・説教 「平和を築き上げよ」 マタイの福音書5章9節
鴨下直樹
「平和をつくる者は幸いです」。今日、主はこの言葉を私たちに語りかけてくださっています。「平和をつくる者」。これは、誰もが願っていることです。誰もが平和でありたいと願っているのです。争いを好む者はおりません。関係を壊したいと思っている者はいないのです。しかし、それならばどうして「平和をつくる」ということはこれほどまでに困難なのでしょう。いつも「不和」で苦しまねばならず、人との関係を築くことで、これほどまでの心を砕かなければならないのはなぜなのでしょう。私たちの中で、誰か一人でも私には争いがないと言える人が果たしているでしょうか。
先ほど私たちは讃美歌21の371番を賛美しました。「このこどもたちが」という讃美歌です。この一節の歌詞の最後に「主よ、守りたまえ、平和を、平和を」とあります。木曜の祈祷会の時のことです。私たちの教会では、この朝の祈祷会の時間、時を同じくして、手話賛美の時間があります。ここでは、次の主の日に歌う讃美歌の内容を確認しながら、この歌詞をどのような手話で表現するのかということを検討するのです。それで、祈祷会の時に、いつも次の礼拝で歌う賛美を歌いますから、この時までは一緒に賛美をしています。そうすると、私たちはそこで、手話の賛美というのを身近で見ることができるわけです。手話というのは、私は詳しくわからないのですけれども、同じ日本語を使いながらも、別の言語であると言えます。この祈祷会の時にも、この「主よ守りたまえ平和を」の「守りたまえ」という言葉を、どのような手話で表現するかが難しいという話になりました。この「守りたまえ」というのは、「お世話をしてください」という意味なのか、「保護してください」という意味なのか、あるいは「続くように」という意味なのか、すべて手話が異なるので内容を吟味しながら決めなければならないのだそうです。
そうすると、そこに座っていた方々が早速口を開きます。それはやはり「保護する」ということではないかと。そうすると、別の方が言う「平和を保護するということとすると、既に平和はあるということになるではないか」と。けれどもそうすると、「平和が続くように」ということでも同じではないか。私はその会話を聞きながら、私たちは普段あまり意識しないで使っている言葉が、実はどれほど多いことだろうかと考えさせられました。あとで、あの手話はどうなったのかと尋ねますと、「約束が守られるように」という意味に理解したということでした。「神の約束の平和が守られ、そこに生きることができますように」と理解したというのです。原文の意味が、手話によってより深められたと私は思います。
しかし、そこで私たちは改めて問わなければならないのは「平和」はすでにあるのかということです。
私たちは、「平和」と聞くと、すぐに考えるのは、戦争の無い状態のことでしょう。辞書を見ると、驚くことにそのように書かれているのです。戦争がないことが平和だと。戦争がないことは確かに平和なことと言えるでしょう。けれども、それが本当の平和かと問うならば、まだまだ様々な争いがあります。国と国、人と人の争いがあります。赦すことの困難な状況が私たちの周りには沢山あります。私たち自身の生活を振り返ってみても、同じことが言えると思います。自分の心の中ですら平安に保つことができないで、毎日様々なことに心を乱されているのです。とすれば、平和はすでにあると簡単に言うことはできません。
かつて、ローマが世界を支配した時、「ローマの平和」という言葉が使われました。「パクス・ロマーナ」という言葉です。この言葉は、武力によってもたらされた平和です。ローマの力、軍事力によって戦争がない世界を作りだしたのです。しかし、それは力で弱い者をねじ伏せたということにすぎません。
ここで用いられている「平和をつくる者」という言葉は、実に珍しい言葉で、聖書の中で用いられているのはこの箇所だけです。けれども、この言葉が一般で用いられたことがありました。それはローマ皇帝のような大きな権力を持つもののことを「平和をつくる者」と呼んだのです。また、その後にでてくる「神の子」という言葉も、聖書の中には多く出てきますけれども、人間を「神の子」と呼ぶ場合と、イエス・キリストは神の子であるという時とは違う言葉を使います。この言葉は大抵の場合、主イエスについて用いられる言葉です。けれども、やはりこの言葉が聖書以外で用いられた時というのは、大権力者、皇帝のことを「神の子」と呼んだのです。つまり、その大きな権力によって平和をつくりだすがゆえに、ローマの皇帝などは神の子と実際に呼ばれていたのです。どんな力にも屈しない力こそが平和を築き上げる、それは神の子という名にふさわしいと考えられていたのです。
当時の人々がそのように考えていた中で、その言葉を主イエスは、主イエスの周りにいる弟子たちや群衆にお語りなりました。この言葉を聞いた時、誰もが驚いたと思います。主イエスの所に集まっている人々は、力のない人々です。言って見れば弱者です。せいぜい自分の家庭の中で、自分の持てる力をふるうことしかできない者です。だとしたら、自分の生活の中で、王を気どって、俺の言うことを聞け!それが秩序だ、とそこにもまた弱者を生みだすようなことを、主イエスは語られたのでしょうか。これは、一体どういうことなのでしょうか。
