・説教 「キリエ・エレイソン」 マタイの福音書 5章7節
鴨下直樹
復活節第二主日を迎えました。この日には「クアジ・モド・ゲニティー」という名前が付けられております。ペテロの手紙第一 2章2節の「生まれたばかりの乳飲み子のように、純粋な、みことばの乳を慕い求めなさい。それによって成長し、救いを得るためです」という御言葉がこの日のための言葉として私たちは聴くのです。この「クアジ・モド・ゲニティ」という言葉は、第一ペテロの御言葉の「生まれたばかりの乳飲み子のように」と言う最初の言葉をラテン語にしたものです。イースターによって新しくされたことを祝う者は、乳飲み子のように御言葉を聴くことから始めるということを、教会は暦の中で教えて来たのです。このようなあまりなじみの無い言葉を聴くと、これは一体どのような意味なのだろうかと考えられるのではないかと思いますけれども、そこには大切な意味があるのです。
また、この朝の説教のタイトルもあまりなじみのない言葉であると言えるかもしれません。このタイトルをご覧になって、同じように、この言葉はどういう意味かと考えられる方があるのではないでしょうか。「キリエ・エレイソン」というのは、もちろん、これは「クアジ・モド・ゲニティ」という言葉より知られた言葉ですから、知っている方、あるいは耳にしたことがある方は少なくないと思います。この言葉はラテン語で、日本語にすると「主よ、あわれんで下さい」という意味の言葉です。昔から礼拝の中で悔い改めの祈りの後に、この「キリエ」が祈られてきました。ドイツのある教会で礼拝に招かれた時に、その教会でも、牧師がその日の短い祈りを祈りますと、会衆が続けて「キリエ・キリエ・エレイソン」と歌います。そういう祈りが何度も繰り返されて、共に主のあわれみを求める祈りをするのです。考えてみますと、祈りというのは、主のあわれみを求めることだと言えます。私たちは神に祈る時、神のあわれみを求めざるを得ないのです。
四月になりまして、まさに、新しい歩みを始められた方々が多くあると思います。先週、色々な方が新しい歩みを始められたと思います。名古屋の神学校でも、新しい神学生たちが入ってまいりまして、すべての神学生は、入門クラスという授業を取ることになります。これは、これから神学校の生活が始まるのに先立って、神学生としての基本的な備えをしておこうという授業です。家庭礼拝の仕方、レポートの書き方、教会で奉仕をするための心得、さまざまなことを学びます。昨年から、この授業を受け持ってほしい、と前任の後藤先生から頼まれまして、この授業をすることになったのです。まさに、今生まれたばかりの乳飲み子のような学生たちに、最初に出す宿題があります。それは、毎週、自分がどのように聖書を読んで祈ったかを書いて出しなさいという課題です。その最初の講義ですので、簡単な自己紹介があります。既に知っている方もあれば、初めて出会う方もありますがみな緊張した顔をしています。そこには、一人一人の様々な歩みがあります。そのような歩みの中で、主の御言葉を聴き続けて、神学校に来ることを決断する。自分の歩みを、神のために使って戴きたいと決意する。そのような決意の中で神学生のしての学びが始まります。聖書を読んで祈るという生活を土台として神学生生活が営まれるのですが、そのような生活の中心にある祈りも、やはり、「主よ、あわれんで下さい」という祈りになると思います。この「主よ、あわれんで下さい」という祈りは、祈りの自然な姿です。
今日の聖書は「あわれみ深い者は幸いです。その人はあわれみを受けるからです。」という御言葉です。この言葉は、特別なことを言っているわけではありません。人に対して憐れみ深くありなさいという言葉は、聖書の中だけでなくとも、様々なところで語られている言葉です。可哀相な人を思いやりなさいと言われると、それはそうだと思う。特別に難しいことではないだろうと思います。あわれみの心の無い人、可哀相な人を思いやることの出来ない人などいないし、自らあわれみの心を閉ざそうなどと考える人もないと思います。人は誰でも、そのようなあわれみの心を持っています。まったく神に目を向けなくても、人は良いことをすることができるのです。
