なものです。ダビデもまた、神の前に出た時、自分が罪深い者にすぎないことに気付いた一人でした。ダビデは勇気のある人物でした。理想的な英雄と言うこともできます。また、信仰の人とも言うことができます。しかし、そのようなダビデもまた罪を犯してしまいます。自分の部下であったウリヤの妻に心を動かし、自分のものとし、ウリヤは戦場の最も激しい所に送り出して殺してしまいます。ダビデの中にある欲望が、そのように心を動かしてしまったのです。そして、そのことを預言者ナタンに諌められて、それが誤りであったと気がつきます。これは、その時の祈りです。

その中で、ダビデはこのように祈りました。

 

 御顔を私の罪から隠し、私の咎をことごとく、ぬぐい去って下さい。

 神よ。私にきよい心を造り、ゆるがない霊を私のうちに新しくしてください。 (詩篇51篇9-10節)

 

 9節でダビデはこう語ります。御顔を私の罪から隠してください、私を見ないでくださいと始めダビデは語るのです。神にこのような自分の醜い心を見られるのは耐えられないと。けれども、10節になりますと、ダビデの言葉は変わります。神よ、あなたが私をご覧になるのは仕方のないことです。ですから、わたしの心をきよくして下さい、私にきよい心を造ってください。揺るがない霊を私のうちに新しくして下さい、と祈るのです。

 「神よ、私をご覧になるなら、私の心は決してきよいとは言えません。神によって王と任命されようと、イスラエルの人々があなたは英雄だと言おうとも、私の心は自分の力ではどうすることもできない。だから、神よ、私の心を造り変えて下さい」と、もはやそう祈ることしかダビデにはできないのです。

 自分勝手な祈りであるというほかないかもしれません。祈祷会で、木曜日にも、ある方が言われました。私たちは様々な間違いを犯す。それによって神さまにご迷惑をかけているのに、私たちの尻拭いを神さまに頼むことしかできない。本当に申し訳ないことだけれども、神様はそのようにして、私たちの罪を赦してくださるのだから、ただただ、ありがたいということしかできないと。

 ダビデは自らの力で、努力で、きよさを造り出すことはできませんでした。だから、神に祈るほかありませんでした。神を見る清い心など、自分の力で造り出すことはできません。そんなに、一所懸命に祈ろうともできません。私たちは、自分の力に絶望するしかないのです。けれども、神は、私たちにこの心を造ることがお出来になるのです。そのために、私たちは神ご自身のことを知らなければなりません。けれどもやはり、私たちは、自分の力では神を知ることさえできないのです。それで、神は私たちに御自身の姿を示して下さいました。私たちに見えるようになって、私たちの所に来て下さいました。それが、イエス・キリストの生涯です。私たちは、主イエスを知ることなしに神を見ることはできません。自分から探し求めて神を見つけ出そうとしても、せいぜい、自分が神と思えるものを見ていることにしかならないのです。

 

 私の好きな讃美歌は、聖歌の400番「君もそこにいたのか」という歌です。讃美歌21にも306番にその歌が載っております。アメリカの南部の黒人たちの生み出した歌です。「君もそこにいたのか」と問いながら、聖歌では五つの問いを投げかけます。

 

君もそこにいたのか、主が十字架につくとき、ああ、心がふるえる、君もそこにいたのか。

君も聞いていたのか、釘を打ち込む音を、ああ、心がふるえる、君も聞いていたのか。

君も眺めていたのか、血潮がながれるのを、ああ、心がふるえる、君もながめていたのか。

君も気がついたのか、突然日がかげるのを、ああ、心がふるえる、君も気がついたのか。

君も墓に行ったのか、主をほおむるために、ああ、心がふるえる、君も墓に行ったのか。

 

 その問いに、ああ、なんだか心がふるえる、ふるえる、ふるえる 君もそこにいたのか、という言葉が繰り返される度に、私は、自分も主イエスの十字架の御前に立たされていることを思い知らされます。

 十字架に掛けられて、私たちのために死なれた御子イエス・キリストは、はっきりと私の前に描き出されるのです。また、聖餐を祝う度に、私たちはパンとぶどう酒を前にして、私たちは「これはわたしの体です。これは私があなたがたのために流した血潮です」という言葉を聞くごとに、私たちは、キリストの姿を思い起こします。そして、イースターによってよみがえられたキリストを、私たちは信じているのです。

 

 神を見る。私たちはそのことを、主イエス・キリストを仰ぎ見ることによって可能とされています。心のきよくない者であるにもかかわらず、神を見ているのです。それを信仰と呼びます。神を見る。それは、信仰をとおして初めて可能となるのです。主イエスによって示された幸いは、主イエスを信じることによって可能となることが、こうして私たちに示されるのです。

 神は私たちに御自身の姿を決して隠してはおられません。このお方は、私たちに知られることによって私たちを示し、主イエスの生き方を示すことによって本当の生き方をしめしてくださるお方です。そして、そのようにして、私たちに御自身をしめしてくださったお方は、私たちの心のうちに、きよいい心さえも起こしてくださるお方なのです。

 それは、ただ、私たちに示された神のいつくしみです。

復活節第三主日が、主のいつくしみ、ミゼリ・コルディアス・ドミニと呼ばれているのは、よみがえりの主が、それほど豊かな心をもって、いつくしみの心を持って、私たちにすべての備えをしてくださったことを思い起こさせているのです。

 この神がすべてのことを成して下さり、わたしたちはただ、それを受けているにすぎません。そして、ただ受け取るだけのようなものに、この神は、「心のきよいものは幸いです。その人は神を見るからです。」と語りかけてくださるのです。私たちは、今、この幸いの中に生きるよう招かれているのです。

 

 お祈りをいたします。

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