マタイの福音書の10章34節の中で主イエスはこう語っておられます。
わたしが来たのは地に平和をもたらすためだと思ってはなりません。わたしは、平和をもたらすために来たのではなく、剣をもたらすために来たのです。 (10章34節)
この主イエスの言葉は、地にこれ以上の争いをもたらそうとしておられるのでしょうか。私たちが知らなければならないのは、主イエスがここで「平和」と語っておられるものの内容です。
それは戦争が無い状態のことではありません。まして、私たちが思い描く平和、自分の世界がそこで達成されることではないのです。ですから主イエスはここで、私たちが思い描いている自分のための平和な世界を築き上げよ、と言っておられるのではありません。そのようなものを力によってつくり上げたとして、そこで喜ぶのは自分だけ、あるいは、身の周りの者だけということになります。しかし、だとしたらなおのこと、主イエスは私たちにどのようにして、神の子とよばれるような力をもってして平和を築き上げることができると言われるのでしょうか。
そのために私たちは、聖書が語る「平和」がどのようなものなのかを知る必要があります。聖書の中には、いたるところで「平和」が語られています。おそらく、すぐにいくつもの御言葉が心に浮かんでくるのではないかと思います。旧約聖書の言葉は「シャローム」という言葉です。「シャローム」というのは、挨拶の言葉として日常に用いられてきました。この言葉は「平和があるように」あるいは、「平安があるように」という言葉で訳されます。相手の平和の祝福を語りかけるのです。このように、挨拶の言葉になるほど、イスラエルの人々はこの言葉を大切にしてきました。この言葉は、いつも、心に留めていなければならない言葉として、神を信じる人々の心に刻みつけられてきたのです。忘れることのできない言葉です。
私が学んだ名古屋の東海聖書神学塾の塾長をしておられる河野勇一先生が、この山上の説教の説教集を出しておられます。「神の国のライフスタイル」というタイトルの本ですが、この説教の中で、河野先生は「シャローム」というのは「神の中にある完全」という意味があると書いておられます。神の中に生きているのであればそれは完全に違いないわけで、その中に留まることが「シャローム」、「平和」であるということです。つまり、まず神との関係のことが言われているのです。神と良い関係を持つことなしに、人との関係を回復することはできません。なぜなら、本当の「平和」ということをまだ理解していないからです。平和を知らないなら、平和を築き上げることなど不可能です。なぜ、このシャロームという言葉が挨拶の言葉として用いられるようになったかというと、この言葉はそのまま神の救いを表す言葉だからだと、ある聖書はいいます。神の救いは、神との関係を失っていた私たちが、神と和解することです。そして、この完全なる神の中に生きるようになることです。イスラエルの人々は、「この朝も、あなたは神の救いの中にいるのですよ」、とお互いに挨拶しながらこの神の平安を語りあったのです。
この神の平和、シャロームはどのようにして私たちにもたらされるのでしょう。どのようにして私たちは神と和解することができるのでしょう。
預言者イザヤはこう語りました。
ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。ひとりの男の子が、私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれる。 (イザヤ書9章6節)
私たちを救うために、私たちと和解するために来られるお方は、「平和の君」と呼ばれると語られました。この言葉は約束の言葉として、長い間、人々の希望の言葉となりました。そして、この言葉通りに、主イエスは平和をもたらすためにこの地に来られました。それがクリスマスの出来事です。主イエスは、神と私たちとを和解させるためにおいでになられたのです。神と私たちの関係が完全な状態であるように、神の完全さの中に私たちをおらせるためにです。そして、この主イエスは、私たちと神とが和解するために、贖いの代価として、御自分の命を捧げられたのです。そして、イースターの日によみがえられた主は、マリヤに向かって「シャローム」と語りかけてくださったのです。よみがえりの主は、私たちと神とを和解させ、あなたは今、神との豊かな関係の中に入れられていることを知らせてくださったのです。この主イエスによって、私たちは神との完全な関係の中に生きることができます。そして、この世界にあって「平和をつくる者」になることができるのです。
ヒトラーの時代に生きたディトリッヒ・ボンヘッファーの書いた代表的な「共にいきる生活」という本があります。この本はまさに平和をつくる者となるということは、どのように生きることかということを記した書物です。その冒頭に、敵のただ中にあって生活するということを書いているのですが、ルターの言葉が引用されています。これはボンヘッファーがルターの言葉を短く要約したものですけれども、紹介したいと思います。