けれども同時に、特に親しい人との関係において、私たちはあわれみ深くあることができないことも知っています。身近な人なのだからなぜ仲良くできないのだろうか、などと考えてもどうしようもありません。この人は、今可哀相な状況に立たされていて、同情するべきだということは良く分かる。その人の事情も良く分かるけれども、それが自分に関係することとなると、途端に赦せないという気持ちに支配されることがあるのです。同じ状況にある他の人には思いやりの心を持ち、親切にすることができるのに、家族になると、身近な人になると、そうすることができない。特に、自分と関係してくると出来なくなる。一体なぜそうなってしまうのでしょうか。
その人の事が分かれば分かるほど、可哀相なことでもなんでもない。身から出た錆だ、当然の結果だ、というような自分の判断が伴う。まして、それによって自分が何か少しでも被害を被ろうものなら、たちどころに私たちの心は冷めてしまいます。そして、この人が可哀相な状況に陥っているのは、まさに正しいことなのであって、同情に値しないという判断がそこから生まれてくるのです。反対に、罰があたったのだ、いいきみだ、などという思いさえも心の中に浮かんできてしまうのです。相手の事情が分かるだけに、思いやることができない。あわれみの心に生きることができないというのは厳しいことです。同時に、相手には自分の事情が分かっているはずなのに、同情してもらえない、思いやって貰えない、むしろそのことで勝ち誇っているような気がするなどというようなことも、また非常に悲しいことです。とても辛いことです。そのような可哀相な事態に置かれているというような時に、両者の間ですぐに起こってしまうのは、自分の方こそ被害者であるという気持ちになってしまうということです。そして、不思議なことに、お互いにそのように考えてしまうのです。しかし、それで良いと言うことはできません。私たちはそのような冷たい心に留まり続けて良いのかと問わなければなりません。また、自分の方が悲しみが大きいのだ、自分の方が被害者だ、などと悲しみの大きさを比べあって誇ったところで、そこから果たして何が生まれるというのでしょう。
主イエスは私たちにそのような心があることを、思いがあることをよく知っておられます。ですから、この「あわれみ深い者は幸いです」という言葉が、「義に飢え渇いている者は幸いです」という言葉に続いているのも、やはり偶然なく、意図されたものであることを心に留める必要があります。この順序がやはり大切なのです。自分の判断で、自分の正義を基準として判断していれば、あわれみの心に生きることはできません。それでは、人を赦すことができないのです。けれども、自分の弱さを知り、神こそが正しくなさることに期待し、神の義に生きるならば、あわれみの心に生きることになるのです。だから「あわれみ深い者は幸いです」と主イエスは語っておられるのです。
この「あわれみ」と言う言葉は、私たちが普通この言葉を使う時には感情的な言葉、情緒的な言葉として使いますけれども、新約聖書のこの言葉はそのような言葉とは少し違っています。ギリシャ語聖書辞典を書かれた織田昭という牧師は、この言葉は赦しの大きさと結びついた言葉で、自分を傷つけた人を赦すことができるかということが問われている言葉だと言います。あるいは、別の人は「施し」という言葉と関連していて、実際に手を差し伸べることがこの言葉の意味であると言います。つまり、「あわれみ深い者」というのは心の中でそう思っていればいいというようなことではなくて、実際に赦す、自分の行為、行動として相手に赦しの手を差し伸べるということです。
では、それはどうしたら出来るようになるのかと言いますと、それは、やはり自分の正しさに留まっていてはいけないし、自分は被害者であるという思いに留まっていることでもないということになります。自分の怒りや失望に負けてしまわないで、それを乗り越えた愛の行為が、主イエスが語っておられる「あわれみ」という行為なのです。
そうであるとするならば、私たちは「あわれみ」に対して貧しい人間であると言わざるを得ません。私は、ここでも、あそこでも、こんなに沢山のあわれみのわざをしてきましたなどと誇ることはできないことに気づくのです。自分はこんなに赦してやったはずだというような優越感、自分はこれまでにこれだけの寄付をしたとか、あわれみの行為を施してきたなどというような優越感に浸ることもできません。自分の醜さ、自分の弱さに途方にくれながら、このような私をあわれんで下さいと祈る以外に何もできないのです。だから、教会では昔から礼拝の最初にキリエ・エレイソンと祈ってきたのです。「主よ、これほどにあわれみの心に貧しい私をあわれんで下さい。」と祈るほかないのです。何度も、何度も、「キリエ・エレイソン」と祈ることが私たちにできる小さなこと、そう祈る以外に出来ることはないのです。
そして、それと同時に、主イエスが指示して下さるあわれみに自らも生きるということです。つまり、赦すということです。自分の悲しみや、怒りや、嘆きを捨てて相手を赦すのです。それは、自分が弱い存在でしかない、神に赦していただかないと生きて行かれないのだからわたしも相手を赦していこう、と決めるということです。
この「あわれみ深い者は幸いです」という御言葉が説かれるときに、よく一緒に読まれてきた主イエスのたとえ話があります。このマタイの福音書の第18章21節以下に記された一万タラントの借金をして返せなくなったしもべの話です。一万タラントというのは、新改訳聖書には注がついておりまして、一タラントは六千デナリと書かれています。一デナリは、大人が一日働いて貰える賃金だと言われています。仮に、一日一万円で計算しますと、一万タラントというのは、六千億円ということになります。返せるはずもない大金です。このしもべはきっと「全部返しますから少し猶予をください。」と言って、主人にあわれみを求めます。この主人は、このしもべを可哀相に思って借金を免除してやった。ところが、この男は、今度は彼に百デナリの借金をしていた者に出会います。先ほどの計算で言えば百万円になります。この百万円の借りがあった男の首を絞めて許さなかったというのです。六千億などという金額はあまりにも大きな金額なので現実味がないような気がしてきますが、それでも、この物語が語ろうとしていることは良く分かると思います。沢山赦された者はそれだけ大きな喜びを知っているから沢山ゆるせるはずなのに、ということです。
多く愛された者は多く愛することができます。多く赦された者は多く赦すことができます。それは、「あわれみ」の心の中で生じる優越感など引き起こさず、心から赦す者となる、自らあわれみの行為に生きることができるようになる経験をするのです。私たちは、私たちの神、主に多くの物を赦されてきました。六千億円分も、などと言われると分からなくなってしまうかもしれませんが、身に余るほどの恵みを受けたことは確かです。それが、十字架と復活によって私たちにもたらされました。神の御子主イエスがその私たちのための赦しの代価となりました。これによって、私たちは救いを受けたのです。新しくされたのです。神と共に生きるものとなったのです。
私たちは、まさに、今、生まれたばかりの乳飲み子のような状態だと言わなければなりません。乳飲み子は、何が何だかまだよくわかっていないのです。ただ、目の前に差し出されたミルクを飲む以外にありません。そのように、今、私たちの前に神の御言葉が与えられているのです。あなたのあわれみは貧しい。そのことを知っている者は幸いだ。神のあわれみに生きる他ないことをしるのだから、とこの御言葉は私たちに語りかけてくるのです。私たちの内にあわれみの心がないことを知り、主のあわれみを求める以外に私たちに出来ることがあると思えません。そこに生き続けるならば幸いを見るでしょう。主がそこに与えようとしていてくださる幸いをです。
自分が損をしても、自分ではどうすることもできないのだから、主イエスのあわれみを求めながら相手を赦す、そういうところに見えてくる幸せが必ずあるのです。主イエスの十字架と復活がそのしるしです。主イエスが、父なる神に信頼してその命さえも惜しまないで捨てられたところから、愛が示されました。愛すべき価値のないものを愛して下さったことが分かった。少なくとも、あなたには分かったのです。だから、主イエスを信じたのです。であれば、私たちも、損だと思っても相手を赦し、受け入れる時に、そこにある愛が、あなたの心が相手に届くと信じることは難しくないはずです。そして、私たちはそのように生きることができように、とひたすらに主に向かって祈るのです。
「キリエ・エレイソン」、「主よ、あわれむことにおいて貧しいこの私をあわれんで下さい」と。
お祈りをいたします