「御国は、あなたがたの敵たちのただ中にあるのです。そこにいることを耐えようとしない者は、キリストに支配されて生きることを願わないで、友達のただ中にいようとしバラやユリの中に座っていようとし、悪人たちと共にいることを願わないで、敬虔な人々と共にいようとするのです。ああ、あなたがたは神を冒涜する者、キリストを裏切る者たちだ。もし、キリストがそのようになさっていたら、一体だれが救われただろうか」。
私はこの言葉を目にした時の衝撃を忘れることができません。このルターの言葉は、厳しい言葉です。私たちの心に迫る厳しい言葉です。けれども、私たちはこの言葉を聞かなければなりません。このルターの言葉は、今日、私たちに与えられている、平和を築き上げるということがどういうことであるかを物語っています。
確かに、私たちは悪人たちと共にいたいと思いません。できれば、親切なやさしい人々の中にいたいと思うのです。そして、教会こそ、親切な人々の集まりであると考えてしまいがちなのです。この集まりこそが、神の国なのだから、バラやユリの咲き乱れるお花畑のように、私たちの過ごしやすい場所だと。しかし、ボンヘッファーもルターもそれは間違いだと語ります。いや、主イエス御自身がそうではないと言われるのです。だから、マタイの福音書の10章34節の中で、「わたしが来たのは地に平和をもたらすためだと思ってはなりません。わたしは、平和をもたらすためではなく、剣をもたらすために来たのです」と言われたのでしょう。そして、この「平和をつくる者は幸いです。その人は神の子と呼ばれるからです」と語って、まるで皇帝のような者となるのだと強い言葉を語りながら、あなたがたは、そのような力に生きるのだと言われたのです。
もう一度、私たちは問わなければなりません。主イエスは、どのような力をもって、この地に平和を築き上げようと言っておられるのでしょうか。それは皇帝に代表されるような、力強い権力によってでないことは明らかです。しかし、確かに、平和を築き上げるためには力が必要です。その力とは、主イエスが持っておられた力です。つまり、神と共に生きるところから生じる力です。神が与えてくださる、完全な関係に生きているがゆえに持つ頃のできる力です。悪人を恐れないで憐み、苦手な人から離れるのではなくて近づいて行くことの出来る力です。それは、私は神のものであるという所から生じる、私は救われている、シャロームの中に生きているから、ここに他の人々を招きたいとする心です。この力を、主イエスは私たちに与えてくださるのです。
それは、決して我慢しなければならないようなものではありません。先生がそういうから、私はしたくないけれどもそうしなくてはいけないんだ、などという考えから生じるものでは断じてありません。
先ほど共に聞きました、エレミヤ書の8章10節から11節にこうあります。「預言者から祭司にいたるまで、みな偽りを行っているからだ。彼らは、私の民の娘の傷を手軽にいやし、平安がないのに、『平安だ、平安だ。』と言っている」。
これは、祭司たち、信仰の指導者たちが、神殿の営みをしながら「平和だ、平和だ」心配することはないと偽ったのです。同じ言葉がエレミヤ書の6章にもでてきていますから、何度も強調しなければならなかったほど、そういうことが頻繁に行われていたのかもしれません。まやかしの平和と言う者があるのです。信仰の指導者が、大丈夫だと言うことで見えなくしてしまうこともある、ということをエレミヤは厳しくついています。しかし、ボンヘッファーもルターもそのような偽りを語りませんでした。厳しい言葉だと思われたとしても、語らなければならない言葉があるからです。人に聞きやすい言葉ばかり語ることはたやすいことですが、そうして見失われてしまうものがあることのほうが恐ろしいことです。主は、ここではっきりと、「平和を築き上げる者になろう」と招いていてくださるのです。それは、我慢の上に成り立つ平和ではなく、神から与えられる平安が生み出す、まことの平和です。
私たちに平和を与えるためによみがえられた主イエスは、この間違った力の支配する世界にあって、神の平和を築き上げることができるように、私たちを力づけてくださいます。復活節第四主日を今日、私たちは祝っています。この日のことをユビラーテと言います。「全地を、喜べ」という詩篇66篇の一節の言葉が、この日のために与えられているのです。それは、この平安を与えてくださる方によって救われていることが、私たちの生きる力となるからです。私たちは、この主イエスによって喜びが与えられるのです。このイースターの喜びに生きることこそが、私たちの力です。
私たち自身が平和であることを難しくさせている様々な問題を乗り越えさせる力、人と新しい関係を築き上げていく力も、人を赦すことができる力も、すべてこの復活の主によって私たちに与えられるのです。そうして、この世界に、平和を築き上げる者となることのできるようにされるのです。主イエスはこの神からの喜びの力を与えてくださり、そればかりか、この私たちを、神の子と呼んで、ローマ皇帝の力に勝る者として、この敵の多く感じる世界に、平和をもたらす者として使わしてくださっているのです。
お祈りをいたします。